精選版 日本国語大辞典 「大島」の意味・読み・例文・類語
おおしま おほしま【大島】
おおしま おほしま【大島】
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伊豆大島ともよばれ、伊豆諸島中最大の島。都心から南方約一二〇キロ、最も近い伊豆東海岸からは南東方約二五キロの洋上に位置している。面積九一平方キロ。最高峰の
「日本書紀」推古天皇二八年八月条に
中世にみえる島名で、
貞応三年(一二二四)四月一四日の関東下知状写(武雄鍋島家文書)に「大島」とみえ、宇野御厨内の当地などの地頭職が大江通頼に安堵されているが、通頼は「肥前国御家人字峯太郎通頼」ともあるので(同年六月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)、峰披の一流であろうと思われる。寛喜元年(一二二九)関東からあらためて当地などの地頭職および神官検非違所・海夫本司が通頼に安堵されており(同年一〇月三〇日「関東下知状写」同文書)、同三年に大宰府守護所から施行されている(同年四月一六日「大宰府守護所牒写」同文書)。通頼の所領のうちで、大島などは通時の兄弟と考えられる通綱の知行となったと思われ(嘉禎四年一〇月九日「関東下知状写」同文書)、文永七年(一二七〇)御家人の大島次郎通綱の子の通清および同じく舎弟の地蔵丸に大島地頭職ならびに検非違所・海夫等本司職が相伝されている(同年九月一五日「沙弥乙啓奉書」来島文書、以下断りのない限り同文書)。
文永一一年三月二七日に通清は和与状を作成しているが、これは通綱の遺領を通清と地蔵丸(通継か)が再配分したものと推定され、大島は通清に伝領されたらしく、通継は嘉元二年(一三〇四)に通明(通清の子)の大島の所領を違乱しないことを約束している(同年三月二〇日大江通継等連署和与状)。この間、大島弥二郎通継は文永一〇年に関東から国々の悪党の蜂起を停止するよう守護を通じて命じられ(同年一一月一六日肥前国守護少弐資能施行状)、正応六年(一二九三)平禅門の乱が起きると関東からの早打に応じて鎮西探題のもとに馳せ参じている(同年五月九日大島通継着到状)。一方、通清は弘安の役に参陣したらしい(弘安六年三月二二日「鎮西御教書」山代文書)。元亨二年(一三二二)「大島地頭」が肥前国一国平均役の
永正五年(一五〇八)頃と推定される
大島の開発時期は明らかでないが、七名の平家落武者によって開発されたという「
外海沖に浮ぶ大島・
小値賀島の南西、
八幡浜港から定期船で五〇分、面積〇・八平方キロの島。「沖ノ大島」ともいった。寛文八年(一六六八)
紀伊長島町の南南東約六キロの熊野灘に浮ぶ無人島。約四〇〇×約六〇〇メートルの主島と、その北部から西にある
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
伊豆諸島最北部にある最大の島。東京都大島支庁大島町に属し,1島1町をなす。面積91km2。人口8461(2010)。活火山三原山(758m)を最高点とする火山島である。北北東~南南西に長い紡錘形の島で,東部や北部の海岸は急崖をなす。源為朝などが流された島として知られ,江戸時代は韮山代官が支配した天領であった。おもな集落は西および南側の緩やかな斜面の海岸近く(卓越風の風下)に発達している。約9000年前から人が住み,最も早く開かれたのは,かつて新島村といわれた現在の元町で,この島の西玄関口となり,中心集落でもある。北西端の乳ヶ崎(ちがさき)をはさんで東側には岡田があり,西風の時は岡田港が,東風の時は元町港が利用されている。また南東端の波浮港(はぶみなと)は860年(貞観2)ころの大噴火に伴ってできた火口湖を利用して人工的に開いた港で,漁船の避難港,南の島々への中継港として重要性をもっている。泉津と波浮港の一部を除いては地表水に恵まれず,天水依存の島として知られていたが,現在は地下水源を利用した簡易水道が発達している。島の経済は,かつては漁業や林業に依存していたが,現在は観光地としてサービス業の発達が目立っている。ツバキの種子を原料とするツバキ油の生産が古くから有名で,明治以後商品化された。また乳牛の飼育も行われ,近年は花卉や野菜の栽培も盛んになって,それらが観光ともかかわりあっている。島の北部には大島空港(1955年開設)があって,羽田から1日2往復の空の便がある。
執筆者:大村 肇
大島は数十万年前の三つの火山島の残骸(現在の地名をとり岡田火山,行者の窟火山,筆島火山と呼ぶ)を,その後生じた大島火山の噴出物が覆って一つの島となったものである。大島火山の海面上での噴火は数万年前に始まり,約2万年前以降は三原山の位置にあった中心火口から100年ないし200年ごとに巨大噴火を百数十回繰り返している。現在の大島火山は頂部に約3km×4kmのキラウェア型カルデラをもつ玄武岩質成層火山で,カルデラ南西部に後カルデラ丘の三原山がある。このカルデラは700年(文武4)ころの,最後から11番目と12番目の大噴火時に生じたらしい。また現在の三原山は1777年(安永6)に始まり数年間つづいた最後の大噴火である安永噴火によって形づくられた。側火山は1420年(応永27)までの大噴火に伴って約40個生じている。1420年の大噴火は最後から4番目のもので,この時岳平(たけのひら)が生じた。1550年(天文19)ころの大噴火以降,噴火はすべて三原山付近だけで起こってきた。最近では1986,87年に大噴火がおこり,とくに86年には全島民が1ヵ月間にわたって東京都内の本土に避難したほどであった。
執筆者:中村 一明
愛媛県北東部,今治市本土の北北東約4kmの島。越智(おち)郡吉海町と宮窪町からなり,人口は両町合わせて8470(2000)。2005年1月合併により今治市の一部となった。東の旧宮窪町には精錬で有名な四阪島が含まれる。面積約47km2で芸予諸島では大三島に次いで大きい。かつては能島(のしま)と呼ばれ,室町時代には村上水軍の根拠地となった。旧宮窪町はかんきつ類の栽培や漁業が盛んで,北部の余所国(よそくに)を中心に良質の大島石(花コウ岩)の産出,海運や杜氏(とうじ)としての出稼ぎで知られる。西の旧吉海町はかんきつ類のほか,米,野菜栽培,漁業,造船がみられ,南西部にある下田水(しただみ)は旧今治市への玄関港である。1999年大島と旧今治市の間に本州四国連絡橋の来島海峡大橋が開通。
執筆者:穐岡 謙治
紀伊半島の最南端,潮岬の東方にあり,紀州最大の島。もと和歌山県東牟婁郡の大島村,1958年に串本町に編入。面積9.9km2。島の大半は火成岩からなり,海岸段丘が発達している。黒潮が南岸を洗い,西岸の大島港は,沖合の捕鯨,カツオ漁の基地で,帆船時代には熊野灘通航の廻船の避難港でもあった。海上2km離れた串本に通じる巡航船は《串本節》で有名だが,72年にフェリーに替わった。吉野熊野国立公園に含まれ,特に東岸は海金剛と呼ばれ,海食崖が美しい。東端の樫野崎には1870年(明治3)設置の灯台があり,90年トルコ軍艦が遭難,587人が死んだ事件の記念碑がある。
執筆者:水田 義一
宮崎県南部海岸,日南市の旧南郷町の沖合約3kmにある島。日向大島ともいう。東西約1.3km,南北約3.5km,周囲約12km,面積約4.6km2。島は新第三紀の砂岩と泥岩の宮崎層群によって構成され,東側は高い絶壁をなすが,西側は崖の間に狭い平地が点在する。江戸時代には飫肥(おび)藩の牧場があった。無霜地のため,エンドウの露地栽培が古くから行われた。南端の鞍崎鼻に灯台がある。
執筆者:下村 数馬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…東京都に属し大島支庁(大島町,利島(としま)村,新島村,神津島(こうづしま)村),三宅支庁(三宅村,御蔵島(みくらじま)村),八丈支庁(八丈町,青ヶ島村)管轄下の島嶼(とうしよ)群をいう。かつては伊豆諸島以南の地も含めて漠然と豆南(ずなん)諸島と呼ばれた。…
…愛媛県北東部,越智(おち)郡の町。今治市の北東に浮かぶ大島の西半分と津島,大突間(おおづくま)島,武志(むし)島,中渡(なかと)島などからなる。人口5224(1995)。…
…外浦は古くは対外貿易の寄航地であった。日向灘沿岸一帯は日南海岸国定公園に属し,沖合3kmにある大島周辺は海中公園に指定されている。また目井津港の北には今は地続きとなった虚空蔵(こくぞう)島の亜熱帯林(天)があり,ビロウやフカノキなど多くの熱帯植物が自生し,アコウの巨木が群生する。…
…周防(すおう)大島または大島ともいう。山口県の南東部に浮かぶ防予諸島の主島で,面積129.7km2,瀬戸内海第3の島。…
※「大島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
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