太田宿(読み)おおたしゆく

日本歴史地名大系 「太田宿」の解説

太田宿
おおたしゆく

[現在地名]太田市本町ほんちよう東本町ひがしほんちよう

日光例幣使街道宿駅で、倉賀野くらがの宿(現高崎市)から数えて五番目、九里二二町で、西の木崎きざき宿(現新田郡新田町)へ一里三〇町、東の八木やぎ宿(現栃木県足利市)へ二里一〇町。宿の成立は、安政五年(一八五八)本陣休泊控(太田宿本陣史料)によれば「正保二年ヨリ例幣使道太田駅ト唱フ 但十三宿ナリ」とあり、奉幣使の日光派遣開始の前年。本陣・脇本陣が置かれ、天保一四年(一八四三)調べで宿内町並東西九町一〇間、問屋場二、宿建人馬二五人・二五疋、うち囲人馬一五人・一五疋(例幣使道宿村大概帳)街道は宿内五五〇間が道幅四間、宿外は二間で、道普請にあたっては置土をなし、砂利を敷いて補修した。道筋村々は村内掃除丁場として指定されていたため、例幣使通行を控えての普請は村方百姓役が通例であった(文化一一年「普請願箇所付帳」太田宿本陣史料)。明和三年(一七六六)の人馬賃銭は八木宿までは荷物一駄七五文・軽尻五〇文・人足三七文、木崎宿までは荷物一駄五九文・軽尻三九文・人足二九文。明和元年の家数書上帳(同史料)によると本陣一・脇本陣一・平旅籠一四で、脇本陣は座敷間数が不足の状況で、平旅籠のうち七軒は粗末なものであった。

太田宿
おおたしゆく

[現在地名]美濃加茂市太田本町二―四丁目

中山道の木曾川渡場の北岸にあり、飛騨街道が分岐する。元禄七年(一六九四)までは南岸の土田どた宿(現可児市)合宿であった。上りは鵜沼うぬま宿(現各務原市)へ二里、下りは伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)へ二里。「濃州徇行記」によれば、古道は内田うちだ(現愛知県犬山市)から善師野ぜんじの宿(現同上)を経て土田宿へ通じていたが、江戸初期に太田渡へ付替えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の太田宿の言及

【太田[市]】より

…東武伊勢崎線が通じ,桐生線,小泉線を分岐する。【有末 武夫】
[太田宿]
 上野国新田郡,日光例幣使街道の宿駅。1613年(慶長18)に建立された大光院(寺領300石)の門前町が複合して発展した。…

※「太田宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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