天草郡(読み)あまくさぐん

日本歴史地名大系 「天草郡」の解説

天草郡
あまくさぐん

面積:六四六・六一平方キロ
大矢野おおやの町・松島まつしま町・有明ありあけ町・姫戸ひめど町・りゆうたけ町・御所浦ごしようら町・倉岳くらたけ町・栖本すもと町・新和しんわ町・五和いつわ町・苓北れいほく町・天草あまくさ町・河浦かわうら

県の南西部に位置し、北東は宇土うと半島、東は八代海(不知火海)を隔てて八代市・葦北あしきた郡に接し、西は東シナ海に連なる天草灘に臨み、北は有明海・たちばな(千々石灘)を隔てて長崎県の島原半島・長崎半島を眺望。南西は鹿児島県出水いずみ郡の獅子しし島・なが島と相対する。天草諸島は四面環海、大矢野かみしもの三主島をはじめ大小一二〇余の島嶼群からなる。大河川はなく全島海岸線まで丘陵が迫り、平地に乏しい。現在一三ヵ町からなり、大矢野島に大矢野町、上島に松島・有明・姫戸・龍ヶ岳・倉岳・栖本の各町、御所浦島御所浦町、下島に新和・五和・苓北・天草・河浦の各町が立地。上島南西部から下島北東にかけて当郡より分離した本渡ほんど市、下島南端に牛深うしぶか市が立地する。

郡名は「続日本紀」天平一六年(七四四)五月条に「肥後国雷雨地震、八代、天草、葦北三郡」とみえる。「和名抄」は「安万久佐」と訓ずる。地名の発祥は一説によると海士草に由来するとされ、海士集団にちなむという。苓洲れいしゆう青螺せいら島などの異名がある。

〔原始・古代〕

下島北端五和町おきはら遺跡は縄文早期から古墳時代にわたる複合遺跡で、県下では最大級の遺跡の一つ。縄文早期のあけぼの遺跡が倉岳町に、後期の一尾ふとお貝塚が五和町にある。耕作可能な平野部が狭小のためか弥生遺跡は比較的少なく、わずかに倉岳町の宮崎みやざき支石墓群がみられる程度。古墳時代は北九州・南九州両文化圏の接点上に独自な生活文化の展開をみたようで、海の見える丘には必ず古墳があるとまでいわれる。小規模な円墳が多い。大矢野町維和いわ島北端の千崎せんざき古墳群は積石塚と箱式石棺からなり、古墳中期と推定される。同島南端の広浦ひろうら古墳には石棺材の一部に大刀・刀子などが描かれている。大矢野島の長砂連ながされ古墳は直弧文の装飾古墳。松島町の大戸鼻おおとばな古墳群には円文が線刻されているものがある。同町のカミノハナ古墳群からは埴輪が、阿村鬼塚あむらおにつか古墳群からは金環・管玉などが出土。そのほか横穴式石室をもつ有明町大浦おおうら古墳群、栖本町おき古墳群、河浦町鬼塚おにづか古墳などがみられ、鬼塚古墳は天草に現存する古墳中、最南端のものとされる。これらは農耕社会を背景とする豪族の墳墓というよりも、火の君文化圏の大陸交渉を含む海洋活動に参加した海士集団の奥津城所とみる説が妥当のようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の天草郡の言及

【肥後国】より

…小西行長は宇土城に入ったが,ここでは宇土城築城の普請役をめぐって天草五人衆の抵抗を受け,加藤清正の援助によってこれを鎮圧した。この結果,天草郡は完全に小西氏の支配に属することとなった。 関ヶ原の戦に際して,肥後の3大名は三様の動きをする。…

※「天草郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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