大石村(読み)おおいしむら

日本歴史地名大系 「大石村」の解説

大石村
おおいしむら

[現在地名]霊山町大石

霊山の北西麓に位置する大村で、上・下に分れる。西端を北流する広瀬ひろせ川に沿って川俣かわまた(現川俣町)梁川やながわ(現梁川町)を結ぶ街道が通る。霊山から流れるはらい(大石川)二ッ森ふたつもりを挟んで流れるきた川と落合おちあい付近で合流し、広瀬川へ注ぐ。なお山野川やまのがわ村から当村を通り、中村城下(現相馬市)へ至る街道が祓川から北川に沿って通り、東方まどくら山と古霊山ふるりようぜんの間にささノ峠(標高五六〇メートル)があって筆甫ひつぽ(現宮城県丸森町)に通じる。村内川筋には土石流による大石が並んでおり、伝承によれば、舘之内という土地の畑に除去できないほどの大石があることから村名がついたという(文化二年「風土記大石村書上帳」霊山町史)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根だてひがしねのうちとして「大いし」とみえ、段銭は二三貫一六五文。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、牛坂左馬允が大石「うし坂」のうち牧野弾正分を除く全部など、安久津孫二郎が大石のうち「きたあくつ」「みなミあくつ」の各在家、「たきのひら屋しき」など、牧野弾正左衛門が大石郷の金沢左衛門分「三川や敷」一軒など、小高二郎左衛門が「大石せ成田」のうち寺畠在家など、白石弥平兵衛が大石のうち一軒を除き全部など、小島外記が大石のうち上郡山大炊助分など、歌丸帯刀が大石のうち「ふるうちやしき」などを安堵ないしは下賜され、飯淵しほちは大石のうち守屋伊賀に売却した土地などを返されている。中世の大石は牛坂うしざか瀬成田せなりたも含んだことが知られる。

大石村
おおいしむら

[現在地名]久留米市大石町

庄島しようじま村の西に位置し、筑後川下流左岸に沿う。南は大隈おおくま村。久留米城下瀬下せのした町によって南北に分けられる。肥前国大豆津まめづ(豆津村、現佐賀県北茂安町)への船渡し(大石渡)があり、川幅一一〇間、同村まで八町四〇間(元禄国絵図)。中世は三潴庄とう郷のうち。鎌倉末期と推定される年月日未詳の三潴庄地頭名主交名注文(東寺百合文書/鎌倉遺文二七)宝荘厳ほうしようごん(現京都市左京区)分として五郎丸ごろうまる村がみえ、地頭は大石三郎で、昔より宝荘厳院が直に所務収納していたことを記す。大石氏は当地を名字の地とする領主と考えられる。五郎丸村は東寺百合文書においてしばしば大石村と並記され、大石村の付近にあったと推測される。鰺坂あじさか庄五郎丸名(現久留米市宮ノ陣町五郎丸)と混同されるが、同地は御井みい郡の河北地方(筑後川北岸)に位置し、史料上は安楽寺(太宰府天満宮)領としてみえるので、三潴庄五郎丸村とは別地と考えたほうが妥当である。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、五郎丸は三潴庄東郷に属し、大善だいぜん玉垂たまたれ宮の五月会で渡物のうち一物・村田楽・尻巻・左方相撲人を出した。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)によると、五郎丸村は大半は西さい郷の村々が負担する冬祭分の祭頭・村田楽・尻巻・相撲・一物・拝殿一間・大善寺檀供一五枚を負担している。

貞和三年一二月二五日、琳豪は三潴庄の本家である宝荘厳院から「三潴庄内大石村所務職」に補任された。請文によると大石村は勧学会料の「厳重料足」であり、琳豪は当時不作が続いていた当村の年貢を請負うにあたり、明年より毎年一二月中に運賃雑用を除き米一五石(代銭一五貫文)を進納することを契約した(「琳豪請文」東寺百合文書/南北朝遺文(九州編)二)

大石村
おいしむら

[現在地名]酒田市生石おいし

横代よこだい村東方の矢流やだれ川上流にあり、南は山楯やまたて(現飽海郡平田町)。生石村とも記した。庄内平野の東端、出羽山地西麓にあたり、当地一帯には、弥生時代の集落跡と奈良―平安時代の官衙的建造物が検出された生石2遺跡や、平安時代の願瀬山窯跡がんぜやまようせき群など多くの遺跡がある。また延命えんめい寺の元亨二年(一三二二)をはじめとして、字奥山おくやまの正平三年(一三四八)・同七年の板碑ほか三四基の板碑があり、生石板碑群として県の文化財に指定されている。天正一一年(一五八三)武藤義興が当地の朝日山あさひやま城主池田讃岐守配下五〇人に宛行った五〇貫のうち、一〇貫は地内滝野沢たきのさわの地であった(三月一日「武藤義興充行状」本間美術館所蔵文書)

寛永元年庄内高辻帳では高一千二一〇石余。高は枝郷の矢流川村・滝野沢村大平おおだいら村を合したもの。正保郷帳では大石村田方三八〇石余・畑方一三石余・社領六八石余、大平村田方一〇二石余・畑方四石余、滝野沢村田方二三七石余・畑方一〇石余、南沢みなみざわ(矢流川村)田方四四四石余・畑方一九石余。大石・矢流川・滝野沢・大平の四ヵ村を南沢四ヵ村と称した。

大石村
おおいしむら

[現在地名]灘区大石南町おおいしみなみまち一―三丁目・大石北町おおいしきたまち大石東町おおいしひがしまち一―六丁目・大石

都賀とが川の河口沖積地に立地し、河口西岸部で海に面しており、山陽道が通る。中世は都賀庄内にあり、文安四年(一四四七)頃の冬山手分として西大石が一〇〇文、大石の孫左衛門・六郎右衛門が合計一〇〇文を負担している(「夏麦山手注文」天城文書)。永正三年(一五〇六)八月一〇日の都賀庄一番段銭注文(同文書)では大石の六二郎が九段分三三五文となっている。天文一五年(一五四六)九月吉日の公文名納帳(同文書)にも大石の衛門九郎二段、同大郎衛門・若大夫各一段がみえる。天正一九年(一五九一)一二月一日の若林久大夫分山手指出(同文書)によると、大石村は一〇〇文であった。

大石村
おおいしむら

[現在地名]羽茂町大石

羽茂川の河口左岸の砂丘地に立地。羽茂川の堆積土砂によって東の大泊おおとまり村から砂丘が形成され、その背後に水田地帯ができた。西は清士岡せいじがおか村、前面は海、背後は台地。海岸部にははま更生こうせい中浜なかはま杉浜すぎはまの集落、台地上には岡田おかだ中平なかだいら大石山田おおいしやまだの集落がある。元禄七年(一六九四)の検地帳(大石区有)では田二五町七反余・畑二一町余・塩畑二畝三歩。「佐州巡村記」では、戸口は八一軒・四三七人。

大石村
おおしむら

[現在地名]金山町大志おおし

沼沢ぬまざわ湖の西部、只見ただみ川南岸に位置し、尻吹しりふき峠より分岐した伊北いほう街道が村内を通り、大石組郷頭の居村で村のなかに制札場を置いた(新編会津風土記)。また船着場があり只見川舟運でも栄えた。端村下井草したいぐさは村の西三町にある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「大石 弐百六石八斗九升 御倉入」とある。天正年中(一五七三―九二)まで川口の王縄かわぐちのたまなわ城主の領地であったが、当村出身の中丸新蔵人は横田の中丸よこたのなかまる城主山内氏勝の四家老の一人で(会津四家合考)、九代目中丸新左衛門は天正一七年の伊達政宗との戦いで軍功をあげ、後年氏勝と流浪をともにしたが、政宗暗殺に失敗して自害した。

大石村
おおいしむら

[現在地名]浮羽町高見たかみ

筑後川左岸の微高地に位置し、東は原口はりぐち村。江戸時代中期以後に西大石村が分村し(啓忘録抜萃)、以後東大石村とも称した。「和名抄」所載の生葉いくは郡大石郷の遺称地とされ、大石封が成立。江戸時代の本高は一千六四石余(元禄国絵図)。西大石村分村後の「在方諸覚書」では古高八八〇石余・役高一千一三八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一千一四一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四五町九反余・開田三反余・畑田一六町一反余・畑八町六反余・居屋敷九反余。

大石村
おおいしむら

[現在地名]河口湖町大石

河口湖の北岸にある。東は川口かわぐち村、北は御坂みさか山地の大石峠(標高一五二七メートル)で八代郡上芦川かみあしがわ(現芦川村)に通じ、西は長浜ながはま(現足和田村)。湖中のの島は当村に属する。慶長古高帳に村名がみえ、高一九五石余。寛文九年(一六六九)の検地帳(堀内保彦家文書)では高一九九石余。集落は川口村を通る鎌倉街道から分岐する脇往還の大石峠への上り口にあり、峠方向から流下する小河川の大淵おおぶち川・馬場ばば川が湖水に流入する所に形成された小平地に耕地を開いている。

大石村
おおいしむら

[現在地名]緒方町大石

中野なかの村の南西、からす(六八三・八メートル)の西麓にある。地蔵原じぞうばるにある永正五年(一五〇八)一一月吉日造立の石幢の銘に「緒方庄小河名内大石八屋村」とみえる。八屋はちや村は東部の八屋集落をさす。正保郷帳に大石村とみえ、田高一二四石余・畑高一六一石余、太田おおた郷に属し、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高四五二石余。安永七年(一七七八)には倉木組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

大石村
おおいしむら

[現在地名]筑紫野市大石

吉木よしき村の北、南西流する宝満ほうまん川流域にある。北西に愛嶽おだけ山がそびえる。宝満川上流域の当村および本道寺ほんどうじ村・香薗こうぞの村・油須原ゆすばる村の四ヵ村は同じ谷にあることから四箇畑と称された(続風土記)油須原村米山こめのやま(米ノ山峠)へ通ずる道が通る。天正一五年(一五八七)六月二八日の安楽寺天満宮領坪付注文(太宰府天満宮文書)などによれば、大石村の一所三町は文人伊勢大監知行分であった。

大石村
おいしむら

[現在地名]松阪市大石町

小片野おかたの村の西、櫛田くしだ川の左岸にある。中世伊勢神宮領となり、「神鳳鈔」に「内宮大石御薗九月御籾」とある。「内宮年中神役下行記」の貢納の条に「一、大石糯一石、食廿文、布一、七尋紙三束、栗十二合、十六文酒ヲ呑ス、例飯百八十文、取」と記載される。永正年中(一五〇四―二一)に国司北畠材親が入道の後当地に引籠り大石御所と称したとされる(伊勢国司記略)

大石村
おおいしむら

[現在地名]東部町大字滋野しげの字大石

小県郡の東部、北国脇往還(現国道一八号)沿いの村。東は片羽かたは村、西は加沢かざわ村、南は桜井さくらい村、北は別府べつぷ村に境を接する。

長禄四年(一四六〇)、諏訪社上社の五月会の頭役につき「流鏑馬」として「大石村禰津宮内少弼知行、代官岡村四郎兵衛俵付時宜御符之礼一貫八百文」(「諏訪御符礼之古書」守矢氏蔵)とあるを初見とする。

大石村
おおいしむら

[現在地名]会津本郷町大石

阿賀川中流左岸にそびえる岩崎いわさき山の南麓にあり、西と北は山が近く、東は阿賀川、南は田畑が開ける。本村の南八町に端村大門だいもんがあり左下さくだり観音の入口になっている。端村柳窪やなぎくぼは本村の北北西一三町余、端村西光さいこうは柳窪の北北西一町余にあり、本村よりは本郷村に近い。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高八〇八石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高九六六石余。化政期の家数は本村五二・大門一五・柳窪一〇・西光一〇(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数七四(社一・寺一)・人数三九六(人員録)。会津三十三観音第二一番札所の左下観音は阿賀川を見下ろす丘の上にあり、巌にそびえる懸造の珍しい構造となっている。

大石村
おおいしむら

[現在地名]赤碕町勝田かつた

水口みのくち村の南に位置する。拝領高は一四〇石余、本免は五ツ五分。藪役銀五匁を課されており(藩史)、関氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一五七石、竈数一四。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一五三石余、竈数一一。享保二〇年当村・東井手上ひがしいでのうえ村など以西谷いさいだにの五ヵ村と、なか村など立子谷たつこだにの四ヵ村の間で入会相論が起きている(在方諸事控)

大石村
おおいしむら

[現在地名]小笠町大石

嶺田みねだ村の西、きく川に佐塚さづか川が合流する地点の右岸に位置する。北部に大石の池(獅子ヶ鼻の池・蓮池)があり、その北西に高天神たかてんじん(現大東町)攻めの際、大須賀康高(のちに大須賀城主)が守る獅子ししはな砦があった。正保郷帳に村名がみえ、田方三九三石余・畑方六七石余、「日損」「芝山」「新田有」の注記がある。横須賀藩領(以後変化なく幕末に至る)。旧高旧領取調帳では四七九石余。用水は菊川・佐塚川のほか嶺田用水に依存。

大石村
おおいしむら

[現在地名]鳳来町副川ふくがわ

塩平しおだいら村の北につづき、集落の大部分は海老えび川の左岸にある。初め新在家しんざいけと称し、のち大石村と改称。標高六八八メートルのたな山の崩壊による松脂岩の大転石が、伊那街道沿いにあり、この転石が地名の由来になったという。昭和四年(一九二九)田口鉄道敷設の際、半分に破壊され現在はその周囲約三〇メートル。

双瀬ならぜ村とともに、天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同八年幕府領、寛永一七年(一六四〇)新城水野氏領、正保二年(一六四五)幕府領、慶安元年(一六四八)海老菅沼氏領。

大石村
おおいしむら

[現在地名]本山町大石

北流するかしノ川の西側にあり、同河川を挟んで、高津野たかつの村・芳延よしのぶ村の西にあたる。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「大石名」とみえ、検地面積六町八反三三代、うち田分四町二反四三代四歩、畠分一町一反一八代一歩、屋敷数二三で一町四反二一代一歩。すべて長宗我部家臣依光藤内の給地。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば四筆二反一三代の切畑があり、依光藤内の給地で小麦と記される。地検帳に「大石ノ城詰」「大石城ノ西二ノ堀」「弓場」がみえるが、これは長宗我部元親の統一以前、この地に本山氏の属城があり、有力な土豪が支配していたことを示す。江戸時代前期の「土佐州郡志」は城主不明としているが、検地時の城詰は依光藤内である。

大石村
おおいしむら

[現在地名]津屋崎町大石

宮地みやじ岳山塊の大石山(一七八メートル)を含めて同山の西側に位置する。南は須多田すだた村。永仁三年(一二九五)四月一〇日、僧壮円が子息の香童丸に譲った所帯のうちに「奴山・大石村田畠等小問丸名」がある(「僧壮円譲状」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文二四)。小早川時代の指出前之帳では奴山ぬやま村の枝村。慶長石高帳に大石村がみえ、慶長九年(一六〇四)の検地高は三〇二石余、うち大豆高五七石余。

大石村
おおいしむら

[現在地名]堀之内町大石

堀之内村の東に続く。南は青島あおしま(現小出町)、東は魚野うおの川と破間あぶるま川の合流点にある四日町よつかまち(現小出町)、北の魚野川対岸は田戸たど村。「新編会津風土記」によると、天正年中(一五七三―九二)に大石播磨某が居住したことにより村名となると伝える。同六年五月二二日の大石兵部丞宛の上杉景勝知行充行状(歴代古案)に「藪神之内大石村」とある。正保国絵図では高一一八石余。

大石村
おおいしむら

[現在地名]関川村大石

蒲萄鼻ぶどうはな山の西麓にあり、西方を大石川が蛇行して北流する。北は安角あずみ村、西は金俣かねまた村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分おゝゐし村 下」とみえ、本納三石五斗・縄高三三石六斗一升三合、家六軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領、文化八年(一八一一)幕府領。正保国絵図では六〇石余。万治二年(一六五九)の検地時には高四二石二斗余・田畑四町二反四畝余(「高反別取米書上帳控」平田家文書)。寛政三年(一七九一)の村々御案内書上帳(大滝正輔氏蔵)によれば家数二〇・人数九五、馬七、小物成は山手船頭米・荏代・夏川役・漆木役・山蝋実代などが記され、農業のほか持山から薪・柴を伐り出すとある。

大石村
おおいしむら

[現在地名]国府町大石

石井谷いわいだに村の南に位置する。元禄一四年(一七〇一)同村の枝郷として分村しているが(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、同五年銘の三界万霊石塔に村名がみえることから、それ以前に領内に限り一村とみなされていたと考えられる。元禄郷帳によれば高七一石余で、享保元年(一七一六)郷村高辻帳に当村分として載る高三一石余は拝領高相当分と推定される。本免は六ツ九分。「因幡志」によれば家数三四。天保一五年(一八四四)の作人改帳(井上家文書)では作人六二。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高七四石余(うち畑高七石余)で、永荒を引き年々開四八石余などを加えた都合高は一二三石余。

大石村
おおいしむら

[現在地名]垂井町大石

新井あらい村・大滝おおたき村の西に位置し、あい川支流の大石川が南流。慶長郷帳に村名がみえ、高五五二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では当村のうち五二石余が幕府領、ほかは旗本長谷川重治領。正保郷帳では田高四一四石余・畑高一三八石余、山年貢八石で、うち六〇石が尾張藩領(元和五年から)、ほかは旗本長谷川重棟領。元禄郷帳でも同じ。元禄七年(一六九四)の関ヶ原宿助郷帳写(岩田文書)では定助郷に編成されている。

大石村
おおいしむら

[現在地名]唐津市元石町もといしまち東町ひがしまち船宮町ふなみやまち十人町じゆうにんまち

松浦川河口の左岸の集落で、唐津城下町に隣接する。正保絵図に村名がみえる。

文化年中記録に畝数一二町一段六畝九歩半とある。

村域には新堀しんぼり・船宮・船頭せんどう町・東寺ひがしてら町・十人町・同心どうしん町と称して町方にも郷方にも属さない地域があった。

大石村
おおいしむら

[現在地名]千代田町大字あね東大石ひがしおおいし、大字黒井くろい西大石にしおおいし

東は長崎街道沿いの新宿しんしく、南は乙南里おとなんり村、西は黒井村に接する。城原じようばる川のやや西方に位置する。

大石村
おおいしむら

[現在地名]芦辺町諸吉もろよし 大石触おおいしふれ

諸吉村の北西部にある。正保国絵図に村名がみえ、高一六〇石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では諸吉村のうちに大石免と記される。

大石村
おおいしむら

[現在地名]長岡市下条げじよう

下条村と中屋敷なかやしき村の南端に隣接する三国街道(現国道一七号)東側の小集落。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高五三石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大石村の言及

【上尾[市]】より

…埼玉県南部の市。1955年上尾,原市,平方の3町と大谷,大石,上平の3村が合体,58年市制。人口20万6090(1995)。大宮台地の中央部にあり,西境を荒川,東境を綾瀬川が流れる。中心街の上尾は中山道の宿場町,東部の原市は市場町,西部の平方は荒川の河岸集落から発展した。周辺の農村部は大麦とサツマイモの産地として知られたが,現在は野菜や果樹づくりと畜産を中心とした近郊農業に変わってきている。高崎線と国道17号線が通じ,東京の都心へ40kmと交通の便が良く,平たん地も多いため,1960年代以後,平塚,坊山,領家の工業団地ができ,自動車,非鉄金属,食料品などの工場が誘致され,県内有数の工業都市となった。…

※「大石村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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