奈良町(読み)ならまち

日本歴史地名大系 「奈良町」の解説

奈良町
ならまち

現奈良市の中心部、興福寺・東大寺・元興がんごう寺・春日社などを中心に発展した町。興福寺など南都七大寺は長岡ながおか京・平安へいあん(現京都府)へは移転せず、平城京に残されたが、これらの社寺周辺には門前郷が形成されていた。康和四年(一一〇二)には興福寺「四面郷」がみられる(類聚世要抄)が、門前郷は社人・寺人の居住に始まるもので、当然社寺の支配を受けた。社寺の支配も初めは人身支配であったが、いずれ土地支配にも及ぶ。社寺の土地ということで境内に準ずるが、労役・地子の収取も行われるようになると社寺領である。社人・寺人も漸次増加していくが、縁者らも来住し、その生活を支える商工業も発達し市も発生する。これらも社寺の統制支配のうちに入り、商工座の形成もみられる。いずれ南都七郷を中心に都市化が進み奈良町が実現していく。その町場は平城京以来の条坊制に即した形をとるので整然とした街衢となる。

〔門前郷〕

奈良では平安後期以来、東大・興福両寺の門前郷の存在が確認でき、天治二年(一一二五)の僧某家地売券(お茶の水図書館文書)に「家地壱処事 合拾間者 在興福寺東郷氷室前」とある。これはのち興福寺寺門領の東御門ひがしみかど郷うちの東里ひがしさと(現登大路町)となる。また久安六年(一一五〇)の橘行長家地売券(東大寺文書)では「沽却 敷地私領新券文事(中略)在大和国添上郡東大寺郷今小路南頬」とみえる。これはのち東大寺七郷のうちの今小路いまこうじ(現今小路町)となる。

もっとも平安末期に一応の発達をみた門前郷は、治承四年(一一八〇)の平重衡の南都焼討によって焼亡したと考えられる(玉葉)。これは東大・興福両寺をはじめその院坊などが焼討されたものであるが、その再建とともに諸郷の復興も活発に進んだようである。

鎌倉期に入ると興福寺郷・東大寺郷ともにその発達をみせるが、興福寺郷のそれが著しく、「春日社記録」中臣祐賢記の文永四年(一二六七)七月二二日条に「水屋河ノ榎本滝堀ウムヘシト衆徒僉儀有之、(中略)七郷民等ニモ被触遣之云々」とみえ、ここに興福寺寺務領南都七郷の原形がうかがえる。七郷は「大乗院雑事記」の文明一二年(一四八〇)六月一九日条に「七郷事仰両沙汰者注進之、奈良中南北七郷在所事」として七つの郷があげられているが、南大門なんだいもん郷は主典(沙汰人)が武元で、「西城土」(現西城戸町)・「東城土」(現東城戸町)・「脇戸」(現脇戸町)・「高御門」(現高御門町)・「鳴川」(現鳴川町)・「井上」(現井上町)の小郷がある。

奈良町
ならちよう

[現在地名]岩見沢市奈良町

昭和二六年(一九五一)に成立した町名。市の南東部に位置し、西は朝日あさひ町、東は高柳たかやなぎ町。明治二八年(一八九五)徳島県人板東勘五郎の農場として開拓が進められた。大正四年(一九一五)シコロノ沢(現栗沢町)の木材を原料として酢酸を製造する栗沢木材乾溜株式会社が設立され、幌向ほろむい川沿いに工場が建設された。原料の木材がなくなり、工場が閉鎖されたあとに東幌内ひがしほろない炭鉱が開発され、これがのちの奈良炭鉱(鉱区は現栗沢町)であった。

奈良町
ならまち

[現在地名]大和郡山市奈良町

天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)にみえる内町(箱本)一三町のうち。名称から考えて奈良から移住した商工業者の町であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奈良町の言及

【奈良[市]】より

… 16世紀,戦国乱世となって他国武将の奈良進駐などに商工人(町人)の多い南都七郷と東大寺郷の郷民らは結盟対処している。いぜん社寺の領主境域はくずれず,郷民自治連合体の〈奈良惣中〉(奈良町の前身)が成立するのは,松永久秀が奈良に進駐し,多聞山城を築いた1560年(永禄3)直後のことである。まもなく奈良惣中(800石)は織田信長や豊臣秀吉の直領となって社寺から離れた。…

※「奈良町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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