大永(読み)ダイエイ

デジタル大辞泉 「大永」の意味・読み・例文・類語

だいえい【大永】

《「たいえい」とも》室町後期、後柏原天皇後奈良天皇の時の年号。1521年8月23日~1528年8月20日。

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精選版 日本国語大辞典 「大永」の意味・読み・例文・類語

だいえい【大永】

(「たいえい」とも) 室町末期、後柏原・後奈良両天皇の代の年号。永正一八年(一五二一)八月二三日に戦乱天変などのため改元、大永八年(一五二八)八月二〇日享祿元年となる。将軍足利義晴出典は「杜氏通典」の「庶務至微至密、其大則以永業」による。

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日本の元号がわかる事典 「大永」の解説

だいえい【大永】

日本の元号(年号)。室町時代(戦国時代)の1521年から1528年まで、後柏原(ごかしわばら)天皇、後奈良(ごなら)天皇の代の元号。前元号は永正(えいしょう)。次元号は享禄(きょうろく)。1521年(永正18)8月23日改元。兵革(戦乱)、天災の凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。『杜氏通典(とうしつてん)』を出典とする命名。大永年間の室町幕府の将軍は足利義稙(よしたね)(義材)(10代)、足利義晴(よしはる)(11代)。後柏原天皇は1500年(明応9)、後土御門(ごつちみかど)天皇の崩御により即位したが、当時の朝廷の財政は応仁の乱後の混乱で逼迫しており、即位の礼をあげることができたのは21年後の1521年(大永1)のことだった。その直前、将軍の足利義稙は管領細川高国(たかくに)との対立が激化し、京から和泉堺、淡路へと逃れた。年末には、高国は足利義晴(足利義澄(よしずみ)の遺児)を新将軍に擁立する。1526年(大永6)に後柏原天皇が崩御し、皇子の後奈良天皇が即位した。朝廷は、引き続き窮乏状態にあったため即位の礼を行うことができず、北条氏・大内氏・今川氏など戦国大名献金で即位礼をあげたのは10年後の1536年(天文5)であった。また、1526年(大永6)には、細川澄元(すみもと)の遺児・細川六郎(後の細川晴元(はるもと))や三好元長(もとなが)が阿波国で高国打倒の兵を挙げた。これに高国から離反して丹波国で挙兵した波多野稙通(はたのたねみち)らの軍勢が合流し、京に向け侵攻翌年、高国は将軍足利義晴を奉じて、近江坂本に逃れた。その後、高国は数度にわたり京都奪還を試みるが果たせず、1531年(享禄4)に尼崎で自害した。◇「たいえい」とも読む。

たいえい【大永】

⇒大永(だいえい)

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