孫秉煕(読み)そんへいき(英語表記)Son Pyǒnghǔi

日本大百科全書(ニッポニカ) 「孫秉煕」の意味・わかりやすい解説

孫秉煕
そんへいき / ソンビョンヒ
(1861―1922)

朝鮮三・一独立運動指導者の一人。忠清北道(ちゅうせいほくどう/チュンチョンブクド)出身。早くから東学党に入り、1894年全羅道での農民蜂起(ほうき)(甲午(こうご)農民戦争)に呼応して参加、同年秋、農民の再蜂起の際にも加わったが、弾圧を受け山中に逃れた。1898年東学党第3代教主となり、その後、上海(シャンハイ)、日本に亡命、1906年帰国して東学を天道教改称して再組織し、翌1907年教主を辞し、以後普成学校、普成社を経営した。1919年3月1日、キリスト教仏教の代表らと独立宣言書を発表して捕らえられ、懲役3年の判決を受け、服役中病を得て釈放後死亡した。

[朴 慶 植]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「孫秉煕」の意味・わかりやすい解説

孫秉煕
そんへいき
Son Pyǒnghǔi

[生]哲宗12(1861)
[没]1922
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の民族主義者,天道教教祖。幼名は応九。号は義菴 (ぎあん) 。忠清北道清州市出身。高宗 19 (1882) 年東学に入門。同 31年の甲午農民戦争 (東学党の乱) のとき北接軍の統領として参加したが敗退,一時元山,江界に避難。光武5 (1901) 年に李祥憲と変名して日本,上海に亡命。同7年帰国し,青年たちを選抜して再び渡日,翌年呉世昌,権東鎮らと進歩会を組織し,李容九を国内に派遣して国内組織をはかる一方,断髪など新生活運動を展開。李容九が背信して,親日団体維新会と統合して一進会を組織,乙巳保護条約 (05) に賛成すると,帰国。李容九らを除名し,同 10年東学を天道教と改称して教祖に就任。教勢拡張と出版社普成社の創立,普成,同徳などの学校経営を行う。 1919年三・一運動のとき民族代表 (33人) の一人となり,逮捕されたが,服役中病気となり保釈され,のち病没した。

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改訂新版 世界大百科事典 「孫秉煕」の意味・わかりやすい解説

孫秉煕 (そんへいき)
Son Pyǒng-hǔi
生没年:1861-1922

朝鮮の天道教の創始者で,三・一独立運動の指導者の一人。号は義庵。忠清南道清州の人。1894年の甲午農民戦争に参加し,98年に崔時亨(さいじこう)が刑死したあと東学の第3代教主となる。日本へ亡命し東学再興に意を尽くしたが,日露戦争の際李容九らが東学を基盤に一進会を組織して日本軍に協力すると,これに反対して東学を天道教と改称,翌年帰国して教団を整備・確立した。1907年には教主を退き,学校や講習所を経営して啓蒙活動にあたり,日本の植民地支配下で教勢の拡大につとめた。19年の三・一独立運動に際し,33名の民族代表の筆頭として独立宣言文に署名,このため逮捕され,病気保釈中に死亡した。
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朝日日本歴史人物事典 「孫秉煕」の解説

孫秉煕

没年:大正11.5.19(1922)
生年:哲宗12.2.28(1861.4.7)
朝鮮の天道教の創始者,3・1独立運動指導者のひとり。日本語読み「そん・へいき」。号は義庵。高宗19(1882)年に東学に入り,甲午農民戦争(1894)に参加し,第2代教主崔時亨の刑死(1898)後は第3代教主となるが,政府の追及を受け日本に亡命する。日露戦争(1904~05)のとき李容九らが東学を基盤に一進会を組織して日本軍に協力するや,これに反対して東学を天道教と改称し(1905),翌年帰国して教主となり教団の再組織に努めた。3・1独立運動(1919)に際し民族代表筆頭として独立宣言文に署名したが,逮捕され病気保釈中に死亡した。親日と反日の間を揺れ動いた宗教家。<参考文献>呉知泳『東学史』,姜在彦『近代朝鮮の変革思想』

(森山茂徳)

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百科事典マイペディア 「孫秉煕」の意味・わかりやすい解説

孫秉煕【そんへいき】

朝鮮の天道教の創始者,独立運動家。号は義庵。忠清南道清州生れ。1905年,日本による植民地化に協力的な一進会に反対して東学の正統を受け継ぐ宗教として天道教を宣布。1919年の三・一独立運動では民族代表の筆頭として独立宣言文に署名。このため逮捕,病気保釈中に死去。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「孫秉煕」の解説

孫秉煕 ソン-ビョンヒ

1861-1922 朝鮮の宗教家,独立運動指導者。
哲宗12年2月28日生まれ。1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)に参加。1898年民族宗教結社東学の3代教主,のち上海,日本に亡命。1906年帰国し,東学を天道教と改称して教主となる。1919年三・一独立運動の独立宣言書に署名し逮捕された。1922年5月19日死去。62歳。忠清道出身。号は義庵。

孫秉煕 そん-へいき

ソン-ビョンヒ

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世界大百科事典(旧版)内の孫秉煕の言及

【高麗大学校】より

…1905年内蔵院卿李容翊(りようしよう)が〈人材を教育しもって国権を復さん〉がために設立した普成学校に始まる。10年孫秉熙(そんへいき)が引き継ぎ15年普成法律商業学校,21年普成専門学校となり法・商科を置く。32年金性洙が引き継ぎ財団中央学園を確立,みずから校長として運営に努め〈第二の民立大学運動〉とうたわれた。…

【天道教】より

東学を継承する朝鮮の一宗教。甲午農民戦争に敗北し教主崔時亨(さいじこう)が処刑された(1898)あと,東学の第3代教主孫秉熙(そんへいき)は日本に亡命していたが,国内の事務をまかされていた李容九らは日露戦争の際一進会をつくって教徒を日本軍に協力させた。これに反対した孫は,1905年12月,東学の正統を受け継ぐ宗教として天道教を宣布,翌年帰国して教団組織の確立を図った。…

※「孫秉煕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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