宝暦暦(読み)ほうれきれき

精選版 日本国語大辞典 「宝暦暦」の意味・読み・例文・類語

ほうれき‐れき【宝暦暦】

泰平年表‐大御所公・寛政九年(1797)一一月一八日(古事類苑・方技五)「宝暦暦 宝暦四年改暦

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝暦暦」の意味・わかりやすい解説

宝暦暦
ほうれきれき

日本の暦法の一つ。正しくは「宝暦甲戌元暦(ほうれきこうじゅつがんれき)」といい、この暦法によって編まれた暦書もこの名でよぶ。1754年(宝暦4)10月19日「貞享(じょうきょう)暦」を廃して翌年から施行され、1798年(寛政10)の「寛政(かんせい)暦」施行まで行われた。この暦法は、8代将軍徳川吉宗(よしむね)の西洋流天文学に基づく改暦の意を受けて、天文方西川正休(まさよし)や渋川則休中途死去)が改暦事業に携わった。しかし吉宗が死去し、西川正休と陰陽頭(おんみょうのかみ)土御門(つちみかど)(安倍(あべ))泰邦(やすくに)とが相いれないで西川が改暦事業から退けられるなどのことがあって、結局「貞享暦」をわずかに補正したにとどまった。

[渡辺敏夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝暦暦」の意味・わかりやすい解説

宝暦暦
ほうれきれき

宝暦4 (1754) ~寛政 10 (98) 年施行された太陰暦。「ほうりゃくれき」とも読み,正しくは宝暦甲戌元暦という。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命で,天文方西川正休,渋川則休らが貞享暦改訂の準備を進め,西洋天文学に基づく改暦の準備の整った宝暦1年京都に上表したが,吉宗の死により実現せず,これを陰陽頭 (おんようのかみ) 安倍 (土御門) 泰邦が,西村遠里に梅小路司天台で3年間実験させ,『暦法新書』 (16巻) を大成して,同4 (甲戌) 年 10月 16日上奏し,同 19日施行。しかし,暦道の実権を京都に取戻そうと考えていた泰邦は貞享暦をわずかに修正した程度にとどめたため,施行後まもなく暦に記載されてない日食が起って問題となり,明和7 (70) 年天文方佐々木長秀らがさらに改訂した。しかし政略的な改暦であったため,その後日食の予告に失敗するなどで,寛政 10年次の寛政暦に取って代られた。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝暦暦」の意味・わかりやすい解説

宝暦暦 (ほうりゃくれき)

1755年(宝暦5)より97年(寛政9)まで施行された暦法。撰者土御門泰邦である。徳川吉宗の性急な改暦意図に沿うためという政治的な動機で行われた改暦により施行された暦法である。施行後わずか8年で日食予報に失敗し世の批判を浴び,1771年(明和8)からは佐々木文次郎の補正した修正宝暦暦が行われた。この後者のほうが長く使用されたが,いずれも貞享(じようきよう)暦の暦元の値を少し変えただけの新味のない暦法であった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宝暦暦」の解説

宝暦暦
ほうりゃくれき

土御門泰邦・渋川光洪(みつひろ)らによって編纂された暦法で,1755年(宝暦5)から97年(寛政9)まで43年間用いられた。日本で作られた2番目の暦法。8代将軍徳川吉宗が西洋天文学をとりいれて,貞享暦(じょうきょうれき)にかわる斬新な暦法を作るよう命じたことに端を発し,西川正休を登用して改暦を行おうとしたが,正休ら幕府天文方に改暦の実力がなかったため,陰陽頭土御門泰邦の主導で改暦が進められた。貞享暦を若干修正した程度のもので,彼岸の日付をかえたり,古い暦注を復活させたりするなど,あまり意味のない変更を加えている。その結果,日食の予報を誤り,71年(明和8)からは修正宝暦甲戌元暦が用いられた。

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