大谷光尊(読み)おおたにこうそん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大谷光尊」の意味・わかりやすい解説

大谷光尊
おおたにこうそん
(1850―1903)

真宗本願寺派本願寺第21世宗主。法名は明如(みょうにょ)。信知院と号する。1868年(明治1)法嗣となり、父の広如(こうにょ)(大谷光沢(こうたく)。1798―1871)を補佐、1871年に住持を継職した。明治初期の排仏運動に抗するとともに、島地黙雷(しまじもくらい)、赤松連城(あかまつれんじょう)をヨーロッパに派遣し、宗門の近代化に努めた。とくに、大教院神道からの分離を推進するにあたってはその中心となって活動した。また宗内においては、宗制寺法の制定、学制改革のほか、北海道、鹿児島、沖縄などへの布教を行い、財政改革を進めた。しかし、北畠道龍(きたばたけどうりゅう)(1820―1907)を用いての光尊の急進的な宗門改革運動は、宗内外の批判によって挫折(ざせつ)した。その間の事情は、門下の三島了忠(みしまりょうちゅう)著『光尊上人(しょうにん)血涙記』によって知られる。

北西 弘 2017年5月19日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大谷光尊」の解説

大谷光尊 おおたに-こうそん

1850-1903 幕末-明治時代の僧。
嘉永(かえい)3年2月4日生まれ。大谷光沢の5男。明治4年浄土真宗本願寺派21世となる。翌年島地黙雷(もくらい)らを海外に派遣。教部省の大教正となり,島地の提案で8年神道優先の大教院から真宗を分離。教団の宗制,教育制度などの改革につくした。明治36年1月18日死去。54歳。京都出身。法名は明如。字(あざな)は子馨。号は六華,楳窓。

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