妻木城(読み)つまぎじょう

日本の城がわかる事典 「妻木城」の解説

つまぎじょう【妻木城】

岐阜県土岐市にあった中世の山城(やまじろ)。同県指定史跡。比高150~200mほどの急峻な城山の山頂部に本丸・二の丸を、その下の山腹や西の尾根に曲輪(くるわ)を配した縄張りの典型的な中世の山城である。麓には平時城主の居館が築かれ、妻木城はその詰めの城としての役割を果たした。南北朝時代に美濃国守護の土岐頼貞の九男頼基が妻木郷を与えられて、妻木城を築き、以後、妻木氏を称したといわれている。妻木氏は初め土岐嫡流の守護家に従っていたが、土岐氏が没落すると斎藤氏に臣従した。織田信長が美濃を制圧すると、多くの東美濃の諸将と同様に信長に従い、金山城(可児市)の森可成麾下の武将となった。その後、城主の妻木広忠は明智光秀の武将となり戦功をあげたが、1582年(天正10)の本能寺の変後の山崎の合戦で羽柴秀吉豊臣秀吉)の軍勢と戦って討ち死にした。しかし、妻木氏の家名は存続し、引き続き妻木城を居城とした。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、城主の妻木頼忠は東軍(徳川方)に属し、西軍(豊臣方)に与した岩村城(恵那市)の田丸具安と戦った。この戦いののち、頼忠は徳川家康から妻木7500石を安堵された。頼忠ののち、妻木氏は頼利・頼次と3代にわたって続いたが、頼次に継嗣がいなかったことから断絶となった。このとき、妻木城も廃城となった。ちなみに城主の妻木氏は代々、陶器生産を奨励し、のちの織部焼志野焼などにつながる美濃焼の基礎をつくった領主として知られている。城跡には石垣堀切、土塁などの遺構が残っており、山麓の御殿跡、武家屋敷とともに「妻木城士屋敷跡」としてそれぞれ県史跡に指定されている。また、妻木城の城門が、麓の崇禅寺山門として移築され現存している。JR中央本線土岐市駅からバス、妻木上郷下車。東海環状自動車道の土岐南多治見ICから車で約15分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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