大塚遺跡(読み)おおつかいせき

日本歴史地名大系 「大塚遺跡」の解説

大塚遺跡
おおつかいせき

[現在地名]港北区中川町

早淵はやぶち川を南に望む標高五〇メートルほどの広い台地上にある。南西部に近世の塚があるところから、台地一帯は古くから大塚とよばれていた。

昭和四八年(一九七三)から三年間全面発掘を行った結果、弥生時代の竪穴住居跡約一〇〇、高床住居と考えられる柱穴跡二とそれらを取巻く環濠などを検出竪穴住居跡は遺跡の南西部に分布する後期の七を除くとすべて中期の宮ノ台期のものである。

大塚遺跡
おおつかいせき

[現在地名]修善寺町大平 大塚

狩野かの川が中流域にさしかかる付近で形成した河岸段丘の第一―第三段丘面に営まれた遺跡。縄文時代後期前葉―中葉を中心とし、東西・南北ともに約二四〇メートルの広がりをもつ。昭和五五年(一九八〇)に道路部分のみの発掘調査が行われたが、住居跡一九棟・土坑六一基など多くの遺構が検出され、県東部の該期を代表する集落跡であると考えられる。住居跡の時期は中期前葉一棟、中期末(加曾利EIV式期)一棟・後期初頭(称名寺式期)一棟・後期前葉一四棟(堀之内I式―加曾利BI式)・時期不明二棟で、集落は中期末から継続するものの後期前葉に規模が拡大する。

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改訂新版 世界大百科事典 「大塚遺跡」の意味・わかりやすい解説

大塚遺跡 (おおつかいせき)

横浜市都筑区,早淵川中流左岸の標高約50mの台地上に位置した弥生時代中期の集落跡。港北ニュータウンの開発計画にともなって1973年から3ヵ年の歳月を要して全域を発掘した。集落は,断面V字形をした溝でとり囲まれ,その平面規模は長軸200m,最大幅130mの変形楕円形で,なかに竪穴住居跡が97基発見されて環濠集落全容が明らかとなった。住居跡の基本的な形は隅丸長方形か小判形で,主柱4本からなるものである。住居跡97基のうち90基は宮ノ台期に属するが,互いに重複し合うものがあり,集落に何回かの変遷があったことが指摘されている。また,谷ひとつを隔てた隣の台地上には宮ノ台期に属する25基以上の方形周溝墓群があり,歳勝土(さいかちど)遺跡と呼んでいる。両者は居住区と墓地の全域が発掘された最初の事例であり,その有機的関連を追究する格好の遺跡となった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大塚遺跡」の解説

大塚遺跡
おおつかいせき

横浜市都筑区大棚西の比高40mの台地上にある縄文早・中期と弥生中・後期の複合遺跡。とくに弥生中期の環濠(かんごう)集落として知られる。環濠は幅4m,深さ1.5~2m,地形にそって繭(まゆ)状にめぐり,長軸200m,幅130m,面積2万2000m2の規模。環濠の外側に土塁を設けていたことが推定されている。環濠内には約90軒の竪穴住居跡と10棟の倉庫跡がある。竪穴住居群は三つの群にわかれ,それぞれ一時期10軒ほどの竪穴住居と,1~2棟の倉庫から成り立っていたとされる。遺物は土器・石器・管玉(くだたま)・炭化米やモモの種子など。石器には各種の磨製石斧(せきふ)類が多く,関東地方では数少ない鉄剣形石剣もある。同じ尾根上のすぐ南東には当集落の墓域である方形周溝墓群の歳勝土(さいかちど)遺跡がある。両遺跡は国史跡。この地域の拠点集落としてだけでなく,弥生集落の構造理解にも大きな意味をもつ。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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