出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
神奈川県中部,中郡の町。1954年国府町と合体。人口3万3032(2010)。背後の大磯丘陵が相模湾に臨むところが段丘となり,そこに狭小な市街地がある。古くから宿駅として知られ,中世の文学作品にはよくその名が見え,源頼家や曾我十郎の遊興が伝えられる。江戸時代は東海道の宿駅として栄えた。1885年松本順により照ヶ崎海岸に日本最初の海水浴場が開かれて以来,温暖な景勝地として別荘を営むものが多く,伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく),山県有朋の小淘(こゆるぎ)庵などが著名で,第2次世界大戦後吉田茂も居住した。西行の歌で知られる鴫立沢(しぎたつさわ),島崎藤村の墓のある地福寺,高田保ゆかりの高田公園などがある。町の西郊の国府は相模国府のあったところで,相模の総社といわれる六所神社があり,今に伝わる国府祭(こうのまち)は毎年5月5日に行われ,神揃山の〈座問答〉の神事は県の無形民俗文化財に指定され,1月14日夜の北浜海岸の左義長,3月の白岩神社の歩射(ぶしゃ),7月の高来神社の御船祭などとともに人々を集めている。JR東海道本線が通じる。
執筆者:伊倉 退蔵
相模国の東海道の宿場町。《和名抄》にみえる〈余綾郡伊蘇郷〉に比定される。鎌倉時代は,鎌倉近郊の宿駅として発展した。1601年(慶長6)東海道の駅制施行にともない一宿となり,平塚~小田原間の人馬の継立てにあたった。1803年(享和3)には,人数2702,家数605,本陣3,旅籠85,諸商売97,百姓222,漁師193,医・針25,問屋場2,定助郷31ヵ村,加助郷17ヵ村であった。幕末には宿財政の悪化が宿内小前(こまえ)を刺激し,1836年(天保7)に打毀がおこり,二宮尊徳の仕法による安定がはかられた。明治になって鉄道敷設により一時衰えたが,保養地となり,1926年東海道本線の電化にともない,京浜と近距離となり,一般住宅地帯ともなった。
執筆者:高橋 敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
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