女学雑誌(読み)じょがくざっし

精選版 日本国語大辞典 「女学雑誌」の意味・読み・例文・類語

じょがくざっし ヂョガク‥【女学雑誌】

[1] 文芸雑誌。明治一八年(一八八五)七月創刊、同三七年二月以後不明。五二六冊。明治女学校校長巖本善治が三〇号より編集キリスト教に基づく女性啓蒙誌で同二五年三二〇号より二六年三六〇号まで家庭婦人向けと一般雑誌の二種に分け、前者赤表紙後者白表紙とした。北村透谷島崎藤村らが寄稿。後の「文学界」の母胎となり浪漫主義運動の源泉の一つとなった。
[2] 〘名〙 女性を対象とした雑誌。
風俗画報‐二〇七号(1900)神田和泉町令徳会本部 同所に在りて令徳てふ女学雑誌を発刊するところなり」

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デジタル大辞泉 「女学雑誌」の意味・読み・例文・類語

じょがくざっし〔ヂヨガクザツシ〕【女学雑誌】

婦人雑誌。明治18年(1885)7月創刊、明治37年(1904)2月、526号で廃刊。初め近藤賢三、24号から巌本善治が編集。キリスト教に基づく女性啓蒙誌であったが、北村透谷島崎藤村らが執筆し、のちの「文学界」の母体となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「女学雑誌」の意味・わかりやすい解説

女学雑誌 (じょがくざっし)

1885年に創刊され,1904年まで続いた日本初の本格的女性誌。とくに明治20年代のオピニオン・ジャーナリズムの一翼を担ったことで知られる。初代編集人の近藤賢三は,1884年に《女学新誌》を創刊したが,婦人論が活発になった風潮をみてそれを1年で廃刊し,新たに《女学雑誌》を創刊した。近藤は86年に死亡したが,第30号から巌本善治が主宰し,第524号からは青柳猛(有美)が引き継いだが第526号で廃刊した。雑誌の内容としては,文明開化の時代にふさわしい女性の地位の向上を訴える啓蒙的な論文が中心となっていた。とくに巌本が編集人となってからはその傾向が著しく,女性の地位向上,婚姻制度の改良,廃娼,矯風などについて,社会改良的な論を展開した。中島(岸田)俊子,田辺竜子らの女性執筆者を育てたこと,北村透谷,島崎藤村らの雑誌《文学界》の母体となったことなど,その後の文学,思想,ジャーナリズムにも影響を及ぼした。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「女学雑誌」の意味・わかりやすい解説

女学雑誌
じょがくざっし

女性啓蒙(けいもう)雑誌。1885年(明治18)7月~1904年(明治37)2月。計548冊。10号まで万春堂、以後女学雑誌社発行。巌本善治(いわもとよしはる)を中心に『女学新誌』から分かれて創刊された。編集人は近藤賢三から善治を経て青柳猛(あおやぎたけし)。発行回数は初め月2回、ついで3回、さらに週刊、隔週刊、月刊へ。女性の啓蒙・向上を目ざし、キリスト教を基盤とする婦人矯風会設立や廃娼(はいしょう)運動、一夫一婦制建白運動など、わが国初期婦人解放運動に重要な役割を果たした。石橋忍月(にんげつ)、北村透谷(とうこく)らを評壇に送ったほか、若松賤子(しずこ)の『小公子』翻訳も注目される。ほかに木村熊二(くまじ)、中島湘煙(しょうえん)、田辺(三宅(みやけ))花圃(かほ)、清水紫琴(しきん)、磯貝雲峰(いそがいうんぽう)、星野天知(てんち)、島崎藤村(とうそん)らが執筆した。1892年、対象読者層によって甲の巻と乙の巻に分けられ、甲の巻はのち『評論』と改題。派生誌『女学生』『女学雑誌文学界』などが出された。復刻版(1966~67・臨川書店)がある。

[橋詰静子]

『『明治文学全集32 女学雑誌・文学界集』(1973・筑摩書房)』

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百科事典マイペディア 「女学雑誌」の意味・わかりやすい解説

女学雑誌【じょがくざっし】

明治中期の女性誌。1885年《女学新誌》(1884年)の後身として創刊。1904年526号まで発行。初め近藤賢三,のち巌本善治が主宰した。キリスト教的な立場から女性一般の地位と教養を高めることをめざした。清水紫琴(しきん),岸田俊子らの女性執筆者を育て,北村透谷内田魯庵島崎藤村らが評論・創作や外国文学の紹介に活躍した。
→関連項目文学界若松賤子

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「女学雑誌」の解説

女学雑誌
じょがくざっし

日本初の本格的な女性雑誌。1885年(明治18)創刊。最初の1年は近藤賢三,翌年から巌本善治(いわもとよしはる)が編集。欧化主義の時代風潮を背景に,女性の意識向上,女子教育・女権・結婚や家庭を中心テーマにして欧米の理論や現実・運動なども紹介。巌本は岸田俊子・若松賤子(しずこ)ら女性たちに論文発表の機会を与えるとともに,みずから男女同権や女学,公娼廃止について論じた。1904年2月日露戦争直前の時代的変化のなかで第526号で廃刊。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「女学雑誌」の意味・わかりやすい解説

女学雑誌
じょがくざっし

1885年7月に創刊された女性向け雑誌。編集のほとんどを明治女学校の校長巌本善治が担当し,男女同権論や自由恋愛論など,婦人解放の立場に立った啓蒙的な活動をしていたが,その後は北村透谷,石橋忍月,山路愛山,内田魯庵らを登場させ,明治浪漫主義文芸運動の母体となった (1903年には『文学界』が分離独立していった) 。 1904年2月終刊。

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旺文社日本史事典 三訂版 「女学雑誌」の解説

女学雑誌
じょがくざっし

明治時代の女性専門雑誌(1885〜1904)
女子教育家・女性啓蒙運動家である明治女学校の巌本善治 (いわもとぜんじ) によって主宰され,キリスト教的立場からの女権拡張・男女平等を主張した。

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世界大百科事典(旧版)内の女学雑誌の言及

【巌本善治】より

…兵庫県出身で,1883年受洗。86年から《女学雑誌》を主宰,誌上で形式的な西欧模倣を批判しながらも男女同等を説き続け,それを阻む芸娼妓の公許,婦人の無教養,向上心の欠如,男性中心の婚姻制度,婦人職業の未発達などの解消を主張し,婦人の団体活動を勧奨した。同誌は北村透谷,島崎藤村らの《文学界》創刊(1893)の契機を用意するなど,明治文学史上でも注目される。…

【女性雑誌】より

…第1は,知識層をおもな読者とする女性評論誌の系譜である。日本で最初の本格的な女性雑誌は1885年創刊の《女学雑誌》である。《女学雑誌》は,キリスト教思想を背景に,女権伸張,女子教育の普及,近代家族制度の移植などを主張する啓蒙雑誌として出発し,明治20年代のオピニオン・ジャーナリズムの一翼をになった。…

※「女学雑誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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