宇部(市)(読み)うべ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇部(市)」の意味・わかりやすい解説

宇部(市)
うべ

山口県南西部にある市。大正期の炭田開発によって人口が急増し、1921年(大正10)村から一躍市となった。1931年(昭和6)藤山、1941年厚南(こうなん)、1943年西岐波(にしきわ)村、1954年(昭和29)厚東(ことう)、二俣瀬(ふたまたせ)、小野、東岐波の4村をそれぞれ編入。2004年(平成16)厚狭(あさ)郡の楠町(くすのきちょう)と合併。周防灘(すおうなだ)に面する工業都市で、沿岸部は海成段丘の発達する宇部台地厚東川河口の干拓低地、埋立地からなり、背後は厚東川中流まで低い丘陵地が広がる。また、有帆(ありほ)川の中・上流域も含む。国道2号、190号、490号、山陽自動車道、山口宇部道路、宇部湾岸道路が通じる。沿岸の都市部はJR山陽本線から分岐する宇部線で結ばれ、南端の草江海岸には山口宇部空港があり、羽田便が就航している。『延喜式(えんぎしき)』にみえる山陽大路の「阿潭駅(あたみのえき)」は吉見(よしみ)付近といわれ、その下流の棚井(たない)は中世の荘園(しょうえん)市場として栄えた所で、豪族厚東氏が居館を置き、霜降岳(県史跡)に城郭を構えていた。近世には萩(はぎ)藩家老福原氏が宇部を領し、常盤(ときわ)池を築造(1698)して台地の水田化を図り、沿岸低地の水利や干拓新田の開発に努めた。厚東川河口の広大な干拓地は御撫育(ぶいく)用水路(1792)によって開田され、現在も宇部地方の穀倉地。船木(ふなき)は旧山陽道宿場町で、萩藩舟木宰判勘場(さいばんかんば)(代官所)、御茶屋があり、厚狭郡の中心として発達した。石炭採掘はすでに元文(げんぶん)年間(1736~1741)の記録にみえ、天保(てんぽう)年間(1830~1844)の「南蛮車(なんばぐるま)」や明治中期の「蒸枠(むしわく)」など民間の技術革新によって支えられ、宇部式匿名組合という独特の資本運営により発展した。明治後半から大正にかけての海底炭田の開発で鉱業都市として成長し、昭和初期の不況期に工業化が始まり、炭坑廃土を利用して工場用地と港湾を造成し、宇部興産(現、UBE株式会社)を中心とする石炭系化学工業地域を形成した。第二次世界大戦で壊滅した市街は、緑地の多い新都市に生まれ変わったが、エネルギー革命の影響下に、1967年沖ノ山炭鉱閉山をもって宇部炭田300年の歴史は終わった。現在の基幹産業は重化学工業で、多数の工業団地がある。市内には山口大学工学部・医学部宇部フロンティア大学や渡辺翁記念会館(国指定重要文化財)、運動公園など教育・文化施設が多く、東郊の常盤公園は500羽の白鳥で有名な常盤池、緑と花と彫刻の博物館、遊園地、石炭記念館がある。宗隣(そうりん)寺庭園は南北朝時代の池庭といわれ、国指定の名勝。『慶長国絵図(けいちょうくにえず)』(宇部市蔵)などの国指定重要文化財がある。吉部(きべ)の大岩郷(おおいわごう)は大石の積み重なったもので国の天然記念物。面積286.65平方キロメートル、人口16万2570(2020)。

[三浦 肇]

『『宇部市史』全3巻(1963~1966・宇部市)』『『宇部市史』全5巻(1990~1993・宇部市)』


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