大給恒(読み)おぎゅう・ゆずる

朝日日本歴史人物事典 「大給恒」の解説

大給恒

没年:明治43.1.6(1910)
生年:天保10.11.13(1839.12.18)
幕末の三河国(愛知県)奥殿藩主,信濃国(長野県)田野口(のち竜岡)藩主。明治期の官僚,政治家。幼名は三郎次郎,雅号は亀崖。初名は松平乗謨,明治1(1868)年祖先の旧領地の名に因んで大給に改めた。嘉永5(1852)年襲封したが,早くから蘭語,フランス語を学び,フランス式練兵を採用した。文久3(1863)年幕府に申請し許可を得て奥殿から田野口に移る。同地で洋風の五稜郭城の建設に着工し,3年後に完成。同年若年寄となり慶応2(1866)年老中格,陸軍総裁に任じられ奥儒者成島柳北を騎兵頭に登用した。翌年フランス公使ロッシュの勧告に基づく幕政改革を実行し,大政奉還後徳川慶喜にその早計なることを進言した。この間幕府に勲章制定を建議している。戊辰戦争には北越に出兵したが,明治1年5月竜岡藩と改称して恭順の姿勢を示した。廃藩置県に先立って郡県制導入を説き,同藩知事を辞任した。その後勲章制度確立に努め賞勲局総裁を務めたほか,西南戦争(1877)に際し佐野常民と共に博愛社創立し日本赤十字社の基を築いた。17年子爵,40年伯爵に叙せられた。<参考文献>榎本半重『大給亀崖伝』

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大給恒」の意味・わかりやすい解説

大給恒
おぎゅうゆずる

[生]天保10(1839).11. 江戸
[没]1910.1.6. 東京
江戸時代末期の三河奥殿藩主,のち信濃田野口に移封。幼名乗謨。若年寄から老中格に登用され,陸軍奉行,陸軍総裁となる。慶応3 (1867) 年,全国諸藩から徴税して海陸軍拡張に投入すべきことを幕閣に建白。竜岡城五陵郭を営む。幕府倒壊後は新政府に出仕し,明治2 (69) 年竜岡藩知事。 1873年式部寮御用掛。一時元老院議官となったが,78年賞勲局副総裁となり,次いで総裁となって勲章の造形などに貢献した。なお,佐野常民日本赤十字社前身,博愛社を興した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大給恒」の解説

大給恒 おぎゅう-ゆずる

1839-1910 幕末-明治時代の大名,華族
天保(てんぽう)10年11月13日生まれ。松平乗利の次男。嘉永(かえい)5年三河(愛知県)奥殿(おくどの)藩主松平(大給)家8代となる。文久3年信濃(しなの)(長野県)田野口(のち竜岡藩に改称)に陣屋をうつす。大番頭から若年寄となり,のち陸軍奉行,老中格,陸軍総裁をつとめる。維新後,賞勲局総裁,枢密顧問官,元老院議官などを歴任。明治10年日本赤十字社の基礎となる博愛社を創立。伯爵。明治43年1月6日死去。72歳。初名は乗謨(のりかた)。

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