大島(読み)おおしま

精選版 日本国語大辞典 「大島」の意味・読み・例文・類語

おおしま おほしま【大島】

[1]
[一] 鹿児島県、奄美(あまみ)諸島の主島。奄美大島。
[二] 東京都、伊豆諸島の最北端にある伊豆七島の主島。中央火口丘(三原山)をもつ複式火山島。面積九一平方キロメートル。富士箱根伊豆国立公園の一部。伊豆大島。
[三] 和歌山県最南部の島。中心の大島港はかつての近海捕鯨の基地で、対岸の串本港との間に巡航船が通じる。串本節で有名。吉野熊野国立公園の一部。紀伊大島。
[四] 福岡県北部、玄海灘の東部にある島。宗像(むなかた)神社の中津宮がある。
[五] 山口県南東部、瀬戸内海にある島。屋代島。周防(すおう)大島。
※古事記(712)上「次に大島を生みき」
[六] 愛媛県北部、芸予諸島南部の島。大島石を産出する。西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)が通じる。
[七] 山口県の南東部、瀬戸内海上の郡。
[八] 鹿児島県の南西部、奄美大島からなる郡。かつては吐噶剌(とから)列島・口之三島も含まれていた。
[2] 〘名〙
① 大きな島。
西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉五「錫蘭(セイロン)は前印度海角の大島(オホシマ)にして」
※新梅ごよみ(1901)〈永井荷風〉四「小紋縮緬の羽織に、大島紬(オホシマ)の荒い飛白の小袖」

おおしま おほしま【大島】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「大島」の意味・読み・例文・類語

おお‐しま〔おほ‐〕【大島】


東京都、伊豆諸島中最大の火山島。大島支庁に属する。中央に三原山がある。昭和61年(1986)に大噴火し、全島民が島外に避難した。面積91平方キロメートル。伊豆大島。
和歌山県南部、潮岬の東方にある島。串本節で知られる。面積9.5平方キロメートル。紀伊大島。
山口県南東部、瀬戸内海にある島。ミカン栽培が盛ん。昭和51年(1976)完成の大島大橋で本土と結ばれる。面積129.6平方キロメートル。周防すおう大島。屋代島やしろじま
鹿児島県、奄美あまみ群島の主島。亜熱帯気候で高温多雨。天然記念物アマミノクロウサギが生息。大島つむぎの産地。面積709平方キロメートル。奄美大島。
北海道南西部、日本海にある島。松前町の西方60キロメートルにある火山島で、日本最大級の無人島。面積9.73平方キロメートル。オオミズナギドリの繁殖地。渡島おしま大島。松前大島。
福岡県宗像市にある島。宗像大社の中津宮と沖津宮遥拝ようはい所がある。面積7.17平方キロメートル。筑前大島。宗像大島。
大島紬つむぎ」の略。

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日本歴史地名大系 「大島」の解説

大島
おおしま

伊豆大島ともよばれ、伊豆諸島中最大の島。都心から南方約一二〇キロ、最も近い伊豆東海岸からは南東方約二五キロの洋上に位置している。面積九一平方キロ。最高峰の三原みはら(七五八メートル)は活火山である。主たる集落は元町もとまち岡田おかだ泉津せんづ波浮港はぶみなと差木地さしきじ野増のましですべて海岸に面している。明治三四年(一九〇一)坪井正五郎らにより龍ノ口たつのくち遺跡が紹介されて、はじめて大島に遺跡の存在が知られるようになった。以後、現在まで五一ヵ所の遺跡が確認されている。下高洞しもたかぼら遺跡では伊豆諸島最古の縄文時代早期の竪穴住居跡が発見されて注目された。鉄砲場岩陰てつぽうばいわかげ遺跡は、伊豆諸島唯一の縄文前期の岩陰遺跡として知られる。龍ノ口遺跡は縄文中期の遺跡で、後期から晩期にかけての遺跡では下高洞遺跡、弥生時代の遺跡ではカンさわ遺跡・ケイカイ遺跡・下高洞遺跡、古墳時代の遺跡では大久保おおくぼ遺跡・和泉浜いずみはまC遺跡・野増遺跡などがあり、奈良時代の遺跡ではオンダシ遺跡などがあげられる。

「日本書紀」推古天皇二八年八月条に掖玖やく(屋久島)の人(二口)が「伊豆島」に漂着したとの記事がみえ、この伊豆島は伊豆諸島のことをさしていると思われる。その後、伊豆島には麻続王の子(同書天武天皇四年四月一八日条)田史名倉(同書同六年四月一一日条)などが流されており、伊豆島が流刑地とされていたことがうかがえる。神亀元年(七二四)伊豆は安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐とともに遠流の地に定められている(「続日本紀」同年三月一日条)。文武天皇三年(六九九)五月二四日、役小角(役行者)が「伊豆嶋」に流されているが(続日本紀)、「扶桑略記」同日条には「仍配伊豆大島」とあり、小角の配流地は大島と考えられる。永久元年(一一一三)には山城醍醐寺の仁寛(真言立川流の祖)が罪科を得て「伊豆大島」に流されている(「殿暦」同年一〇月二二日条)。保元の乱に敗れた源為朝は近江国坂田さかた山で捕らえられて伊豆大島に配流された(「保元物語」など)。その後、大島や近隣の島々を掠領したため伊豆介狩野茂光に攻められて敗死したとされる。しかし不世出の英雄の死を認めようとしない伊豆諸島の人々は為朝伝説を作り上げ、遠く琉球に至り、琉球王の祖舜天の父となったとしている。「延喜式」神名帳にみえる伊豆国賀茂かも郡の「波布比売ハフヒメノ命神社」は波浮港の羽布比はぶひめみこと神社、同郡「阿治古アチコノ神社」は野増の大宮おおみや神社、同郡「波治ハチノ神社」は泉津の波知加麻はちかま神社にそれぞれ比定される。

大島
おおしま

中世にみえる島名で、宇野うの御厨のうち。モンゴル襲来を受けて烽火が設置されたことで知られる。前平まえひらにはモンゴル襲来に際して戦死した者のものという石積みの墳墓が二基あり、千人塚せんにんづかと称される。この元寇ののち大島氏はじよう山に築城を計画、幅八間の道を普請したらしいが、完成しなかったという。近世は平戸藩領。

〔地頭大江氏〕

貞応三年(一二二四)四月一四日の関東下知状写(武雄鍋島家文書)に「大島」とみえ、宇野御厨内の当地などの地頭職が大江通頼に安堵されているが、通頼は「肥前国御家人字峯太郎通頼」ともあるので(同年六月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)、峰披の一流であろうと思われる。寛喜元年(一二二九)関東からあらためて当地などの地頭職および神官検非違所・海夫本司が通頼に安堵されており(同年一〇月三〇日「関東下知状写」同文書)、同三年に大宰府守護所から施行されている(同年四月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)。通頼の所領のうちで、大島などは通時の兄弟と考えられる通綱の知行となったと思われ(嘉禎四年一〇月九日「関東下知状写」同文書)、文永七年(一二七〇)御家人の大島次郎通綱の子の通清および同じく舎弟の地蔵丸に大島地頭職ならびに検非違所・海夫等本司職が相伝されている(同年九月一五日「沙弥乙啓奉書」来島文書、以下断りのない限り同文書)

文永一一年三月二七日に通清は和与状を作成しているが、これは通綱の遺領を通清と地蔵丸(通継か)が再配分したものと推定され、大島は通清に伝領されたらしく、通継は嘉元二年(一三〇四)に通明(通清の子)の大島の所領を違乱しないことを約束している(同年三月二〇日大江通継等連署和与状)。この間、大島弥二郎通継は文永一〇年に関東から国々の悪党の蜂起を停止するよう守護を通じて命じられ(同年一一月一六日肥前国守護少弐資能施行状)、正応六年(一二九三)平禅門の乱が起きると関東からの早打に応じて鎮西探題のもとに馳せ参じている(同年五月九日大島通継着到状)。一方、通清は弘安の役に参陣したらしい(弘安六年三月二二日「鎮西御教書」山代文書)。元亨二年(一三二二)「大島地頭」が肥前国一国平均役の河上かわかみ(現佐賀県大和町)の造営用途を弁済しなかったとして鎮西探題が催促しているが(同年一一月二〇日「鎮西下知状案」実相院文書)、これも大島氏であろう。

大島
おおしま

[現在地名]萩市大島

島の北東の海上約二キロにあり、面積は三・六九平方キロで、六島中最も大きい。東西七町、南北一九町、島回り一里一八町で(地下上申)、集落は島の南端近くに密集。浜崎宰判所属。

永正五年(一五〇八)頃と推定される大井おおい八幡宮の御済納米銭役人文書に「大島」として、「御幣紙三帖 駕籠丁三人 相(撲)二人 長莚六枚 御供粟三升 御菜三数 筌一 柄杓一」と記され、室町時代末期には阿武あぶ郡二〇郷とともに農産物などを神社に済納する島であった。

大島の開発時期は明らかでないが、七名の平家落武者によって開発されたという「七名しちみよう」の伝承がある。七名とは平家落人の子孫と伝える長岡・刀禰・池部・国光・吉光・豊田・貞光の七旧家で、これら七名は江戸時代中期まで庄屋や畔頭を勤めたという。昭和五四年(一九七九)の全戸数三二四戸のうち、これら七名の姓が半数以上を占め、なかでも長岡姓は全戸の五分の一を超える。島の南にあるえき神社の傍らに長岡氏の墓と伝える古い宝筐印塔があり、付近に五輪塔や宝筐印塔の断片が散乱する。そのほか室町時代の様式を伝える刀禰様・池部様・国光様とよばれる五輪塔・宝筐印塔もある。

大島
おおしま

[現在地名]吉海よしうみ町・宮窪みやくぼ

今治いまばり市の北東、来島くるしま海峡を隔てた四キロメートル余にある南北に長い島。面積約四七平方キロで、越智郡島嶼部中では大三島おおみしまに次いで大きい。現在の行政区画では、東北部の宮窪町と、西南部の吉海町とに二分される。全島ほとんど花崗岩の山地で、北部に念仏ねんぶつ(三八一・九メートル)、東部に高取たかとり(二三三メートル)、南部に亀老きろう(三〇七・八メートル)などが連なり、沿岸には宮窪湾に注ぐおお川、吉海湾に注ぐ舫大もやいおお川・仁江にえ川による狭少な沖積平野が形成されている。

下田水しただみから津倉つくらの沿岸部には縄文土器、南西部で国指定名勝の八幡やわた山山麓付近には弥生土器が分布し、島内では藤崎ふじさき庄屋谷しようやだに名駒なごま峠などの古墳が知られている。

大島
おおしま

[現在地名]大島町 太田尾おおだお塔尾とうのお田の浦たのうら徳万とくまん黒瀬くろせ馬込まごめ中戸なかとはまぐりなど

外海沖に浮ぶ大島・てら島および無人島のはしノ島・なかノ島・かた島などを村域とする。「ううしま」とも。北端の牛首うしくびノ鼻の南東に遠見とおみ岳があり、南部に引掛ひきかけ崎がある。大村領の外海そとめに属し、枝村に百合ゆり岳などを境とする黒瀬村がある。慶長一七年(一六一二)の総検地では大島として高二九石余とあるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は一九石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。正保元年(一六四四)大島番所が設置され、外海一六ヵ所番の一つとして小給一、小船一・水主二が配備され、鉄砲二・軍弓一・鎗一・幕半頭・三道具一を備え、番士が詰め、制札場があった(大村見聞集)

大島
おおしま

[現在地名]鶴見町大島

梶寄かじよせ浦から元間もとま海峡を挟んで北に位置する。周囲二里六町。属島に高手たかて島・小間こま島・大松おおまつはえさき舵掛瀬かじかけせおきがある。慶長元年(一五九六)八月二日、玄与一行が「大島」の浦で船泊りしている(玄与日記)。元禄郷帳・天保郷帳では中浦なかうら村に含まれたと思われ、元禄見稲簿に大島とみえ、中浦村の内で無高。旧高旧領取調帳では大島で高付され、高三八石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では中浦村の枝郷で、地内に田野たの(浦)がある。


おおづちじま

[現在地名]玉野市日比五丁目、香川県高松市香西町

日比ひびから南約三・一キロに浮ぶ無人島で、周囲一・六キロ、中央の標高一七〇・八メートルの山頂を中心に北側が玉野市、南側が高松市に属する。南約二・一キロに一回り小さい小槌こづち島があり、この間を古くより槌戸つちのとといい、潮流の早い難所であった。康応元年(一三八九)三月の将軍足利義満の安芸厳島神社参詣に随行した今川貞世の「鹿苑院殿厳嶋詣記」同月四日条に「つちのとといふは。

大島
おおしま

出羽てば島の東にある島。牟岐港の東南東約七キロにあり、周囲約八キロ。正保国絵図では牟岐浦の三里沖に大島が描かれる。正保二年(一六四五)牟岐浦の青木家は大島でのキリシタン制道役を命じられ、また塩懸りの船も改めるよう命じられているが、このとき大島・出羽島は青木家に扶持として給されたという(「宗門改他申付覚」御大典記念民政資料)。慶安二年(一六四九)「牟岐之内大島出波島」に移住した者は諸役を赦免することが通達されている(「諸役免許覚」青木家文書、御大典記念民政資料)

大島
おおしま

日南海岸中最大の島で、南郷町の沖合約二キロにあり、大字中村乙なかむらおつに属する。南北に細長く、面積は約二・二平方キロ、周囲は約九・四キロで、最大標高は二〇六・一メートル。天然の良港油津あぶらつ(現日南市)を形成する同港東部にあたる大節おおふし鼻から南に下り、ななッ岩(七八重島)小場こば島などの岩礁・小島を順に南下し当島に至る。周囲は岩石海岸で、とくに太平洋に面する東岸は険しい海食崖が続く。南郷町目井津めいつ港と島西部の小浜こはま港・竹の尻たけのしり港を結ぶ連絡船の便がある。

大島
おおしま

[現在地名]小値賀町大島郷おおしまごう

小値賀島の南西、藪路木やぶろき島の南に位置する大島全域を村域とする。南北朝期から室町期にかけてのものとされる五輪塔がある。西方沖の美良びりよう島に豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵する際に長楽ちようらく寺を建立して戦勝祈願を行ったと伝える。江戸時代は小値賀島のうちで、慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に大島とみえ、高四〇石余。慶長国絵図でも同様。正保四年(一六四七)の小値賀郡代書付(五島堺目旧記)では高一〇一石余で、家数一八となっている。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では小値賀内に大島免、寛文四年(一六六四)の松浦鎮信領知目録(寛文朱印留)に大島とある。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では高四一石余。

大島
おおしま

[現在地名]八幡浜市大島

八幡浜港から定期船で五〇分、面積〇・八平方キロの島。「沖ノ大島」ともいった。寛文八年(一六六八)穴井あない浦から七戸が移住して漁場と集落の開発を始め、同一一年新浦として藩から認められた。延宝三年(一六七五)四月六日の宇和島藩家老桜田監物の書状墅截)には「穴井浦之内大島之儀、近年新浦に申付、百姓召付候処、小網一帖仕出度之由、去年も申出」とある。漁場(網代)は「八幡浜十人網と相定」めて認可された。享保三年(一七一八)八月一一日には、「穴井浦之内大島、近年人数多罷成有来候、元網計にてハ渡世難成候ニ付、古網等取合新網壱帖仕出度」(大島井上文書)とあり、新網(結出網)一帖の操業を認可されている。

大島
おおしま

[現在地名]阿久根市波留

阿久根港の西方沖合約二キロに浮ぶ島で阿久根大島ともいう。周囲は約四キロ、面積は約〇・五平方キロ。すぐ北にはくわ島、少し離れた東方には島・元之もとの島の小島が連なり、古くから母子ははこ島の別称がある。南側は奇岩・絶壁の連なる急崖、北側は白砂の海岸となっていて、全島を老松が覆う景勝の地で、歴代鹿児島藩主ほか多くの文人墨客も訪れている。島の中央にある金比羅こんぴら神社は、天明四年(一七八四、一説には同七年)藩主島津重豪が阿久根湊の御用商人河南源兵衛が所有する琉球貿易船の航海安全を祈願して創建した神社という。

大島
おおしま

[現在地名]郷ノ浦町大島

壱岐島と約一キロの大島瀬戸を挟んで渡浦わたら村と対峙し、南のなが島、南東のはる(原島)と合せて渡良わたら三島と称される。南に珊瑚さんご崎、北にかみなり崎があり、沖に島・前児まえこ島が見える。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に大島とみえ、高二九石余。正保国絵図では大島として長さ一〇町一〇間・横五町五三間とある。天保郷帳に大島の枝島として春島・長島がみえる。

大島
おおしま

紀伊長島町の南南東約六キロの熊野灘に浮ぶ無人島。約四〇〇×約六〇〇メートルの主島と、その北部から西にあるぞう島からなり、二島併せて大島とよぶ。付近が好漁場であるため、島の所有をめぐって長島浦と島勝しまかつ(現海山町)は永年にわたって争った。享保一〇年(一七二五)和歌山藩木本きのもと代官所は双方がともに漁業のできる入会地に裁定したが、その後も問題は再燃した。明治九年(一八七六)争いが起こったとき裁判所は行政区画としては長島浦とするが、島の所有権は長島浦・島勝浦のいずれにもなく、国有地であるという判決を下した。双方の控訴の結果、享保一〇年の入会地が認められ、現在も長島浦と島勝浦の共有地になっている。

大島
おおしま

[現在地名]平内町東田沢

夏泊なつどまり半島の先端、夏泊崎の海上一八〇メートルにあり、面積二〇・七ヘクタール。島の南半は広葉樹、北半は美しい芝生である。干潮時には徒歩で渡れたという。正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図に夏泊崎は「大間崎」とあり、「大嶋」の名も記される。海岸には大間おおま村があり塩を焼いていたが、いつか廃村になったという。

享保四年(一七一九)大間喜兵衛らが北端に弁財天を勧請し、海上安全を祈ったという。

大島
おおしま

三谷みや海岸から南方約三キロ沖合にある花崗岩の島で、周囲約二キロ、高さ四六メートル、面積約一〇万平方メートル。「三谷村誌」に口碑に伝えるとして、形原かたのはら村と三谷村との間で所属をめぐり争いがあったが、両村海岸より時を期して先着の村の所属と評決され、三谷村所属となったという。

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改訂新版 世界大百科事典 「大島」の意味・わかりやすい解説

大島 (おおしま)

伊豆諸島最北部にある最大の島。東京都大島支庁大島町に属し,1島1町をなす。面積91km2。人口8461(2010)。活火山三原山(758m)を最高点とする火山島である。北北東~南南西に長い紡錘形の島で,東部や北部の海岸は急崖をなす。源為朝などが流された島として知られ,江戸時代は韮山代官が支配した天領であった。おもな集落は西および南側の緩やかな斜面の海岸近く(卓越風の風下)に発達している。約9000年前から人が住み,最も早く開かれたのは,かつて新島村といわれた現在の元町で,この島の西玄関口となり,中心集落でもある。北西端の乳ヶ崎(ちがさき)をはさんで東側には岡田があり,西風の時は岡田港が,東風の時は元町港が利用されている。また南東端の波浮港(はぶみなと)は860年(貞観2)ころの大噴火に伴ってできた火口湖を利用して人工的に開いた港で,漁船の避難港,南の島々への中継港として重要性をもっている。泉津と波浮港の一部を除いては地表水に恵まれず,天水依存の島として知られていたが,現在は地下水源を利用した簡易水道が発達している。島の経済は,かつては漁業や林業に依存していたが,現在は観光地としてサービス業の発達が目立っている。ツバキの種子を原料とするツバキ油の生産が古くから有名で,明治以後商品化された。また乳牛の飼育も行われ,近年は花卉や野菜の栽培も盛んになって,それらが観光ともかかわりあっている。島の北部には大島空港(1955年開設)があって,羽田から1日2往復の空の便がある。
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大島は数十万年前の三つの火山島の残骸(現在の地名をとり岡田火山,行者の窟火山,筆島火山と呼ぶ)を,その後生じた大島火山の噴出物が覆って一つの島となったものである。大島火山の海面上での噴火は数万年前に始まり,約2万年前以降は三原山の位置にあった中心火口から100年ないし200年ごとに巨大噴火を百数十回繰り返している。現在の大島火山は頂部に約3km×4kmのキラウェア型カルデラをもつ玄武岩質成層火山で,カルデラ南西部に後カルデラ丘の三原山がある。このカルデラは700年(文武4)ころの,最後から11番目と12番目の大噴火時に生じたらしい。また現在の三原山は1777年(安永6)に始まり数年間つづいた最後の大噴火である安永噴火によって形づくられた。側火山は1420年(応永27)までの大噴火に伴って約40個生じている。1420年の大噴火は最後から4番目のもので,この時岳平(たけのひら)が生じた。1550年(天文19)ころの大噴火以降,噴火はすべて三原山付近だけで起こってきた。最近では1986,87年に大噴火がおこり,とくに86年には全島民が1ヵ月間にわたって東京都内の本土に避難したほどであった。
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大島 (おおしま)

愛媛県北東部,今治市本土の北北東約4kmの島。越智(おち)郡吉海町と宮窪町からなり,人口は両町合わせて8470(2000)。2005年1月合併により今治市の一部となった。東の旧宮窪町には精錬で有名な四阪島が含まれる。面積約47km2で芸予諸島では大三島に次いで大きい。かつては能島(のしま)と呼ばれ,室町時代には村上水軍の根拠地となった。旧宮窪町はかんきつ類の栽培や漁業が盛んで,北部の余所国(よそくに)を中心に良質の大島石(花コウ岩)の産出,海運や杜氏(とうじ)としての出稼ぎで知られる。西の旧吉海町はかんきつ類のほか,米,野菜栽培,漁業,造船がみられ,南西部にある下田水(しただみ)は旧今治市への玄関港である。1999年大島と旧今治市の間に本州四国連絡橋の来島海峡大橋が開通。
執筆者:

大島 (おおしま)

紀伊半島の最南端,潮岬の東方にあり,紀州最大の島。もと和歌山県東牟婁郡の大島村,1958年に串本町に編入。面積9.9km2。島の大半は火成岩からなり,海岸段丘が発達している。黒潮が南岸を洗い,西岸の大島港は,沖合の捕鯨,カツオ漁の基地で,帆船時代には熊野灘通航の廻船の避難港でもあった。海上2km離れた串本に通じる巡航船は《串本節》で有名だが,72年にフェリーに替わった。吉野熊野国立公園に含まれ,特に東岸は海金剛と呼ばれ,海食崖が美しい。東端の樫野崎には1870年(明治3)設置の灯台があり,90年トルコ軍艦が遭難,587人が死んだ事件の記念碑がある。
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大島 (おおしま)

宮城県北東部,気仙沼市に属し,気仙沼湾口を扼(やく)する島。東西約3km,南北約5km,丘陵性の地形を有する。面積約9km2の島には4243人(1995)が住み,おもに沿岸養殖業や漁業を営む。全島ツバキが多く,亀山(235m)からは遠く金華山までのリアス海岸の眺望がよい。鳴り砂で知られる十八鳴(くぐなり)浜,海水浴場の小田ノ浜,男性的な海食地形を誇る竜舞崎などもあって,1964年には陸中海岸国立公園に指定された。
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大島 (おおしま)

宮崎県南部海岸,日南市の旧南郷町の沖合約3kmにある島。日向大島ともいう。東西約1.3km,南北約3.5km,周囲約12km,面積約4.6km2。島は新第三紀の砂岩と泥岩の宮崎層群によって構成され,東側は高い絶壁をなすが,西側は崖の間に狭い平地が点在する。江戸時代には飫肥(おび)藩の牧場があった。無霜地のため,エンドウの露地栽培が古くから行われた。南端の鞍崎鼻に灯台がある。
執筆者:

大島 (おおしま)

鹿児島県北西部,阿久根市市街地の西方海上2kmにある小島。阿久根大島ともいう。面積0.5km2,最高点の標高45m。火山岩より成り周囲に岩礁が多く,中央部には砂州が発達している。全島クロマツにおおわれ,その間にニホンジカが放飼いにされている風景に特色があり,阿久根県立自然公園の中心となっている。また夏季は海水浴場やキャンプ場となる。阿久根港から定期船で約10分。
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大島(山口) (おおしま)

大島(富山) (おおしま)

大島(長崎,旧町) (おおしま)

大島(新潟) (おおしま)

大島(福岡) (おおしま)

大島(長崎,旧村) (おおしま)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大島」の意味・わかりやすい解説

大島
おおしま

東京都伊豆諸島中最大で最北端にある火山島。活火山で,常時観測火山。通称伊豆大島。富士火山帯に属する。島の中央に最高峰の三原山(758m)がある。複式成層火山(→複式火山)で火口原には溶岩が堆積,寄生火山も多い。有史以来,数多くの噴火が記録されている。今日もなお活動中で,1986年11月の大噴火では,全島民に避難命令が出された。南部の波浮港(はぶこう)は爆裂火口の跡で漁港,避難港として利用。島の周囲は海食崖が発達し,東岸では標高 150m以上にもなる。海洋性気候で冬でもそれほど冷え込まない。冬季の西風は強く,海は荒れる。常緑広葉樹林が発達し,ツバキツツジの植生で知られ,北東部,泉津の大島海浜植物群落,シイノキ群叢は国の天然記念物。サクラ株(オオシマザクラの巨木)は国の特別天然記念物。女性のあんこ姿,つばき油は有名。古くは流刑地であったが,今日では観光客が多く,本土から航空路と船便がある。一島で大島町を構成。富士箱根伊豆国立公園に属する。面積 91.05km2。人口 8461(2010)。

大島
おおしま

福岡県北部,宗像市の島嶼部をなす旧村域。玄界灘響灘の境に位置し,大島と,その北西海上にある沖ノ島(無人島)の 2島からなる。2005年宗像市に編入。半農半漁で,野菜,花卉の栽培と,タイの養殖や巻網漁などの沿岸漁業,肉牛飼育が行なわれる。自然美に恵まれ,1960年代から釣り宿が増え,しだいに観光地化した。日本本土と大陸との間に位置して歴史が古く,大島にある宗像神社境内(国指定史跡)の中津宮は古文書多数を収蔵する。一方,沖ノ島は全島が漁民の信仰のあつい宗像神社の沖津宮の神域で,祭祀品など 4世紀から 9世紀の遺物約 8万点が出土,大部分は国宝に指定されており「海の正倉院」と呼ばれる。また亜熱帯性植物の原始林は国の天然記念物に指定されている。2017年大島の宗像神社中津宮と沖津宮遥拝所,および沖ノ島全域(沖津宮)と周囲の三つの岩礁が,「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として,国際連合教育科学文化機関 UNESCO世界遺産の文化遺産に登録された。

大島
おおしま

長崎県中部,西海市北西部の旧町域。西彼杵半島の北西方にある大島(西彼大島)と寺島,およびその付近の 6島からなる。1949年黒瀬町として町制。同 1949年大島町に改称。2005年大瀬戸町,西海町,西彼町,崎戸町と合体し西海市となる。1935年に炭鉱が開かれ,人口は開鉱当初の 4000から最盛期の 1960年には 1万8000に増加した。1970年閉山。一時人口は急減したが,1973年に造船所が進出し,造船の町に変わった。本土とは大島大橋,寺島大橋,また南西方の崎戸の蛎浦島とは中戸大橋でそれぞれ結ばれている。造船所のほか,中小の機械,食品,縫製工場などがある。大島の中部にある百合岳(194m)は眺望のよいハイキング場。

大島
おおしま

山口県南東部,瀬戸内海の防予諸島の主島。別称屋代島または周防大島。 2004年,島を構成する大島町,久賀町,町,東和町の4町が合体して,周防大島町となった。大部分は花崗岩からなり,最高峰は嘉納山 (685m) 。島は平地に乏しく,階段耕作が発達し,ミカンの栽培が盛ん。沿岸では一本釣り,刺網漁業が行なわれる。明治期以降,海外移住者を多く出し,特にハワイ移民が多かった。嘉納山周辺をはじめ島の一部は瀬戸内海国立公園に属する。北部海岸沿いを国道 437号線が通る。対岸の柳井市と大島大橋で結ばれる。面積 128.31km2。人口2万 3013 (2000) 。

大島
おおしま

福岡県北部,玄界灘に浮かぶ島。筑前大島とも呼ばれ,宗像市に属する。市北部にある玄海の神湊(こうのみなと)の沖合い約 7kmに位置し,島の周辺は海食崖が発達。沿岸漁業のほか,島内では農業と牧畜が行なわれる。古くから海上交通の要地で,今日では避難港となっている。東岸に宗像神社(国指定史跡)の中津宮,北岸に沖津宮遥拝所があり,2017年「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として,ともに国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界遺産の文化遺産に登録された。面積 7.43km2。人口 909(2000)。

大島
おおしま

長崎県北西部,平戸市北部の旧村域。平戸島北方の的山大島を中心とし,さらに北方の二神島,小二神島を含む。1889年村制。2005年平戸市,生月町,田平町と合体して平戸市となった。壱岐水道にあり,古くは東西交通の寄港地として栄え,江戸時代後期には捕鯨の基地が置かれ,近海漁場の根拠地ともなった。玄武岩の台地に水田が開かれ,主作物は米。ほかに葉タバコ,果樹の栽培,肉牛の飼育も行なわれる。基幹産業である漁業は一本釣りと延縄漁が中心。眺望のよい大賀断崖,城山公園やオートキャンプ場などがあり,観光客も多い。佐賀県の須古(→白石町)に起源をもつ須古踊りが純粋なかたちで残されている。

大島
おおしま

山口県南東部,大島 (屋代島) の西部にある地区。旧町名。笠佐島,下荷内島,上荷内島などを含む。 1952年小松町と屋代村が合体して発足。 1955年沖浦,蒲野の2村と合体。 2004年 10月,久賀町,東和町,町と合併し,周防大島町となる。中心集落は北部の小松。漁業と米作,ミカン栽培が主産業。塩田跡地ではクルマエビ養殖を行ない,また,ミカン狩りの観光客が多く訪れる。かつては人口流出が多く,海外移民が盛んであった。島内最高の嘉納山 (685m) や文珠山 (662m) からの眺望に優れ,付近は瀬戸内海国立公園に属する。 1976年急潮の大畠瀬戸に架した大島大橋が完成,本土と結ばれた。国立大島商船高等専門学校がある。

大島
おおしま

宮城県北東部,気仙沼湾中央にある島。気仙沼大島とも呼ばれる。気仙沼市に属する。この島で気仙沼湾は東湾,西湾に分けられる。全島がツバキの群落で,南半分に民家が点在。北部の亀山(235m)は眺望に優れ,中腹には式内社の計仙麻大島神社(けせまおおしまじんじゃ)がある。海岸に漁村が多く,カキ,ホタテガイ,ワカメ,クロソイの養殖とウニ,ホヤ,アワビの採取が盛ん。東部は三陸復興国立公園に属し,西部は気仙沼県立自然公園に含まれる。東海岸には鳴り砂で知られる十八鳴浜(くぐなりはま。国指定天然記念物)があり,南東部の海岸は気仙沼海域公園地区に指定。面積 8.52km2。人口 2207(2020)。

大島
おおしま

三重県南部,長島港の南東約 5kmの熊野灘にある無人島。紀北町に属する。主島は東西約 400m,南北約 500m,最高点の標高 89.3mの小島で,全島スダジイ (→シイ〈椎〉 ) に覆われる。この森林のなかに暖地性の植物が多く生育し,特にオオタニワタリ (大谷渡り)の自生地北限として知られる。砂浜海岸にはハマオモト (浜万年青)の自生地が多く,これらは大島暖地性植物群落として国の天然記念物に指定。オオミズナギドリミサゴの繁殖地としても知られる。無人灯台がある。

大島
おおしま

和歌山県南端部,串本港沖合い約 1.8kmにある県下最大の島。串本町に属する。平坦な海食台地から成り,最高点は大森山 (171m) 。周囲には高さ 20m以上の海食崖が発達する。大島,峰地,須江,樫野の半農半漁の集落があり,キンカンを特産。西端の大島が最大集落で,古くから紀伊半島を巡回する船舶の風待ち港として栄えた。現在は対岸の串本との間に定期船が通う。大森山に航空自衛隊レーダ基地がある。東端の樫野崎は雄大な岩石海岸で,付近に灯台,トルコ軍艦の遭難碑とその資料館,京都大学植物園がある。吉野熊野国立公園に属する。面積 9.92km2。人口 1515 (2000) 。

大島
おおしま

愛媛県北部,芸予諸島の南部にある島。今治市に属する。最高点は念仏山 (382m) 。花崗岩の大島石を産出し,柑橘類を栽培する。春に行なわれる島四国巡礼の善根宿が有名。国の名勝八幡山,展望に優れる亀老山などがある島の南西部は瀬戸内海国立公園に属する。四国本土の今治港からのフェリーが寄港する。西瀬戸自動車道伯方・大島大橋が完成して伯方島と陸路で結ばれた。面積 41.86km2。人口 8372 (2000) 。

大島
おおしま

富山県北西部,射水市中西部の旧町域。射水平野にある。 1969年町制。 2005年新湊市,小杉町,大門町,村の1市2町1村と合体して射水市となった。水稲単作が行なわれるほか,紡績,合金鉄の大工場があり,関連の工場,倉庫なども多い。高岡市の近郊住宅地としての性格もある。

大島
おおしま

愛媛県東部,燧灘にある島。別称大黒島,金島。新居浜市に属する。水軍を率い,鎌倉~室町時代に活躍した村上氏の出身地。長崎,堺への海運業が盛んであった。古来船乗りになる者が多い。近年は新居浜方面への通勤者が増加。近海はタイの漁場。正月 14日夜の左義長の行事は有名。黒島から定期船が就航。面積 2.13km2。人口 388 (2000) 。

大島
おおしま

徳島県南東部にある島。牟岐町に属し,牟岐港の南東約 7kmの海上に位置する。面積 1.76km2。標高約 216mを最高に,全島が山地。西部に小湾入部があるほかは,周囲がほとんど岩浜海岸で,断崖のところが多い。西部の湾入部を漁船の避難港や風待ち港に利用。定住者はなく,石材採取の臨時的家屋が数戸ある。沿岸は磯釣りで有名。島の北側から東側にかけては阿波大島海域公園地区に指定。室戸阿南海岸国定公園に属する。

大島
おおしま

長崎県中部,西彼杵半島の北西方にある島。別称西彼大島。西海市に属する。古第三紀の丘陵性の山地からなり,最高点は百合岳(194m)。かつて炭鉱があったが,1970年に閉山。その後造船業の島となった。馬込港には佐世保港および対岸の太田和港からフェリーがある。面積 12.39km2。人口 5867(2000)。

大島
おおしま

新潟県南西部,上越市東部の旧村域。東頸城丘陵の保倉川上流域にある。 1955年保倉村,旭村の2村と合体。 2005年上越市に編入。山腹に棚田が発達する。木材を使った工芸品の製作や米作が行なわれる。冬季の雪崩,春の地すべり発生地帯で,その対策が大きな課題。一部は直峰松之山大池県立自然公園に属する。

大島
おおしま

宮崎県南東部,日南海岸中部の沖約 4kmにある小島。別称日向大島。日南市に属する。江戸時代,飫肥藩主伊東祐相が牧場を開き馬産の改良に努めた。林に島クワが野生。無霜地域で野菜の促成栽培が行なわれる。南端の鞍崎鼻に灯台がある。面積 2.08km2。人口 13(2005)。

大島
おおしま

大分県南東部,佐伯湾の湾口に浮かぶ島。佐伯市に属し,漁業が主産業。豊後水道に臨む東岸は高さ 100mに及ぶ海食崖があり,日豊海岸国定公園に属する景勝地。面積 1.86km2。人口 321 (2000) 。

大島
おおしま

別称真穴大島。愛媛県西部,八幡浜市に属し,市の南西部の沖合い約 4kmにある島。南の三王島,地大島と砂州で連なっている。真穴村穴井から7戸が移住し開いた。漁業が行われ,海水浴場としてもにぎわう。八幡浜港から定期船がある。面積 0.75km2。人口 417 (2000) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大島」の解説

大島〔愛媛県八幡浜市〕

愛媛県八幡浜市南端の頃時鼻(ころどきばな)の西方約3.5キロメートルに位置する宇和海諸島の島。面積約0.75平方キロメートル。南側の三王島(さんのうしま)、地王島(じのおおしま)とは橋で結ばれている。これらと周辺の属島、粟ノ小島、貝付小島をあわせた5島を総称して「大島」ということもある。ハモやウニ、アワビなどの漁業、ミカン栽培などの農業が行われる。島南西部では“地震の化石”の異名を持つシュードタキライト(国指定天然記念物)が観察できる。

大島〔和歌山県〕

和歌山県東牟婁郡串本町、潮崎の東に位置し、熊野灘に面する有人島。面積約9.68平方キロメートル。明治時代にトルコの軍艦エルトゥールル号がこの島の樫野埼沖で悪天候のため遭難・大破し600名近い犠牲者が出たが、この際島民が生き残りの遭難者たちを献身的に救出・介護したことで知られる。1999年開通の「くしもと大橋」により本土と陸続きになった。

大島〔愛媛県新居浜市〕

愛媛県新居浜市(にいはまし)、黒島港の沖約2キロメートルに位置する島。「新居大島」ともいう。面積約2.14平方キロメートル。伊予水軍の頭領であった村上義弘の出身地とされ、島内には水軍関係の史跡が多い。島に伝わる伝統行事の「とうどおくり」は市の無形民俗文化財に指定されている。

大島〔長崎県壱岐市〕

長崎県壱岐市、壱岐島の南西、郷ノ浦港の西沖約3キロメートルに位置する島。面積約1.17平方キロメートル。近接する原島(はるしま)、長島とあわせ、“渡良三島(わたらみしま)”と呼ばれる。3島のうち最北に位置し、南側にある長島との間は珊瑚大橋で結ばれる。北部に海水浴場がある。

大島〔長崎県小値賀町〕

長崎県北松浦郡小値賀町(おぢかちょう)、五島列島の北にある平戸諸島の島。小値賀島の南西約3.5キロメートルに位置する。面積約0.71平方キロメートル。近接する宇々島に生活困窮者世帯を3年を限度に移住させ、生活を再建させる独特の風習が昭和時代まで続いていた。

大島〔愛媛県今治市〕

愛媛県今治市、今治港の北東約5キロメートルに位置する。「越智大島」とも呼ばれる。面積約41.97平方キロメートル。北東の鵜島との間にある能島は能島村上水軍の本拠地で、城跡が残る。標高230メートルの亀老(きろう)山からは瀬戸内海の眺望が楽しめる。

大島〔長崎県西海市〕

長崎県西海市、太田和郷の西沖約2キロメートルに位置する島。寺島を経由し、呼子ノ瀬戸を跨ぐ大島大橋で本土と結ばれている。面積約12.15平方キロメートル。昭和初期には炭鉱で栄えたが、1970年代に閉山。その後、企業誘致により造船所ができた。

大島〔宮城県〕

宮城県気仙沼市、気仙沼湾内にある東北地方最大の有人離島。「気仙沼大島」「陸前大島」ともいう。面積約9.05平方キロメートル。屈曲した海岸線による自然景観が美しく、北部には海抜235メートルの亀山がある。三陸復興国立公園に指定されている。

大島〔大分県〕

大分県佐伯市、鶴見半島の先端から北へ約0.6キロメートルに位置する豊後諸島の島。面積約1.63平方キロメートル。江戸時代には佐伯藩が往来する船を監視するための御番所が置かれた。サバ、アジ、ブリなどの好漁場として知られる。

大島〔香川県〕

香川県高松市、屋島湾の庵冶(あじ)港の北西約2.5キロメートルに位置する島。面積約0.73平方キロメートル。屋島の合戦に敗れた平家方の墓に植えられた樹齢800年の「墓標の松」、国立ハンセン病療養所「大島青松園」がある。

大島〔北海道〕

北海道松前郡松前町の西方約56kmに位置する無人島。「渡島(おしま)大島」ともいう。面積約9.7km2で、無人島としては日本最大。かつてはオオミズナギドリの繁殖地として知られた。

大島〔宮崎県〕

宮崎県日南市、目井津漁港の南東約3キロメートルに位置する南那珂群島の島。面積約2.08平方キロメートル。幕末までは飫肥(おび)藩の馬牧場。島南部にある鞍埼(くらさき)灯台は日本初のコンクリート製灯台。

大島〔千葉県〕

千葉県いすみ市の釣師海岸沖にある無人島。2009年に政府の総合海洋政策本部が策定した「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」に基づき、名称付与された離島のひとつ。

大島〔茨城県〕

茨城県日立市河原子町沖にある無人島。2009年に政府の総合海洋政策本部が策定した「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」に基づき、名称付与された離島のひとつ。

大島〔長崎県佐世保市〕

長崎県佐世保市南部、大村湾にある島。面積約0.4平方キロメートル。本土とは江上大島橋で結ばれる。大正時代には煉瓦の製造工場があった。島南部にはサン・レモ リハビリ病院がある。

大島〔高知県〕

高知県宿毛市、宿毛湾にある島。本土の片島地区と、ごく短い橋で結ばれている。面積約1.02平方キロメートル。威陽島を見下ろす高台に、温泉つきの国民宿舎がある。

大島〔三重県紀北町〕

三重県北牟婁郡紀北町の長島港の南東、熊野灘にある無人島。暖地性植物が多く自生。島の南部に、長島大島灯台がある。

大島〔徳島県〕

徳島県海部郡牟岐(むぎ)町、牟岐港の南東約6.3kmに位置する無人島。磯釣りやダイビングの名所として知られる。

大島〔岡山県〕

岡山県笠岡市、笠岡諸島の真鍋島の北約2kmに位置する無人島。先大島、前大島の2島が砂州で結ばれ1島をなす。

大島〔青森県〕

青森県夏泊半島北端の夏泊崎の北方約200mに位置する無人島。陸奥大島灯台がある。

大島〔三重県志摩市〕

三重県志摩市の熊野灘にある無人島。「和具大島」ともいう。ハマユウの群生地がある。

大島〔岩手県〕

岩手県下閉伊郡、船越半島付近に位置する花崗岩の島。「船越の大島」ともいう。

大島〔兵庫県〕

兵庫県美方郡新温泉町、三尾地区北に位置する無人島。「三尾大島」ともいう。

大島〔熊本県〕

熊本県天草市、黒島の西約4kmに位置する無人島。牛深大島灯台がある。

大島〔山口県〕

山口県長門市、青海島の東約0.5kmに位置する無人島。

大島〔石川県〕

石川県七尾市の能登島マン崎北方に位置する無人島。

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世界大百科事典(旧版)内の大島の言及

【伊豆諸島】より

…東京都に属し大島支庁(大島町,利島(としま)村,新島村,神津島(こうづしま)村),三宅支庁(三宅村,御蔵島(みくらじま)村),八丈支庁(八丈町,青ヶ島村)管轄下の島嶼(とうしよ)群をいう。かつては伊豆諸島以南の地も含めて漠然と豆南(ずなん)諸島と呼ばれた。…

【吉海[町]】より

…愛媛県北東部,越智(おち)郡の町。今治市の北東に浮かぶ大島の西半分と津島,大突間(おおづくま)島,武志(むし)島,中渡(なかと)島などからなる。人口5224(1995)。…

【南郷[町]】より

…外浦は古くは対外貿易の寄航地であった。日向灘沿岸一帯は日南海岸国定公園に属し,沖合3kmにある大島周辺は海中公園に指定されている。また目井津港の北には今は地続きとなった虚空蔵(こくぞう)島の亜熱帯林(天)があり,ビロウやフカノキなど多くの熱帯植物が自生し,アコウの巨木が群生する。…

【屋代島】より

…周防(すおう)大島または大島ともいう。山口県の南東部に浮かぶ防予諸島の主島で,面積129.7km2,瀬戸内海第3の島。…

※「大島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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