寂光寺(読み)じやつこうじ

日本歴史地名大系 「寂光寺」の解説

寂光寺
じやつこうじ

[現在地名]左京区北門前町

顕本法華宗の本山。山号は空中山。本尊は十界大曼荼羅。妙満みようまん寺住持の久遠院日淵が天正六年(一五七八)創建。日淵は翌七年の安土宗論で、京都法華宗の代表者の一人として浄土宗と宗論し、織田信長の詭計で敗者となった(寂光寺文書など)。当初の寺地出水でみず室町むろまち近衛このえ(現京都市上京区)、同一八年豊臣秀吉寺町建設によって替地を提供され、寺町てらまち竹屋たけや町東側(現同市中京区)に移転、さらに宝永五年(一七〇八)の京都大火によって類焼、今の寺地に移転して再興した。開基檀越は日淵に帰依した高辻東洞院たかつじひがしのとういん(現同市下京区)祇園ぎおん御旅所の神主降谷祐恵。

寂光寺
じやつこうじ

[現在地名]東淀川区南江口三丁目

日蓮宗、宝林山普賢院と号し、本尊は十界大曼荼羅。江口の君堂えぐちのきみどうともよばれる。寺伝によると元久二年(一二〇五)光相比丘尼の開創という。光相は妙之前といい俗に江口君とよばれた遊女で、もとは平資盛の女という。仁安二年(一一六七)西行と歌問答した遊女妙はこの人で、問答後発心して庵を建立したのが当寺の始まりという。なおこの開創譚は「撰集抄」にみえる書写山円教えんきよう(現兵庫県姫路市)の証空が播磨国室津むろつ(現同県揖保郡御津町)の遊女をみ、閉目観念したら普賢菩薩にみえたという故事になぞらえたものともいう(摂津名所図会)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「寂光寺」の意味・わかりやすい解説

寂光寺 (じゃっこうじ)

京都市左京区にある顕本法華宗の寺。空中山と号する。京都日蓮宗(法華宗)16本山の一つであった妙満寺の貫主であり,また1579年(天正7)安土宗論において京都日蓮宗を代表する一人として浄土宗と宗論して敗れた久遠院日淵が,宗論の翌80年,別に上京の室町近衛町に開創した寺。そののち,寺地は洛中を転々し,江戸中期から現在地に移った。当寺が世に注目されるのは囲碁の名人,本因坊1世の算砂(さんさ)日海(本因坊算砂)が出たからである。本因坊は当寺の塔頭の一つ。算砂は日淵の高弟で,碁技にすぐれ,織田信長に〈名人〉の称呼を許され,ついで豊臣・徳川政権のもとでは碁所の祖とされた。以後,本因坊の院主は代々碁技をもって跡をつぎ,幕府の碁所を兼ねて囲碁の家元の役を果たした。境内には初期本因坊数代の墓が現存し,また寺宝として算砂が朝鮮国から贈られたと伝える碁盤碁石,そのほか囲碁に関する記録を多く残している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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