妙知焼(読み)みょうちやけ

改訂新版 世界大百科事典 「妙知焼」の意味・わかりやすい解説

妙知焼 (みょうちやけ)

1724年(享保9)の大坂の大火。この年3月21日正午ごろ,大坂南堀江橘通3丁目の金屋治兵衛祖母妙知方から出火,おりからの南西大風により北堀江を経て東北に焼け抜け,火の手は新町で2方向に分かれ,一方は西横堀川に沿って北進,阿波座堀川・京町堀川・江戸堀川から船場に移り,他方は西横堀川を越えて坐摩社・西本願寺津村別院を焼き,中之島堂島曾根崎など東北に延焼,八軒屋・天満西寺町・池田町を経て西成郡北野村・国分寺村・南長柄村に及ぶ。次いで同日夕刻に風向きが転換し,南西に焼け戻って,船場(せんぱ)・上町(うえまち)一帯に飛火し,東西両町奉行所なども焼失,さらに東横堀川沿いに南下して,島之内から道頓堀川以南まで延焼。この間,天満の火は東寺町・天満天神社や興正寺別院・与力同心屋敷などを焼き川崎に至り,備前島から相生町に及ぶ。鎮火は翌22日午後4時ごろ。大坂三郷市街地の約3分の2,408町を焼失する大火であった。損害は焼失家屋数1万1765軒(世帯数6万0292),土蔵1097ヵ所,浜納屋1544軒,公儀橋9ヵ所,町橋44ヵ所,諸大名蔵屋敷など33ヵ所,寺院136ヵ寺,神社8社,大坂城代以下諸役人の屋敷134軒。ほかに問屋米屋の米11万1709石余,大豆1万2981石余,麦1万3003石余,蔵米13万石余が焼失し,西成郡の民家362軒も失われた。焼死者数はあるいは7000余人といい,または2060余人,1182人,293人など史料によって異なった数が記録されている。鎮火の後,東西の大坂町奉行は,両町奉行所を一時東本願寺難波別院に移し,次いで西町奉行所を本町橋東詰の塩噌屋敷焼跡に新築移転。市中の取締りを厳にするとともに,城米1万石を1石当り銀40目で罹災窮民に払い下げたほか,橋梁の架設,家屋の新築など市街の復旧,窮民救済に努めた。また大火の教訓から新造家屋などには防災のための建築制限を加え,消防力強化のため定火消(じようびけし)300人を置き火の見場所を新設した。
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百科事典マイペディア 「妙知焼」の意味・わかりやすい解説

妙知焼【みょうちやけ】

1724年に起きた近世における大坂最大の火事。南堀江橘通3丁目(現西区)の金屋治兵衛の祖母妙知宅から出火したのでその名がある。火先は北堀江・道頓堀から阿波座・立売堀・江戸堀まで全焼させ,船場に移って東西横掘川の橋々や上町(うえまち)を焼き,中之島・八軒家などを経て西成郡まで延焼。大坂三郷市街の3分の2を焼き尽くした。罹災町数408町・同家数1万1765軒,土蔵1097ヵ所・浜納屋1544ヵ所・大名屋敷33ヵ所のほか大坂城代中屋敷,東西両大坂町奉行所なども焼失。焼死者は7000人以上ともいわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の妙知焼の言及

【大坂町奉行】より

…近世中期以後は老中支配で定員2名(1696‐1702年(元禄9‐15)は堺町奉行を吸収合併して定員3名となり和泉を支配したこともある),与力各30騎,同心各50名,役高1500石,役料現米600石が普通であった。奉行所は京橋口門外の東西にあり隔月月番で政務を見たが,1724年(享保9)の大火(妙知焼)後,西町奉行所だけは本町東詰へ移転した。一般職務のほかに遠国廻米,糸割符等広範な業務を担当し,1722年よりは摂津,河内,和泉,播磨の幕領の年貢徴収と地方公事等も管轄した。…

※「妙知焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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