デジタル大辞泉
「大谷光瑞」の意味・読み・例文・類語
おおたに‐こうずい〔おほたにクワウズイ〕【大谷光瑞】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
おおたに‐こうずい【大谷光瑞】
真宗本願寺派管長。
法号、鏡如。
探検隊を組織し、中央アジアの考古学的踏査を
挙行。
日本の
進運とアジア振興に意を傾けた。明治九~昭和二三年(
一八七六‐一九四八)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
大谷光瑞
おおたにこうずい
(1876―1948)
真宗本願寺派本願寺第22世宗主。法名は鏡如(きょうにょ)。信英院と号する。父は明如(みょうにょ)(大谷光尊(こうそん))。学習院を卒業後、ヨーロッパに留学。1902年(明治35)帰国の途次、西域(せいいき)の探検を行い(大谷探検隊)、インド、中央アジア、チベットなどの貴重な資料を持ち帰った。翌1903年には父の死に伴い西本願寺住持を継職。同時に本願寺派管長となったが、1914年(大正3)財団疑獄事件のため職を辞し、中国、南洋、トルコで事業を経営した。著作は多く、『大谷光瑞全集』(1934~1935)に収められている。
[北西 弘 2017年5月19日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
大谷光瑞 (おおたにこうずい)
生没年:1876-1948(明治9-昭和23)
明治後期から大正にかけての浄土真宗本願寺派の第22世宗主。21世光尊の長男として誕生。法名は鏡如。貞明皇后の姉九条籌子と結婚。1903年西域探検のためインドに滞在中に父が死去して継職。継職後も探検を続行させ,3回にわたる発掘調査等を実施した(大谷探検隊)。神戸六甲山上に二楽荘を建て,探検収集品の整理のほか,英才教育の学校,園芸試験場,測候所,印刷所などを設置。宗主としては教団の近代化につとめ,日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。1914年負債および疑獄事件のため隠退。中国の孫文政府の最高顧問,第2次大戦中は内閣参議,内閣顧問を歴任した。《大谷光瑞全集》13巻がある。
執筆者:千葉 乗隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大谷光瑞【おおたにこうずい】
浄土真宗本願寺派22代宗主。法名は鏡如(きょうにょ)。1903年宗主となり,宗務,教勢の拡張に活躍。本多恵隆(えりゅう)ら4名を連れ,欧州からパミールにはいり,ホータン,クチャを探検(1902年―1904年)。その後,2回(1908年―1909年,1910年―1912年)にわたる大谷探検隊(橘瑞超(たちばなずいちょう))を派遣し,成果を《西域考古図譜》《新西域記》にまとめた。1924年職を辞した後,海外に暮らす。妹に歌人九条武子(たけこ)〔1887-1928〕がある。
→関連項目敦煌莫高窟|楼蘭
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
大谷光瑞 おおたに-こうずい
1876-1948 明治-昭和時代の僧,探検家。
明治9年12月27日生まれ。大谷光尊の長男。妻は貞明皇后の姉九条籌子(かずこ)。明治35年大谷探検隊を組織して,西域,インドを調査。36年浄土真宗本願寺派22世となる。大正3年財政破綻(はたん)と疑獄事件で辞任。以後,中国などで農園を経営,大アジア主義を主張した。昭和23年10月5日死去。73歳。京都出身。学習院中退。法名は鏡如。
【格言など】食を精ならしめんと欲せば,先ず材料を撰(えら)ばざるべからず(「食」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
大谷光瑞
おおたにこうずい
[生]1876.12.27. 京都
[没]1948.10.5. 別府
浄土真宗の僧。探検家。浄土真宗本願寺派第 21世法主大谷光尊の子として生れた。 1903年同派法主となる。 02年から 14年にいたる 13年間に3回にわたって中央アジア探検隊を派遣し多くの成果をあげた。 (→大谷探検隊 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の大谷光瑞の言及
【大谷探検隊】より
…西本願寺の法主[大谷光瑞]が主宰した日本唯一の中央アジア探検隊。第1次は1902‐04年,大谷光瑞,本多恵隆,井上弘円,渡辺哲信,堀賢雄,第2次は08‐09年,野村栄三郎,橘瑞超,第3次は10‐14年,橘瑞超,吉川小一郎によって行われ,仏教東漸の遺跡として,ホータン,クチャ,敦煌など中央アジア各地を調査した。…
※「大谷光瑞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」