宗長(読み)ソウチョウ

デジタル大辞泉 「宗長」の意味・読み・例文・類語

そうちょう〔ソウチヤウ〕【宗長】

[1448~1532]室町後期の連歌師駿河するがの人。号、長阿・柴屋軒さいおくけん和歌連歌宗祇そうぎに学んだ。著「雨夜記あまよのき」「宗祇終焉しゅうえん記」、連歌集「壁草」など。

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精選版 日本国語大辞典 「宗長」の意味・読み・例文・類語

そうちょう ソウチャウ【宗長】

室町後期の連歌師。号、柴屋軒、長阿。駿河静岡県)の人。宗祇の門人で、師の没後、郷里宇津山麓の丸子に柴屋軒を営み、京都と駿河の間を往復する。また、一休宗純について禅の修行をした。晩年、政治的にも今川氏のために活躍した。句集「壁草」、連歌学書「雨夜の記」「連歌比況集」、日記紀行「宗祇終焉記」「宇津山記」「宗長手記」など。文安五~享祿五年(一四四八‐一五三二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗長」の意味・わかりやすい解説

宗長
そうちょう
(1448―1532)

室町後期の連歌師。初め宗歓、長阿、柴屋軒(さいおくけん)とも号した。駿河(するが)国(静岡県)島田の鍛冶(かじ)職五条義助の子。早く今川義忠(よしただ)に近侍し、18歳で出家したのちも書記役のようなことを務めていて、合戦などにもたびたび従軍していた。義忠戦死のあと今川家を離れて上洛(じょうらく)、一休宗純に参禅、また宗祇(そうぎ)に師事して連歌を修行した。1478年(文明10)の越後(えちご)の旅や80年の『筑紫道記(つくしみちのき)』(宗祇の連歌紀行)の旅にも宗祇に同行し、やがて『水無瀬(みなせ)三吟』『湯山三吟』をはじめ、宗祇一座の多くの作品に加わって、宗祇門として頭角を現す。96年(明応5)駿河に帰国、改めて今川氏親(うじちか)に迎えられ、宇津山麓(うつさんろく)に柴屋軒を結庵(けつあん)し、駿河と京都の間を何度も往来し、享禄(きょうろく)5年3月6日、駿河で没。句集に『壁草』『那智籠(なちごもり)』『老耳(おいみみ)』など、連歌論書に『連歌作例』『永文(ながふみ)』など、日記紀行に『宗祇終焉記(しゅうえんき)』『宗長手記』などがある。俳諧(はいかい)をも好んだことが『宗長手記』から知られる。

[島津忠夫]

『木藤才蔵著『連歌史論考 下』(1973・明治書院)』

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百科事典マイペディア 「宗長」の意味・わかりやすい解説

宗長【そうちょう】

室町後期の連歌師。号は柴屋軒。駿河島田の鍛冶職の家に生まれた。今川氏に仕え,のち一休に参禅,連歌を宗祇に学ぶ。宗祇没後の連歌界の指導者。晩年は駿河宇津山麓に柴屋軒を結び隠棲(いんせい),今川氏の政治に協力した。《水無瀬(みなせ)三吟百韻》の作者の一人。句集《壁草》,日記《宗長手記》《宗長日記》,また《宗祇終焉記》がある。
→関連項目犬筑波集閑吟集宗鑑連歌

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗長」の意味・わかりやすい解説

宗長
そうちょう

[生]文安5(1448)
[没]享禄5(1532).3.6.
室町時代の連歌作者。幼名,長六。初め宗歓と称し,柴屋軒 (さいおくけん) と号した。駿河国島田の鍛冶職の子。若くして宗祇の門に入り,40年変りなく仕え,旅行にも多く同行した。宗祇,肖柏とともに賦した『水無瀬三吟百韻 (みなせさんぎんひゃくいん) 』は特に有名。宗祇の越後旅行に際し,駿河から出向いて病床を訪れ,同行して箱根における死に会い,『宗祇終焉記』 (1502) を書いた。のち駿河国丸子の柴屋軒に隠棲,関西や東国,北国を旅行し,『東路のつと』 (09) ,75歳から 80歳まで書き継いだ『宗長手記』,『宗長日記』 (30~31) を残した。大徳寺の一休和尚に参禅したことがあり,軽妙洒脱で,俳諧,狂歌もたしなんだ。ほかに『雨夜記』 (19) ,『連歌比況集』,句集『壁草』 (12) ,『那智籠 (なちごもり) 』 (17) ,『老耳 (おいのみみ) 』 (22~26) などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「宗長」の意味・わかりやすい解説

宗長 (そうちょう)
生没年:1448-1532(文安5-天文1)

室町後期の連歌師。別号,柴屋軒。駿河島田の人。鍛冶職五条義助の子。今川義忠に仕えたが義忠の戦死後上洛。宗祇に師事して連歌を学び湯山三吟,水無瀬三吟などの席に列なる。また一休宗純に参禅。宗祇没後の連歌界の指導者となる。駿河宇津山の麓に柴屋軒を開き京師との間を往還。句集《壁草》《那智籠(なちごもり)》,日記《宗長手記》《宗長日記》があり,ほかに《東路の津登(あずまじのつと)》《宇津山記》《宗祇終焉記》がある。一説に《閑吟集》の編者ともいう。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「宗長」の解説

宗長

没年:天文1.3.6(1532.4.11)
生年:文安5(1448)
室町時代の連歌師。初名,宗歓,号,柴屋軒。駿河国(静岡県)島田の鍛冶,五条義助の子。若くから守護今川義忠に仕えたが,文明8(1476)年義忠戦没後離郷。京都に出て一休宗純に参禅,また飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。明応5(1496)年49歳のころ駿河に帰り,今川氏親の庇護を受けるようになり,以後今川氏のために連歌や古典を指導,ときには講和の使者に立つなど政治的な面にも関与した。駿河帰住後も京駿間を中心に頻繁に旅を重ねたが,その見聞を記した『宗長手記』は,戦乱の世相,地方武士の動静,また自身の俳諧や小歌に興じる洒脱な生活などが活写されており興味深い。ほかに句集『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』などがある。<参考文献>木藤才蔵『連歌史論考』下

(沢井耐三)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗長」の解説

宗長
そうちょう

1448~1532.3.6

室町中期~戦国期の連歌師。初名宗歓,別号は柴屋軒(さいおくけん)。駿河国島田の刀鍛冶の子に生まれ,駿河国守護今川義忠に仕えたが,1476年(文明8)義忠が戦死したため上京,一休宗純に参禅,連歌を宗祇(そうぎ)に学ぶ。越後国や筑紫への旅に宗祇と同道し,「水無瀬(みなせ)三吟」「湯山(ゆやま)三吟」などの作品に参加。叙景句よりも理のある句・述懐の句を得意とした。1504年(永正元)駿河国宇津山麓に柴屋軒を結び,以後今川家の政治的活動のため旅をくり返した。自撰句集に「壁草」「那智籠(なちごもり)」「老耳(おいのみみ)」,連歌論書に「雨夜記(あまよのき)」「連歌比況集」,紀行・記録に「宗長手記」「宗祇終焉記」などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗長」の解説

宗長 そうちょう

1448-1532 室町-戦国時代の連歌師。
文安5年生まれ。駿河(するが)(静岡県)島田の人。守護今川義忠につかえる。義忠死後,京都にでて一休宗純に参禅。宗祇(そうぎ)に連歌をまなぶ。宗祇,肖柏(しょうはく)との「水無瀬(みなせ)三吟百韻」「湯山三吟」は有名。享禄(きょうろく)5年3月6日死去。85歳。別号に宗歓,長阿,柴屋軒(さいおくけん)。著作に「壁草」「宗祇終焉(しゅうえん)記」「宗長手記」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗長」の解説

宗長
そうちょう

1448〜1532
室町後期の連歌師。宗祇 (そうぎ) の高弟
柴屋軒 (さいおくけん) と号す。駿河(静岡県)の人。一休宗純の門に入り,三条西実隆 (さんじようにしさねたか) ・山崎宗鑑らと交友。俳諧に巧みで庶民性が強い。宗祇・肖柏と行った『水無瀬三吟百韻』は有名。『宗長日記』『宗長手記』などの日記は地方史料として重要である。

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世界大百科事典(旧版)内の宗長の言及

【忍】より

…文明年間(1469‐87)ごろ,成田親泰が山内・扇谷両上杉氏の争いに乗じてここに築城して以来,成田氏代々の居城となった。1509年(永正6)ごろここを訪れた連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちよう)は,忍城のようすを〈水郷なり。館のめぐり四方沼水幾重ともなく,蘆の霜枯三十余町四方へかけて,水鳥,雁多く見えわたるさま云々〉(《東路の津登(あずまじのつと)》)と記している。…

【下総国】より

…千葉氏一族の東氏から出た臨済の禅僧竜山徳見は,渡元して修学に努めた偈頌(げじゆ)の大家で,門下に義堂周信(ぎどうしゆうしん),絶海中津(ぜつかいちゆうしん)らの秀才を輩出している。1509年(永正6)連歌師宗長(そうちよう)は関東吟遊の途次下総に来り,小弓城主原胤隆の歓迎を受け,千葉妙見の祭礼や競馬,延年の猿楽(さるがく)などを見学しており,その紀行文《東路の津登(あずまじのつと)》からは戦国時代地方文化の一端をみることができる。
[産業・商業]
 香取社領中,下総,常陸に点在する〈海夫(かいふ)〉は,霞ヶ浦,北浦,現利根川下流域で漁業に従事し,津という集落をなし,香取社に人身的に隷属していた集団を支配・管轄したもので,15世紀の海夫注文に,下総国35浦,常陸国83浦とみえる。…

【丸子】より

…《吾妻鏡》に〈駿河国麻利子一色〉と見えるが,鎌倉期には手越宿のほうが有名であった。紀行文などに丸子がしばしば現れるのは戦国期になってからで,駿河国島田に生まれた連歌師宗長(そうちよう)は,今川氏親に迎えられて当地に柴屋軒(さいおくけん)を結庵した。また室町期に今川氏の手によって丸子城が築かれ,戦国期武田氏の侵攻により大幅に増築されたが,徳川氏の関東転封とともに廃城となった。…

【水無瀬三吟百韻】より

…1巻。後鳥羽院の水無瀬の廟に奉納するために,宗祇とその高弟の肖柏宗長を連衆(れんじゆ)として,1488年(長享2)正月22日の院の月忌に山城国山崎で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。宗祇の発句〈雪ながら山もとかすむ夕かな〉および宗長の挙句〈人をおしなべみちぞただしき〉は,それぞれ《新古今和歌集》所収の院の〈見わたせば山もと霞む水無瀬河夕は秋となに思ひけむ〉(巻一),〈おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ〉(巻十七)を本歌とする。…

【湯山三吟百韻】より

…〈湯山〉のよみは〈ゆやま〉とも。1491年(延徳3)10月20日,宗祇とその高弟の肖柏宗長を連衆として摂津国湯山(有馬温泉)で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。発句〈薄雪に木の葉色こき山路かな〉(肖柏),脇句〈岩もとすすき冬やなほみん〉(宗長),第三〈松むしにさそはれそめし宿出でて〉(宗祇)以下100句で,挙句は肖柏の〈一(ひと)むらさめに月ぞいさよふ〉。…

※「宗長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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