安達義景(読み)あだち・よしかげ

朝日日本歴史人物事典 「安達義景」の解説

安達義景

没年:建長5.6.3(1253.6.30)
生年:承元4(1210)
鎌倉中期の武士。景盛の子。嘉禎3(1237)年に秋田城介となり,延応1(1239)年に鎌倉幕府評定衆に任じられて幕政中枢に参加し,仁治3(1242)年の四条天皇の死に際しては,北条泰時の命を受けて上洛し,後嵯峨天皇を皇位につけた。泰時の死後には執権北条時頼の外戚として執権を補佐し,執権邸での秘密会議である寄合のメンバーとなって行動する。寛元4(1246)年には前将軍の藤原頼経を京に追った宮騒動の中心として活動し,翌年の宝治合戦では高野山から降りてきた父景盛と共に三浦氏の勢力削減を計画し,鎌倉の甘縄の館から討って出て滅ぼしている。その合戦後には上洛して北条重時を鎌倉の連署に迎える使者となり,建長4(1252)年の宗尊親王を将軍に迎えるに当たっても使節に子の頼景が起用されるなど,幕府の節目で重要な役割を果たした。建長4年に五番の引付頭人となり,翌年に病気により出家,法名は願智。以後,その子孫は北条氏家督の外戚として栄えることになった。

(五味文彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安達義景」の解説

安達義景 あだち-よしかげ

1210-1253 鎌倉時代の武将
承元(じょうげん)4年生まれ。安達景盛(かげもり)の長男。父の出家後,秋田城介(じょうのすけ)をつぎ,評定衆として幕政にくわわる。四条天皇の死後,幕府の使者として京都にいき,後嵯峨(ごさが)天皇の擁立に成功。宝治(ほうじ)元年には父とともに三浦氏をほろぼした(三浦氏の乱)。建長5年出家し,同年6月3日死去。44歳。通称は城太郎。法名は願智。

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