安倍頼時(読み)アベノヨリトキ

デジタル大辞泉 「安倍頼時」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐よりとき【安倍頼時】

[? ~1057]平安中期陸奥の豪族。子の貞任宗任とともに、前九年の役源頼義義家父子と戦い、敗死

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改訂新版 世界大百科事典 「安倍頼時」の意味・わかりやすい解説

安倍頼時 (あべのよりとき)
生没年:?-1057(天喜5)

平安中期の陸奥国の豪族。父は忠良。はじめ頼良といったが,陸奥守源頼義の名と同じであることをはばかって,頼時と改名した。父祖以来〈奥六郡の司〉(岩手県中央部の胆沢江刺和賀,稗貫,紫波,岩手の6郡の郡司)として蝦夷を統率する地位にあった。早くから陸奥国司対立し,永承年間(1046-53)には陸奥守藤原登任(たかとう),秋田城介平重成の連合軍と鬼切部(おにきりべ)(宮城県大崎市の旧鳴子町鬼首(おにこうべ))において戦い,勝利を収めた。1056年に子息の貞任が陸奥権守藤原説貞の子光貞・元貞を襲撃した事件を発端として,陸奥守源頼義と戦うに至った(前九年の役)。57年9月,頼義が〈銫屋(かなや),仁土呂志(にとろし),宇曾利(うそり)〉3郡(岩手県北部,青森県東部の地)の俘囚ふしゆう)を味方に引き入れて挙兵させたとき,これをとどめようとして赴き,伏兵の襲撃を受けて流れ矢にあたり,鳥海柵まで戻ったが,そこで死んだ。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安倍頼時」の意味・わかりやすい解説

安倍頼時
あべのよりとき

[生]?
[没]天喜5(1057).7.26. 陸奥,鳥海
平安時代中期の奥州俘囚 (ふしゅう) の長。陸奥大掾忠良の子。初名は頼良,通称安大夫。安倍氏は神武天皇東征のとき,これに抵抗した長髄彦 (ながすねひこ) の兄安日 (あび) が摂津国から陸奥に逃れて土着したのに始ると伝えられるが,本来は蝦夷酋長の子孫であろう。安倍姓も現地の豪帥として賜姓されたものであろう。頼時は祖父忠頼が俘囚の長として,陸奥国衙行政の現地支配権を握ったあとをうけて,胆沢 (いざわ) ,江刺,和賀,稗貫 (ひえぬき) ,紫波,岩手の奥6郡の司となり,その勢力をもって,衣川に関を設け,租賦を納めず,朝命に服さず,自立の傾向を強めた。永承6 (1051) 年,これを討とうとした陸奥守藤原登任 (なりとう) らが敗れると,源頼義が陸奥守に起用され,頼時追討にあたった。頼時は一時帰順し,名も頼義との同訓をはばかって頼良から頼時に改めた。しかし天喜4 (56) 年,頼義が頼時の子貞任を逮捕しようとした事件を契機に,両者の関係は再び悪化し,戦いが再開された。翌5年,頼時は貞任とともに衣川に戦い,流れ矢に当って鳥海柵 (ちょうかいのき) で戦死

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安倍頼時」の意味・わかりやすい解説

安倍頼時
あべのよりとき
(?―1057)

平安後期、奥羽の武将。俘囚長(ふしゅうちょう)。奥六郡の司。忠頼(ただより)の孫、忠良(ただよし)の子。初名頼良。奥六郡に編成された俘囚たちは、古代蝦夷(えぞ)の抵抗の伝統を、心の奥深く伝えた人たちである。彼はこの使命感のもと、北に「俘囚の国」を独立させるべく、前九年の役(1051~1062)に立ち上がった。古代から中世への転換を、北の辺境から呼びかける大戦であった。鬼切部(おにきりべ)(宮城県大崎(おおさき)市鳴子温泉鬼首(なるこおんせんおにこうべ))の会戦では陸奥守(むつのかみ)藤原登任(なりとう)に大勝したが、北の与党安倍富忠(とみただ)が、源頼義(よりよし)の勧誘に応じて離反したとき、これを鎮めるため出兵、負傷、鳥海柵(とりうみのき)に没した。

[高橋富雄]

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百科事典マイペディア 「安倍頼時」の意味・わかりやすい解説

安倍頼時【あべのよりとき】

平安中期の陸奥国の豪族。初め頼良と称した。父は忠良。父祖忠頼以来奥六郡(現岩手県中央部)の郡司として蝦夷を統率,1051年陸奥守藤原登任(たかとう)らの軍勢と戦い勝利を収めた。後任に源頼義が陸奥守として赴任。頼良は名の同訓をはばかり頼時と改称し一旦は帰順したが,頼時の子貞任が陸奥権守の子息らを襲撃したため頼義と戦うこととなった。1057年伏兵の流れ矢にあたり死去。→前九年・後三年の役
→関連項目清原家衡

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朝日日本歴史人物事典 「安倍頼時」の解説

安倍頼時

没年:天喜5(1057)
生年:生年不詳
平安中期の東北地方の豪族。「俘囚長」。初名は頼良。陸奥大掾忠良の子。父祖の後を継ぎ奥六郡(岩手県)を支配し国司と対立,永承6(1051)年に陸奥守藤原登任,秋田城介平重成と鬼切部(宮城県鳴子町鬼首)で戦い勝った(前九年の役始まる)。そこで朝廷が後任の守として派遣した源頼義にはいったんは帰順し,たまたま名が同訓であったのをはばかって頼時と改名もしたが,その後,子の貞任が陸奥権守藤原説貞の子を襲撃したことで,天喜4(1056)年頼義と戦うことになった。翌年,頼義が味方に引き入れようとした「俘囚」を慰留するため奥地に赴いた際,流れ矢に当たり,それがもとで間もなく鳥海柵(岩手県金ケ崎町)で死んだ。

(朧谷寿)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安倍頼時」の解説

安倍頼時
あべのよりとき

?~1057.7.26

平安中期の陸奥国の豪族。忠良の子。はじめ頼良(よりよし)と名のったが,源頼義との同訓をさけて改名。安大夫と称する。俘囚(ふしゅう)長として奥六郡の支配権を掌握し,衣川を越えて南下をはかり陸奥国守藤原登任(なりとう)と対立,これを破った。後任の国司源頼義に従ったが,1056年(天喜4)戦闘となり,翌年,俘囚を味方に誘おうと鳥海(とりのみ)柵に赴いたところを討たれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安倍頼時」の解説

安倍頼時 あべの-よりとき

?-1057 平安時代中期の豪族。
安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)の父。父祖以来,陸奥(むつ)六郡(岩手県)の俘囚(ふしゅう)の長として陸奥を支配。征討にきた陸奥守藤原登任(なりとう)をやぶる。後任の源頼義に一時帰順したが,ふたたびたたかい(前九年の役),天喜(てんぎ)5年7月26日戦死。初名は頼良。通称は安大夫。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安倍頼時」の解説

安倍頼時
あべのよりとき

?〜1057
平安中期の陸奥の豪族
貞任 (さだとう) ・宗任の父。俘囚 (ふしゆう) の長。中央政府にそむき,1051年,陸奥守源頼義の征討をうけ,'57年戦死。

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世界大百科事典(旧版)内の安倍頼時の言及

【前九年の役】より

…ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡)の戦では大勝を得るという勢いだった。この戦況を転回させる契機になったのが,出羽国の俘囚長清原武則の参戦である。…

【源頼義】より

…1051年(永承6)陸奥守,53年(天喜1)鎮守府将軍を兼ねる。当時陸奥に勢力をふるい代々の国司に反抗していた安倍頼時は頼義の着任と同時に帰順,しかし頼義の任期が満ちると56年,両者の間に争いが起こった。そのため朝廷は頼義に安倍氏追討を命じ陸奥守に再任。…

※「安倍頼時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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