大野原(読み)おおのはら

日本歴史地名大系 「大野原」の解説

大野原
おおのはら

富士山南麓に広がるなだらかな丘陵地帯で、大半は草原で、一部山林となっている。現市域の約三分の一を占める東富士演習場の一部にあたり、富士山の平塚ひらつか藤原ふじわらから演習場最南端の兎島うさぎじまにかけて全長一二キロにわたる。御殿場市原里はらさと地先および富士岡ふじおか地先、裾野市須山すやま地先および富岡とみおか地先をその領域とし、面積二〇〇〇ヘクタール。水利には恵まれず、春木はるのき沢・さかい沢・砂沢ずなざわ川をはじめ、多数の涸川があって、降雨等出水時に土砂を伴った悪水が奔騰する。しかし天候が回復すれば直ちに渇水し、流出堆積した火山砂を残すのみとなる。

大野原
おおのがはら

[現在地名]河東町八田 大野原

強清水こわしみずの北に広がる標高約五二二メートル、縦横約一キロの大原野。東に小丘陵の点在する原野があり、その東に猪苗代湖の水が流れ出る十六橋じゆうろくきようがある。「新編会津風土記」の強清水新田村の項に「八田野村及会津郡滝沢組金堀村、原組赤井村の境内の原野」と述べる。大野原の東側の原野では、縄文時代早期から前期の遺跡が四ヵ所確認され、土器片や石鏃が発見された。寛文七年(一六六七)会津藩はこの広大な原野を山下五三ヵ村(現河東町・湯川村、会津若松市神指町・同市町北町など)の入会地に定めた。文化一四年(一八一七)から幕末にかけて、会津藩の追鳥狩とよぶ大操練(大軍事演習)の場所になった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野原」の意味・わかりやすい解説

大野原
おおのはら

香川県西部、三豊郡(みとよぐん)にあった旧町名(大野原町(ちょう))。現在は観音寺市(かんおんじし)の中南部を占める一地区。讃岐(さぬき)山脈の北斜面に位置し、北西部は瀬戸内海に臨む。1955年(昭和30)大野原、萩原(はぎわら)、五郷(ごごう)の3村が合併して町制施行。2005年(平成17)観音寺市に合併。JR予讃(よさん)線(駅は隣接する観音寺市豊浜町姫浜にある)、高松自動車道(大野原インターチェンジ)、国道11号、377号(金毘羅(こんぴら)街道)が通じ、曼陀(まんだ)トンネルによって徳島県とも結ばれる。讃岐山脈から流れる柞田(くにた)川のつくった扇状地は水に乏しく、地名のとおり大野原の荒れ地であったが、江戸時代に平田与一左衛門らにより井関池が築造され、溜池灌漑(ためいけかんがい)による豊かな農地に生まれ変わった。稲作のほか、タバコ、レタスを栽培し、ミカンの栽培面積も多い。1987年、雲辺寺ロープウェイが開通。四国八十八か所の第66番札所、雲辺寺(うんぺんじ)への参拝を便利にするとともに、雲辺寺山は観光地としてあらためて注目されている。

[稲田道彦]

『『大野原町誌』(1956・大野原町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大野原」の意味・わかりやすい解説

大野原
おおのはら

香川県西端,観音寺市南部の旧町域。三豊平野の南端にあり,愛媛県と徳島県に接する。 1955年大野原村,萩原村,五郷村の3村が合体して町制。同年紀伊村の一部を編入。 2005年観音寺市,豊浜町と合体して観音寺市となった。平野部や丘陵地にはため池が点在し,米作のほか,タマネギ,レタス,ミカンなどを栽培する。柞田川 (くにたがわ) 流域には萩原寺や五郷山公園があり,また上流の豊稔池,五郷ダムは三豊平野南部の灌漑用水源となっている。南部の徳島県境には日本有数の長さのロープウェーがかかる雲辺寺山がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「大野原」の意味・わかりやすい解説

大野原 (おおのはら)

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