奥村(読み)オクムラ

デジタル大辞泉 「奥村」の意味・読み・例文・類語

おくむら【奥村】

姓氏の一。
[補説]「奥村」姓の人物
奥村五百子おくむらいおこ
奥村土牛おくむらとぎゅう
奥村政信おくむらまさのぶ

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「奥村」の意味・読み・例文・類語

おくむら【奥村】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「奥村」の解説

奥村
うくむら

[現在地名]国頭村おく

辺戸ふいる村の南東に位置し、北は太平洋に臨む。集落は西銘にしめ(四二〇メートル)の東に発するおく川の下流左岸に立地する(間切集成図など)。「おもろさうし」巻一三の一七七に「へとにおわる ましらて(辺戸におわすマシラデ〔神女〕)」とともに「おくにおわる ましらて(奥におわすマシラデ)」がみえる。同書巻一三の一八二では「赤丸」(奥間村の赤丸岬)などとともに「おくもり(奥森)」が登場する。嘉靖一八年(一五三九)毛姓四世の盛実が「自奥渡上之理」に任じられているが、この職は国頭から与論島・永良部えらぶ島を管轄するもので(毛姓上里家家譜)、前記の奥は当地を基準としているのかもしれない。正保国絵図・絵図郷村帳に国頭くんじやん間切「おく村」とみえる。正保国絵図では村の北東の岬が「赤崎」と記されており(間切集成図は奥之崎と記す)、昭和五〇年(一九七五)に国土地理院が発行した二万五千分の一地図でも同じ地点が赤崎とされていたが、平成四年(一九九二)発行の同地図では奥と南に隣接する楚洲そすの境の岬があか崎となっている。

奥村
おくむら

[現在地名]智頭町西谷にしだに

白坪しらつぼ村の南西、白坪川の谷奥に位置する。南方の右手うて峠を越える山道があり、美作国右手村(現岡山県勝田町)に至る。道が狭く雪中では牛馬の通行は不能。また西方の大屋おおや村へ抜ける大師だいし峠越の道もある(因幡志)。正保(一六四四―四八)以後に白坪村の枝郷として成立した村で、元禄国絵図には「白坪村之内奥村」として収載されたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)元禄郷帳にはみえない。享保五年(一七二〇)両村境の争論が決着(在方諸事控)、同一九年までに領内限りの一村として独立。同年の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高三三石余、竈数一〇余。

奥村
おくむら

[現在地名]市島町北奥きたおく多利たり

三方を山に囲まれ西へ鴨庄かものしよう川の谷が開く。西はうえ村・まき村。後地うしろじ前地まえじ末谷すえだに神池みけ塚原つかわらよりなり、「丹波志」は神池・塚原・岩倉いわくらを枝村とする。領主の変遷は梶原かじわら村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高三二〇石余・畠高三七石、柴山・林あり、日損所。高のうち一八四石余が旗本川勝広綱領、一七六石余が同重氏領。国立史料館本元禄郷帳・「丹波志」ともに両家領で、「丹波志」によると家数一六〇。用水はかみ池、鴨庄川に掛かる井堰より得る。緒方洪庵に師事した精神病学の名医高松彝は岩倉の出身。明治五年(一八七二)小川おがわの奥村(現山南町)と区別するため北奥と改称(「鴨庄村誌」など)

産土神は字ナシだにの熊野神社。

奥村
おくむら

[現在地名]一宮市奥町

木曾川の東岸に接する。妙興寺文書の元応二年(一三二〇)四月の中嶋承念譲状案に「一所 興郷 荒野」とあり、当村かおこし(現尾西市)かは明確ではない。文明一六年(一四八四)の如光弟子帳(上宮寺蔵)に「おき」とみえ、翌年の瀬辺了泉せべりようせん寺蔵阿弥陀如来絵像裏書写に「内籠郷奥邑 了泉寺」とある。永正一五年(一五一八)の阿弥陀如来絵像裏書(同寺蔵)に「中嶋郡笶笙庄内籠□□□(郷奥村カ)」とあって、野府のぶ(現尾西市)を中心とする野生のぶ庄・笑生のぶ御厨の地であった。

奥村
おくむら

[現在地名]小野市天神町てんじんちよう二葉町ふたばちよう

なか村の東に位置する。加古川左岸の標高約七〇メートルの河岸段丘面南端部と段丘下を流れる万勝寺まんしようじ川右岸の沖積地に集落が形成され、耕地は両岸の低地に開かれている。文禄三年(一五九四)三月二一日、舟越五郎右衛門(景直)豊臣秀吉から丹波の所領の替地として奥村二一六石余を与えられている(記録御用所本古文書)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方四四四石余・畑方一二一石余。

奥村
おくむら

[現在地名]五個荘町奥

三俣みつまた村・木流きながせ村の東、小幡おばた村の南にある。村域は愛知えち川東岸にまで広がる。元亨三年(一三二三)八月六日の官宣旨案(東京大学史料編纂所蔵長元至寛徳度改元勘文紙背文書)に息村郷とあり、建部たけべ(現大津市)の造営料に充てられた。応永二八年(一四二一)五月一〇日の建部庄保司方百姓等起請文(天龍寺文書)によれば、息村郷内の百姓一一名らが京都天龍寺に対し年貢勤納などを誓っている。

奥村
おきむら

[現在地名]下津町おき

興村とも書くが、「続風土記」は奥の字の草書を興と誤ったものという。村名は谷の奥の意からで、引尾ひきお村の南、加茂かも川の上流に位置する。南は笠畑かさばた村、東は有田郡六川むつがわ(現金屋町)に接する。村の東に鏡石かがみいし(五五五メートル、古くは両堤という)があり、山頂は名草なくさ海部あま・有田三郡の境とされた。

慶長検地高目録によると村高一〇六石余。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)には本田畑高一〇八・二四六石、新田畑高一六・三四六石、開起田畑〇・二九二石、戸数六六、人数四〇三とある。

奥村
おくむら

[現在地名]上石津町奥

牧田まきだ川支流で東流する鍛冶屋かじや川上流にある山間村。東は谷畑たにはた村。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に「おく村」とみえ、「ゆくり」「おこえ」「新谷」「つつら」「足田大ら」分として高九石余の年貢が割当てられている。元和九年(一六二三)の時・多良郷家付帳(東高木文書)によると家数四〇のうち奉公人七、馬一〇・牛三。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)では当村三〇三石余が旗本高木貞勝(西高木家)に宛行われている。同一三年の高木貞勝の知行方物成帳(西高木文書)に物成定米九〇石余とあり、小物成として綿・大麦のほか土用茶・かけ茶がみえる。元禄郷帳でも西高木領で、高三〇三石余。

奥村
おくむら

[現在地名]柏原町東奥ひがしおく

柏原町の北東にあり、柏原川の支流奥村川と大安寺だいあんじ川が流れる二つの谷間に集落と耕地が形成されている。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一一三石余・畠高三八石余、林あり、日損少し。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)からの幕府領を経て(延宝五年「柏原町山方図」柏原町歴史民俗資料館蔵など)、旗本植村領になっていたが、元禄九年(一六九六)に柏原藩領の下滝しもたき(現山南町)との交換により同藩領に替わる(柏原藩御用部屋日記)

奥村
おくむら

[現在地名]岐阜市奥

現岐阜市の北西端に位置する山村。本巣郡に属し、東は方県郡雛倉ひなくら村、南は本巣郡西秋沢にしあきさわ村。慶長郷帳に村名がみえ高一一八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば幕府領。寛永一二年(一六三五)当村を含む幕府領の外山とやま八ヵ村は、大野郡五ヵ村と交換されて大垣藩領となり、以後幕末に至る。正保郷帳では田八一石余・畑三六石余、ほか山年貢三石。岩瀬文庫本正保郷帳では高一四三石余。大垣藩は正保二年(一六四五)内検を行い、高二九三石余、反別田一二町一反余・畑一〇町四反余となった。宝永六年(一七〇九)「ひゑ田井水」の切落しをめぐり雛倉村と出入があり、番水についても取決められた(「済口証文」村瀬文書)

奥村
おきむら

[現在地名]吉備町奥

中野なかの村の南に位置し、西を除いた三方を丘陵に囲まれる。「続風土記」は「此地藤並荘中にて南のつまり、深奥の地なるを以て奥の名あり」と記す。慶長検地高目録によれば村高七〇四石余、小物成四斗九升五合。明暦四年(一六五八)追筆の奥村御検地帳写(林家文書)によれば桑四斗五升、茶八斗五升五合を産した。名請人のうち奥村のもの一〇五名、他は中野村・野田のだ村・天満てんま村などからの入作となっている。入作高は二〇八石余。「続風土記」では家数七九、人数三六三。藤並組に所属。同書は社寺として八幡宮大顔おおかお明神社・妙見社、正岸しようがん(浄土真宗本願寺派)、廃寺三(快金庵・本坊庵・極楽寺)を記す。

奥村
おくむら

[現在地名]和田山町三波さんなみ

安井やすい谷の最奥部にあたる。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高一九一石余。幕府領として推移したと考えられる。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一九二石余。元文三年(一七三八)の生野一揆では朝来郡安井庄の当村百姓佐次右衛門が江戸・京・大坂・但馬国中追放に処されている(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)

奥村
おくむら

[現在地名]堺市奥本おくもと町一―二丁・北花田きたはなだ町一―四丁・東浅香山ひがしあさかやま町一―四丁・新堀しんぼり町一―二丁など

大和川の左岸に位置し、近隣の船堂せんどう村・北花田村と村地が錯綜する。摂津国住吉郡に属する。永禄一二年(一五六九)八月日付で今井宗久は年貢皆済などに関して五ヵ条の禁制(「今井宗久書札留」今井文書)を出したが、その宛所に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では東成ひがしなり郡の村として船堂村と合せて九一二石余とされ、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では一村で三七三石余。

奥村
おくむら

[現在地名]市川町奥

坂戸さかど村の北西、尾市おいち川の流域に位置し、神西じんさい郡に属した。村の北方にしろ山がある。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方四一二石余・畑方一二二石余、「旱損所・芝山有」と注記される。貞享元年(一六八四)までに坂戸村が分村し、元禄郷帳では高二七〇石余。天保郷帳では高四一九石余。寛延二年(一七四九)の姫路藩領一揆では当村庄屋弥兵衛が急度叱の刑に処せられた(「寛延一揆罪科人仕置書」九州大学法学部蔵)

奥村
おくむら

[現在地名]北勢町奥村

ふもと村の南西、員弁川支流のあお川の北岸に位置する。治田はつた郷八ヵ村の一つ。「五鈴遺響」によれば郷中の深奥の所にあるから名付けられたという。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、幕府領で高四〇一・三九石。また同帳に「旱損所」という記載があり、日照りの被害を受けやすい土地柄であったことが推定される。他の七村同様、享保一一年(一七二六)から明治維新まで上総一宮藩領。

奥村
おくむら

[現在地名]英田町奥

福本ふくもと村の南西、吉野よしの川左岸に立地。同村境に枝郷の天神てんじんがあり、南西は上山うえやま村に接する。古くはもり村と称していたが、津山藩森氏時代の検地の際に検地奉行の米倉主水がこれを嫌い、川会かわえ庄一五村の奥、あるいは英田郡の奥ということで奥村に改めたという(東作誌)。正保郷帳に村名がみえ、田五三石・畑一九四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高七〇石余・開高三一石余、村位は中。

奥村
おくむら

[現在地名]上郡町奥

宇治山うじやま村・高田宿たかたしゆく村の北に位置し、集落は北部山地の麓にある。江戸時代の領主の変遷は上郡村に同じ。慶長一四年(一六〇九)の高田之内奥村検地帳(奥自治会文書)では田一七町三反余・畑屋敷八町三反余。正保郷帳では田高二九九石余・畠高八八石余。天保郷帳では高三八九石余。宝暦二年(一七五二)の村明細帳(奥自治会文書)によれば、反別田一七町五反余・畑八町四反余、家数九五(うち無高一)・人数四〇五、馬二・牛二三。

奥村
おくむら

[現在地名]龍野市神岡町奥村かみおかちようおくむら

大住寺だいじゆうじ村の東に位置し、揖東いつとう郡に属する。南は美作道を境に西横内にしよこうち村、東は北横内村。慶長国絵図に「をく村」とみえる。領主の変遷は宿しゆく(觜崎宿)村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(林田郷土史)では高一〇六石余。正保郷帳では田方六六石余・畑方二二石余。

奥村
おくむら

[現在地名]唐津市とうかわ

東松浦半島上場うわば台地南部の丘陵上に位置する。松浦佐用姫がこの地を通った時、村人のもてなしに感謝して一つの宝を大松の根元に埋め「ここに宝をおく」といって立ち去ってから、この地を「おく」というようになり、その松を佐用姫松とよぶようになったとの地名伝承がある。

慶長絵図に「赤坂ノ内 奥村」とみえ、文化年中記録に畝数二町三段五畝六歩とある。

奥村
おくむら

[現在地名]和知町字升谷ますたに

上和知川を合わせて南西に流れを変えた由良川の左岸にある村。東に連なる五〇〇メートルほどの山が河岸近くまで迫り、耕地や人家は川沿いにある。東は長瀬ながせ村の南部や胡麻畑ごまはた(現日吉町)、南は升谷村、西・北は由良川を越えて市場いちば村・篠原しのはら村。園部藩領。

奥村
おくむら

[現在地名]山南町奥

井原いはら村の西にある。領主の変遷は同村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高二一八石余・畠高九九石余、柴山・林あり、日損・水損少しあり。「丹波志」によると高三一九石余、家数四三。西に枝村の野坂のさか村があり元禄年間(一六八八―一七〇四)以降分村したとされる。

奥村
おくむら

[現在地名]瑞穂町字鎌谷奥かまだにおく

鎌谷の西の谷奥にある。土師はぜ川の源流地域で、四方を高山に取り囲まれ、山を越えるには杣道以外にない。川沿いに人家が点在する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android