天王寺(読み)テンノウジ

デジタル大辞泉 「天王寺」の意味・読み・例文・類語

てんのう‐じ〔テンワウ‐〕【天王寺】

四天王寺の略称。
大阪市の区名。四天王寺がある。JR天王寺駅は大阪市の南玄関をなす。
東京都台東区谷中にある天台宗の寺。山号は護国山。昭和32年(1957)に焼失した五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデル

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精選版 日本国語大辞典 「天王寺」の意味・読み・例文・類語

てんのう‐じ テンワウ‥【天王寺】

[一] 東京都台東区谷中にある天台宗の寺。山号は護国山。一四世紀末日源の開創で、はじめは日蓮宗に属し、長燿山尊重院感応寺と称した。元祿一一年(一六九八)天台宗に改宗。幸田露伴の小説で有名になった五重塔は昭和三二年(一九五七)焼失。
[三] 大阪市の行政区の一つ。上町台地にある。四天王寺や生国魂(いくたま)神社などの古社寺が多い。駅の北西には天王寺公園がある。
[四] 大阪市の地域名。JR関西本線の天王寺駅、近鉄南大阪線の阿倍野橋駅を中心とする一帯。

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日本歴史地名大系 「天王寺」の解説

天王寺
てんのうじ

[現在地名]台東区谷中七丁目

谷中やなか七丁目の北方、JR山手線日暮里につぽり駅南東にある。護国山と号し、天台宗。本尊は毘沙門天。天王寺はもとは長耀山感応かんのう(谷中感応寺)といい、日蓮宗であった。寺伝によれば日蓮は谷中を通過するごとに関小次郎の家に宿泊し、関夫妻をはじめとする住民を教化した。のち日蓮は自刻の像を残して去り、関氏らはその像を本尊として寺院を建て日源を開山にした。山号の長耀は関小次郎の名であるという。その後衰退し、享徳元年(一四五二)碑文谷ひもんや法華寺(現目黒区)の日耀により再興された。文禄元年(一五九二)に罹災して再び衰えたが、寛永一五年(一六三八)三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立寄って住職日長と会見したことから将軍の帰依を受け、同一八年二万九千六九〇余坪を寺地として与えられた(寺社備考)。慶安元年(一六四八)には寺領三八石余の朱印状が下され、寛文五年(一六六五)にも同様の朱印状を与えられた(寛文朱印留)。寛文二年の「江戸名所記」は日蓮の忌日一〇月一八日は参詣の人で混雑すること、願い事のある者は草履一足を持参して祈る風習があることを伝え、天和二年(一六八二)の「紫の一本」は卵塔場へ行く道の方に匂いのすぐれた桜花のあることを記している。

天王寺
てんのうじ

[現在地名]福島市飯坂町 天王寺

大作おおさく山から南に延びる丘陵下に位置。香積山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。用明天皇二年の建立で、法灯国師(覚心)によって中興されたと伝える。法灯国師を開祖とする寺伝もある。当寺裏山の天王寺経塚から出土した承安元年(一一七一)八月一九日の経筒(寺蔵、国指定重要文化財)の銘に「信夫御庄天王寺如法堂」とみえ、大檀主藤原真年などの名が記されている。文治五年(一一八九)大鳥おおとり城の落城に際して兵火にかかり、応安七年(一三七四)智鑑が再興、七堂伽藍が整えられたという(「天王寺縁起」寺蔵)

天王寺
てんのうじ

[現在地名]岩出山町上野目 天王寺

上野目かみのめ村の北方にある。興国山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。当初天台宗であったが鎌倉期に禅宗に改めたと伝え、境内には正和(一三一二―一七)、嘉暦(一三二六―二九)などの年号が読取れる板碑のほか、線刻の釈迦来迎図と思われる板碑四基が残る。本尊の如意輪観音は聖徳太子の作と伝えるなど、太子にかかわる多くの伝承が残り、建武三年(一三三六)三月三日の紀年号と「遠江前司明光成等正覚発菩提□□□」の文が刻まれた碑を当地では、太子に討たれた物部守屋の追悼碑という。

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百科事典マイペディア 「天王寺」の意味・わかりやすい解説

天王寺【てんのうじ】

摂津四天王(してんのう)寺周辺に形成された中・近世都市。上町(うえまち)台地にあり,北方には難波(なにわ)宮跡がある。飛鳥(あすか)時代〜奈良時代の当地では,四天王寺の創建や,難波の百済(くだら)寺に比定される堂ヶ芝(どうがしば)廃寺,摂津国分寺と伝えられる国分寺の創建があった。平安時代になると四天王寺参詣が盛んとなり,同寺周辺は都市的景観を呈するようになる。また住吉社(住吉大社)や熊野・高野(こうや)などへの参詣も盛んになり,熊野街道筋にあたる当地は賑いをみせた。さらに平安末からの浄土信仰の盛行により,四天王寺西門や西門に続く夕陽丘(ゆうひがおか)が西方浄土を憶念する霊地として知られるようになり,貴賤が参集した。南北朝期になると交通の要地であった当地はたびたび戦乱に巻込まれた。なかでも1333年の楠木正成(まさしげ)と六波羅方の合戦では多くの在家が焼亡,以降もたびたび合戦があった。また戦国末には織田信長により天王寺城が築かれ石山合戦の主戦場の一つとなり,大坂の陣では茶臼(ちゃうす)山に徳川家康の本営が置かれた。このように南北朝期以降,当地一帯は度重なる戦火を受けたにもかかわらず商工業は着実に発展し,都市化が進んだ。1187年〈天王寺檜皮大工〉11人が勝尾寺(現大阪府箕面市)造営工事を担当しており,1245年にも天王寺の大工が同寺の塔婆葺替えに従事している。石工の活動も知られており,また各種の手工業製品(藺・藁細工,蘆簾など)の生産に携わる職人の活動も盛んであった。室町時代中ごろには三条西家を本所とする〈天王寺青苧(あおそ)座〉の活躍が著名になる。彼らは越後まで青苧の買付けに出かけ,青苧から繊維を取り,織物を作って販売した。15世紀後半には〈天王寺浜市〉が繁栄し,各地から食料品・日常生活品・衣料品・生産用具・武具・唐物などが持ち込まれて売買された。このころには〈天王寺ハ七千間在所〉(《大乗院寺社雑事記》)といわれるほど人家が密集していた。近世には周辺の農村地帯と合わせて〈天王寺村〉として高付けされ,正保(1644年−1648年)ころには村高5561石余,延宝検地高は7615石余。大坂城下の建設期には一時的に都市機能は衰退したとみられるが,その後の大坂市中の拡大に伴って大坂三郷に南接する地として,また阿部野街道(熊野街道)や紀州街道が通る交通の要地として都市的景観を回復,〈村〉扱いながら30近い町が成立して〈家戸数千軒有,農工商交居〉(宝暦2年《天王寺管内地図》)といわれるようになった。鋸(のこぎり)や綿の加工器械である攪車(わたくり),草履などが生産され,商業では実綿・繰綿の取引が盛んであった。さらに牛市や植木市も賑わった。牛市は16世紀末に開設されたと伝え,主宰者の石橋家は摂河泉播4ヵ国の牛売買権をもち,18世紀末近くまで中断期を除いて畿内最大の牛市であった。天王寺村は1889年阿部野村(現大阪市阿倍野区)と合併して新〈天王寺村〉となり,1897年北半が大坂市区に編入,1925年増区により北半とともに南半も天王寺区に編入。
→関連項目平野郷

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改訂新版 世界大百科事典 「天王寺」の意味・わかりやすい解説

天王寺 (てんのうじ)

大阪市天王寺区の一部の旧地名。はじめ摂津国百済郡,のち闕郡を経て1685年(貞享2)東成郡に属した。四天王寺の所在地であるため,古来天王寺という。古くから竹内街道,西高野街道,熊野街道などの通過する交通の要地で,南北朝時代には1332年(元弘2)の天王寺合戦以来たびたび南北両軍の争奪のまととなった。石山合戦(1570-80)のときには,織田信長軍の砦が築かれ,石山本願寺攻略の一拠点となった。豊臣秀吉の大坂築城後は,外構えとして重要視され,大坂の陣では徳川家康の本営が置かれた。江戸時代には村高7200石余の大村で,幕府直轄領および四天王寺領であった。1889年阿倍野村を合併して天王寺村大字天王寺となり,97年大阪市の第1次市域拡張により大阪市に編入,南区に属したが,1925年第2次市域拡張にともなう分増区により,天王寺区となった。
執筆者: 四天王寺の南西にある天王寺公園は1903年に開かれた第5回内国勧業博覧会の跡地に作られた市営公園で(09年開園),園内には動物園,美術館,図書館,植物園,市内三名園の一つ慶沢園(けいたくえん)などがあり,北東隅には茶臼山古墳がある。公園の西側は新世界と呼ばれる歓楽街である。また公園の近くには大阪教育大学や大阪市立大学医学部付属病院が立地する。天王寺はJRの環状線,関西本線,阪和線,南海天王寺線(93年廃止),阪堺上町線,近鉄南大阪線,地下鉄御堂筋線,同谷町線が集中する大阪南部の交通ターミナルで,百貨店,商店,ホテルなどが集まって繁華街を形成している。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の天王寺の言及

【四天王寺】より

…大阪市天王寺区にある寺。荒陵山と号し,荒陵(あらはか)寺,天王寺ともいう。…

※「天王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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