妙顕寺(読み)みょうけんじ

精選版 日本国語大辞典 「妙顕寺」の意味・読み・例文・類語

みょうけん‐じ メウケン‥【妙顕寺】

京都市上京区妙顕寺前町にある日蓮宗大本山。山号は具足山。龍華院と号する。元亨元年(一三二一)日像が開創。京都最初の日蓮宗寺院で同宗最初の勅願寺。しばしば比叡山からの迫害を受け妙本寺と改称させられたりなどしたが、妙覚寺・立本寺・妙蓮寺などを分出。所蔵する古文書類は妙顕寺文書、龍華秘書と呼ばれる。尾形光琳・乾山の墓がある。

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デジタル大辞泉 「妙顕寺」の意味・読み・例文・類語

みょうけん‐じ〔メウケン‐〕【妙顕寺】

京都市上京区にある日蓮宗四大本山の一。山号は、具足山。元亨元年(1321)日像創建。京都における日蓮宗最初の道場で、しばしば叡山に迫害された。

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日本歴史地名大系 「妙顕寺」の解説

妙顕寺
みようけんじ

[現在地名]上京区妙顕寺前町

具足山と号する。日蓮宗の大本山。本尊釈迦多宝仏。当寺は法華宗の公武接近を実現した宗内最大の寺院。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開基日像〕

日像は日蓮死後上洛を決意し、永仁二年(一二九四)京に入った。元弘三年(一三三三)三月、護良親王は日像の法華堂に隠岐配流中の後醍醐天皇の京都帰還を祈念すべく令旨を出し、帰京が決まった同年五月一二日には尾張国松葉荘・同小家郷・備中国穂太ほいた荘が寄進された(妙顕寺文書)。延慶三年(一三一〇)や正和二年(一三一三)の師の日朗から日像への書状には「綾小路御坊」「綾小路大宮の御坊」とあり、すでにあや小路大宮おおみや(現京都市下京区)辺りに相当数の門弟が寄宿できる法華堂のあったことが認められる。日像は洛中の富裕な商工人信徒を獲得しており、綾小路大宮は当時の商工街であった。

〔法華宗最初の勅願寺〕

元亨元年(一三二一)日像は三度目の洛内追放のあと、許されて布教の勅許を得、法華堂を今小路いまこうじ(現上京区)に移したが、建武元年(一三三四)には後醍醐天皇の綸旨(妙顕寺文書)で勅願寺とされた。

<資料は省略されています>

これはいわゆる日蓮法華宗のいわば独立を朝廷が認めた宗号の綸旨で、同時に当寺は法華宗最初の勅願寺として、法華宗の先頭に位置するようになった。建武新政権崩壊後も建武三年六月頃には室町将軍家の祈祷所、翌四年には北朝の光厳院の祈願所となり(妙顕寺文書)、暦応四年(一三四一)光厳院院宣により四条櫛笥西頬くしげにしつら(現京都市中京区)地一町を賜り寺地を移転した(竜華秘書)

妙顕寺
みようけんじ

[現在地名]戸田市新曾

長誓山と号し、日蓮宗。本尊は一尊四士、また日蓮像を安置する。身延山久遠くおん(現山梨県身延町)の旧末寺で、末寺五ヵ寺を有する中本寺であった。日蓮の直弟子の一人佐渡阿闍梨日向を開山、新倉にいくら(現和光市)の領主墨田五郎時光を開基檀越とし、弘安三年(一二八〇)の創建という。

文永八年(一二七一)流罪となり配所の佐渡に向かう途次の日蓮が、時光の妻が難産で苦しんでいたのを法力によって無事に救ったという子安の縁起が伝えられている。同様の縁起は現和光市にある旧末寺の妙典みようでん寺にも伝わる。男子徳丸を得た時光はその後日蓮に深く帰依、弘安二年九歳になった徳丸ともども甲斐国身延山に登り日蓮に従って出家、時光は日徳、徳丸は日堅と名を改め、一寺建立の願を発した。

妙顕寺
みようけんじ

[現在地名]高根沢町上柏崎

井沼いぬま川左岸の平坦地にある。法光山と号し、日蓮宗。本尊は日蓮大菩薩。古くに智穎が天台宗寺院を開基したという。また康平五年(一〇六二)に柏崎源内定元が開基し、真言宗法栄山善光寺と号したと伝える。

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改訂新版 世界大百科事典 「妙顕寺」の意味・わかりやすい解説

妙顕寺 (みょうけんじ)

京都市上京区にある日蓮宗の大本山。具足山と号し,一般には顕山(けんざん),竜華(りゆうげ),四海唱導の寺と通称される。京都ではじめて日蓮宗を布教して洛陽開山と尊称された日像が,1321年(元亨1)開創。34年(建武1)後醍醐天皇の勅願寺,36年(延元1・建武3)足利将軍家の祈禱所,37年光厳上皇の祈願所に指定され,41年(興国2・暦応4)光厳上皇から四条櫛笥(くしげ)に1町の寺地を賜って移転するなど,建武新政から南北朝内乱に至る政局の激動期に巧みに対処し,公武の間にしだいに寺基を安定させた。他方,町衆社会に多くの信徒を得,また地方に教線を伸ばして諸国末寺を建立し,室町時代,京都最大の日蓮宗寺院に発展した。だが,それだけに叡山の迫害も激しく,堂舎を破却されたり,1393年(明徳4)には寺号を妙本寺と改称させられたりした(永正・大永(1504-28)ころ妙顕寺の旧号に復する)。妙覚・立本(りゆうほん)・本能・妙蓮・本隆の京都日蓮宗(法華宗)の諸大寺は当寺から室町時代に分出したものである。1583年(天正11)豊臣秀吉の命で二条西洞院の旧地から現寺地に移った。江戸時代には諸国末寺約400,寺運大いに栄えた。現在の堂宇は1788年(天明8)の大火以後再建されたもの。寺宝には後小松天皇宸翰,日蓮真跡の神国王書と強仁状御返事(以上,重要文化財)などがあり,そのほか伝蔵の多くの古文書は竜華秘書(りゆうげひしよ)と呼ばれて名高い。なお寺域内に尾形光琳・乾山(けんざん)兄弟,その父宗謙の墓がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙顕寺」の意味・わかりやすい解説

妙顕寺
みょうけんじ

京都市上京(かみぎょう)区妙顕寺前町にある日蓮(にちれん)宗の大本山。具足山(ぐそくざん)と号し、またの名を竜華(りゅうげ)という。本尊は日蓮奠定(てんてい)の木像の曼荼羅(まんだら)本尊。1321年(元亨1)日像(にちぞう)が後醍醐(ごだいご)天皇より今小路(いまこうじ)に寺地を賜り創建した。1334年(建武1)には、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け、日蓮宗最初の勅願寺となった。1341年(興国2・暦応4)光厳(こうごん)院院宣により四条櫛笥西頬(しじょうくしげにしつら)(現中京(なかぎょう)区)に移転。それ以後、当寺を四条門流という。室町時代には公武政権と密接なつながりをもつが、天文法華の乱(1536)で延暦(えんりゃく)寺衆徒(しゅと)の襲撃を受け、また織田・豊臣(とよとみ)氏の弾圧にあう。現在の建物は江戸時代に再建された。寺宝には後小松(ごこまつ)天皇宸筆(しんぴつ)御消息(2幅)、日蓮筆の強仁状御返事、神国王書(2巻)、金字法華(ほけ)経巻5(いずれも国重要文化財)がある。そのほか、日蓮自筆の玄旨伝法本尊、12巻の御書などを有する。寺域に尾形光琳(こうりん)・乾山(けんざん)兄弟の墓がある。

[田村晃祐]

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百科事典マイペディア 「妙顕寺」の意味・わかりやすい解説

妙顕寺【みょうけんじ】

京都市上京区にある日蓮宗四大本山の一つ。1321年日像の開創。京都で最初の日蓮宗寺院。しばしば比叡山衆徒の焼打にあい,寺地は転々としたが,1583年豊臣秀吉により現地に建立された。尾形光琳の墓がある。竜華秘書と称される古文書がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「妙顕寺」の意味・わかりやすい解説

妙顕寺
みょうけんじ

京都市上京区にある寺。日蓮宗四大本山の一つ。具足山竜華院。嘉暦1 (1326) 年日像開創。京都における日蓮宗最初の道場。建武1 (34) 年後醍醐天皇の勅命により,祈願所となり大いに栄えたが,しばしば比叡山の僧徒の圧迫を受け,移転数度,天正 11 (1583) 年豊臣秀吉の命によって現地に移建。現在の堂は天保5 (1834) 年の再建。日蓮の持仏,『黄金釈迦如来像』を本尊とし,本堂,祖師堂など壮大な伽藍を有する。境内に尾形光琳の墓がある。

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事典・日本の観光資源 「妙顕寺」の解説

妙顕寺

(京都府京都市上京区)
日蓮宗四大本山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の妙顕寺の言及

【日像】より

…肥後阿闍梨(あじやり),肥後房ともいう。日蓮宗を最初に京都にひろめ,京都妙顕寺開山。下総国平賀(千葉県)の豪族平賀忠晴の子。…

※「妙顕寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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