奈良原繁(読み)ならはら・しげる

朝日日本歴史人物事典 「奈良原繁」の解説

奈良原繁

没年:大正7.8.13(1918)
生年天保5.5.23(1834.6.29)
幕末明治期の地方行政官僚,政治家。鹿児島城下高麗町に生まれる。幼名三次,長じて喜八郎,幸五郎。鹿児島閥をバックに活躍し,明治の「琉球王」の異名を持つ。幕末には,薩摩藩士として国事に奔走する。3歳上の兄喜左衛門が生麦(神奈川県)で英国人に斬りつけ(生麦事件),その処理をめぐって薩英戦争が起きた。奈良原西郷隆盛,大久保利通らの討幕路線に反対したため,戊辰戦争前後は失脚の状態にあった。明治11(1878)年,内務省御用掛,その後,内務権大書記官,農商務大書記官,静岡県令,工部大書記官,日本鉄道会社初代社長,元老院議官,貴族院勅選議員,宮中顧問官,錦鶏間祗候などを歴任。25年7月に沖縄県知事に任命され,以後41年4月まで,15年10カ月にわたり沖縄県政を独占した。松方正義,伊藤博文の支持もあった。奈良原は,あらゆる面で急速に沖縄地方の本土化即ち一体化を推進し,教育(皇民化),土地整理,港湾施設の整備の3大事業を重点施政として,沖縄開発を専制的に推し進めた。新聞の果たす役割も認識し,『琉球新報』の発行にも協力,産業振興のための沖縄県農工銀行設立も支援した。奈良原は土地整理事業によって土地私有制の確立を図り,共同体農村社会を解体にもちこみ,共同体総有の山林(杣山,入会地)を士族救済名目で払い下げたり,農民の利益を無視した県政を強引にすすめた。県庁人事も鹿児島閥を中心として,本土出身者で占められた。このような奈良原県政への最初の批判者となったのが国政参加を主張した謝花昇であった。また,沖縄の地域文化の独自性,固有姓を主張する伊波普猷の「沖縄学」は,奈良原の推進した一体化策によって,沖縄の個性が崩壊していくことへのレジスタンスがこめられていた。<参考文献>秦蔵吉『南島夜話』

(我部政男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奈良原繁」の意味・わかりやすい解説

奈良原繁
ならはらしげる
(1834―1918)

第8代の沖縄県知事。天保(てんぽう)5年5月23日薩摩(さつま)藩士の子に生まれる。幼名を三次(さんじ)、のち喜八郎、幸五郎(こうごろう)などと名のった。寺田屋事件では藩主島津忠義(ただよし)の父久光(ひさみつ)の命で同藩の急進派を鎮圧したメンバーの一人。明治新政府に入り農商務大書記官、静岡県令、日本鉄道会社初代社長などの要職を歴任したのち、元老院議官、貴族院議員となった。1892年(明治25)沖縄県知事に就任、1908年(明治41)に退職するまでの15年余も同職にあり、その強烈な個性と相まって「琉球(りゅうきゅう)王」の異名をとった。近代教育の普及、土地整理事業、那覇築港を県政の三大事業に掲げ、沖縄社会の近代化・振興に大きな足跡を残した。一方、専制的で強引な施政は社会的トラブルも惹起(じゃっき)し、杣山(そまやま)民有化や参政権を要求した謝花昇(じゃはなのぼる)らの運動を弾圧したり、鹿児島出身者を重用して「薩摩閥」を形成するなど多くの問題点を残した。知事退任後の経歴は不明だが、表だった行動はなく静かに余生を送ったようである。大正7年8月13日没。

[高良倉吉]

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改訂新版 世界大百科事典 「奈良原繁」の意味・わかりやすい解説

奈良原繁 (ならはらしげる)
生没年:1834-1918(天保5-大正7)

明治政府の官僚。鹿児島藩出身。初め喜八郎,幸五郎と称する。薩英戦争に参加して活躍,1879年以降,内務,農商務,工部諸省の官職を歴任する。のちに日本鉄道会社社長,元老院議官,貴族院議員に任ぜられた。1892-1908年の間,第8代沖縄県知事を務め,沖縄の近代化を専制的に推し進め,〈琉球王〉といわれた。沖縄の土地整理事業,糖業の育成,教育を振興し,《琉球新報》の創刊に加わった。土地整理事業は農民からの土地収奪となり,謝花昇(じやはなのぼる)らの沖縄自由民権運動と対立,これに弾圧を加えた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「奈良原繁」の解説

奈良原繁 ならはら-しげる

1834-1918 幕末-大正時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)5年5月23日生まれ。奈良原喜左衛門の弟。薩摩(さつま)鹿児島藩士。文久2年島津久光に命じられ京都寺田屋に尊攘(そんじょう)派をおそった(寺田屋事件)。明治11年内務省にはいる。静岡県令,工部大書記官,日本鉄道初代社長,元老院議官などを歴任。25年から沖縄県知事として開発を専制的にすすめ,琉球王とよばれる。一方,謝花(じゃはな)昇らの自由民権運動を抑圧した。貴族院議員。大正7年8月13日死去。85歳。通称は喜八郎,幸五郎。

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世界大百科事典(旧版)内の奈良原繁の言及

【沖縄[県]】より

…これは歴史的落差の顕著な例であろう。当時の沖縄県知事は鹿児島出身の奈良原繁で,彼は士族の救済対策として杣山(そまやま)の開墾事業に着手し,尚家一族や鹿児島商人,上級官僚らに開墾を許可した。開墾事務にたずさわっていた謝花は開墾予定地を視察し,農民の反対の声に接して奈良原知事と対立する。…

※「奈良原繁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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