出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
大浦
おおうら
[現在地名]山田町船越
船越半島の中部にあり、山田湾に面する船越村内の一集落。文政年間(一八一八―三〇)の村々人家数覚(盛岡市中央公民館蔵)には、家数六九・人数三五九とある。周辺に好漁場が多く、住民の大半が漁業を専業とする。寛永二〇年(一六四三)山田湾入港のオランダ船がこの浦の前面に着船した際には「近隣の者共」は「大浦へ見物に罷越、色々の品、此方の刃物と取替」えている(山田町郷土史料集)。「雑書」寛文一二年(一六七二)の記事によれば船越のうち大浦において大鮑の漁場を発見、漁獲願が出されている。
大浦
おおうら
[現在地名]宇和島市大浦
宇和島城下町北部の漁村。北部の黒の瀬峠(八六メートル)を越えて吉田陣屋町(現北宇和郡吉田町)に通ずる道があり、番所が置かれていた。東は須賀浦、西は海を隔てて九島浦に対する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「大浦 柴山有、茅山有」とある。
太閤検地の石高は二一〇石八斗六升、耕地面積の比率は田七六パーセント、畑二四パーセントであったが、寛文検地では石高が二四パーセント増加し、田五九パーセント、畑四一パーセントの比率となっている。
大浦
おおうら
中世にみえる浦で、彼杵庄戸町浦のうち。福田の大浦に比定される。文保二年(一三一八)五月二九日の戸町西俊・同俊光連署和与状(深堀文書)に「大浦山」「大浦」とみえ、深堀時仲嫡孫孫房丸らと戸町俊基の子西俊(俊能)らとの相論が和与となり、当地は戸町氏側の知行とされた。この和与は同年六月六日の鎮西下知状(同文書)で認められている。暦応二年(一三三九)「彼杵庄大浦」地頭の福田平四郎兼益が筑前博多で侍番役を勤めたが(同年一一月七日「福田兼益注進状写」福田文書、以下同文書)、その直後に菊池武敏らの襲撃の情報があり、一色道猷は「福田大浦平四郎」に対し、帰国を一次中止し、合戦に備えるよう命じている(同年一一月一九日一色道猷軍勢催促状写)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大浦
おおうら
長崎県南部,長崎市中心市街地の南部,長崎湾の東岸にある地区。長崎港を見おろす傾斜地に位置し,幕末から明治にかけて外国人の居留地となった。今日も五島石(おもに砂岩)の石畳,ヨーロッパ風の住居などに異国情緒を漂わせた長崎観光の中心地の一つ。日本の産業の近代化に大きく貢献したイギリス人トマス・ブレーク・グラバーの邸宅(→旧グラバー住宅。2015世界遺産)を中心に,明治期の洋風木造建造物を集めたグラバー園,日本最古のゴシック式木造建築の大浦天主堂(国宝,2018世界遺産)などがある。海岸には古い町並みの唐人町,埋立地に税関,倉庫,工場などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の大浦の言及
【油谷湾】より
…角島北東部と半島先端の油谷島を湾口とし,南北約4km,東西約12kmで,水深20~40m。向津具半島が日本海の荒波をさえぎる天然の良湾で,沿岸には,海女の潜水漁業で有名な大浦,小型底引網の盛んな久津(くづ)や掛淵,巻網と敷網の久原(くばら),釣漁業中心の粟野,釣りとはえなわの阿川など特色ある漁村が多い。近年はカキ,アワビ,ワカメ,ハマチ,クルマエビの養殖が盛ん。…
※「大浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」