富山(読み)とやま

精選版 日本国語大辞典 「富山」の意味・読み・例文・類語

とやま【富山】

[一] 富山県中央部の地名。県庁所在地。富山湾に面する。天文年間(一五三二‐五五)水越勝重が富山城を築城。江戸時代は前田氏十万石の城下町として発展。富山売薬の中心地であり、豊富な電力と良質の工業用水に恵まれた工業都市でもある。明治二二年(一八八九)市制。
[二] 「とやまけん(富山県)」の略。

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デジタル大辞泉 「富山」の意味・読み・例文・類語

とやま【富山】

中部地方日本海に面する県。もとの越中にあたる。人口109.3万(2010)。
富山県中央部の市。神通じんずう中下流域を占める。県庁所在地。加賀藩の支藩前田氏の城下町を中心に発展。製薬および売薬業、化学工業が盛ん。平成17年(2005)4月、上新川かみにいかわ郡、婦負ねい郡の6町村と合併。人口42.2万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「富山」の意味・わかりやすい解説

富山[県] (とやま)

基本情報
面積=4247.61km2(全国33位) 
人口(2010)=109万3247人(全国37位) 
人口密度(2010)=257.4人/km2(全国25位) 
市町村(2011.10)=10市4町1村 
県庁所在地=富山市(人口=42万1953人) 
県花チューリップ 
県木=立山スギ 
県鳥=ライチョウ

本州のほぼ中央部,日本海沿岸にある県。北西は石川県能登半島基部に連なり,東は新潟県,長野県に,南は岐阜県に接する。

県域はかつての越中国全域にあたる。江戸時代は加賀藩の支配下にあり,婦負(ねい)郡と新川(にいかわ)郡の一部を割いて支藩の富山藩が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県によって富山藩領は富山県となり,金沢(加賀)藩領は金沢県に属した。同年越中国のうち新川,婦負,砺波(となみ)の3郡をもって新川県が成立,射水(いみず)郡は能登の七尾県の管轄となった。翌年七尾県の廃県に伴い新川県は射水郡を併合し,いったん越中全域を管轄下に置いたが,76年石川県に併合された。83年越中全域が分離して富山県が再置され,現在に至っている。

桜峠遺跡(魚津市)は北陸で数少ない縄文早期押型文土器の遺跡として早くから注目されてきた。朝日貝塚(氷見市)は1910年代以来の調査で,いわゆる朝日式土器をはじめ骨製装身具をつけた人骨や硬玉製大珠などが出土している。東北・北陸地方の多雪地帯で最近発見が相次いでいる長円形の大型竪穴住居址(いわゆるロングハウス)が最初に調査されたのが不動堂遺跡(下新川郡朝日町)である。縄文中期前葉ごろのものだが,その機能に関心がもたれている。このほか中・晩期の遺跡で,晩期〈勝木原(のでわら)式〉の標準遺跡である勝木原遺跡(高岡市)などがある。

 1910年代に調査され,日本における洞窟遺跡の本格調査の最初となった大境(おおさかい)洞窟(氷見市)は富山湾に開口した海食洞で,縄文土器,石器,獣骨・魚骨類などを含む第6層まで6枚の遺物包含層がある。なかで最も厚い第5層では弥生式土器と抜歯や赤色顔料塗布のみられる約20体もの人骨が発見されている。長さ3m,幅30cm,厚さ3cmほどの杉材3枚を並ベた木橋の発見で注目された江上遺跡(中新川郡上市町)では,そのほかにも約3000m2の水田下から鍬,鋤などの農具を中心に,弓矢などの狩猟具,臼,杵,紡錘車,織機の部品など大量の木製品が,弥生後期の畿内第五様式の長頸壺多数とともに出土している。

 日本海側で近年発見の相次いでいるいわゆる四隅突出型墳のうち,山陰以北では唯一の例といわれる杉谷4号墳をはじめ,方形周溝墓17,円形周溝墓1を含む杉谷古墳群(富山市)は,北陸における弥生時代末から古墳時代への過渡期の様相を示すものとして重視されている。この古墳群の南西3kmにある羽根山古墳群(富山市)は,上平支群と下平支群で構成されるが,前者は全長75mの前方後方墳の勅使塚(ちよくしづか)古墳と5基の小円墳からなり,後者は全長62mの前方後方墳の王塚古墳と5基の小円墳からなる。このほか木棺直葬をもつ円墳群からなる国分山古墳群(高岡市),帆立貝式古墳を含む前方後円墳と円墳からなる桜谷古墳群(高岡市)などがある。

 じょうべのま遺跡(下新川郡入善町)では1970年から74年まで5次にわたる発掘調査の結果,中心のA地区からは平安初期を中心とする21棟分の柱穴,木簡6,墨書土器20などが,L地区からは平安末から室町期までの柱穴,南宋の青磁や白磁などが発見されている。墨書のなかには〈西庄〉と書かれたものも多く,ここが荘家跡かと推察されている。
越中国
執筆者:

富山県は,東西に長くほぼ長方形をなしている。北部は緩い曲線を描く海岸線で,深海性の富山湾に面している。東部は立山,劔岳,薬師岳,白馬岳など標高3000m級の峻峰がそびえる飛驒山脈の北部山地で,その北端は新潟県の親不知(おやしらず)から続く断崖で日本海に臨んでいる。西部は医王山から俱利伽羅(くりから)峠を経て能登半島基部にある宝達(ほうだつ)丘陵に至る丘陵性山地が石川県との県境をなしている。南部は高原性の飛驒高地の北縁部で,ほぼ中央部から呉羽(くれは)丘陵(標高約100m)が突出して富山平野を二分している。県中央部に広がる富山平野(広義)には県人口の大部分が集中し,まとまった生活圏を形成している。富山平野は東部,西部,南部の山地帯から発して北流する黒部川,片貝川,早月川,常願寺川,神通(じんづう)川,庄川,小矢部(おやべ)川によって山麓部に形成された扇状地が,たがいに連接した複合扇状地である。このうち東部の黒部川から常願寺川にかけては,扇状地の末端がそのまま海に接しているが,中部から西部の神通川から庄川,小矢部川にかけては,扇状地の前方にさらに三角州が造成され,連接して複合三角州を形成している。富山湾沿岸では東部から中部にかけて,海岸浸食による陸地の後退が著しい。魚津港沖に見られる海底埋没林(魚津埋没林)は2000年以上前に陸地の沈降によって生じた現象で,特別天然記念物に指定されている。

 富山県の気候は日本海側気候に属し,年間降水量が平野部で2500mm前後,南東の飛驒山脈の山岳地帯では4000mmを超える。しかも降水は冬季に集中して山間地では積雪4~6mに達し,日本でも代表的な豪雪地帯となっている。気温は富山市で年平均13.5℃,冬季の平均気温は1月2.1℃で,雪は多いが寒さはそれほど厳しくない。冬季には北西の季節風が卓越するが,春先になると中央脊梁山地を越えてきた強い南風がフェーン現象を起こし,火災,雪崩,融雪,出水などを誘発することがある。山麓扇状地の農家に広く見られる屋敷林は防風,類焼防止などの機能をもっている。また5~6月には富山湾の魚津沖合に蜃気楼(しんきろう)が見られることがある。

富山平野を中心に展開している農業は年産26万t(1996)をあげる米作を中心とするが,95%という全国第1位の兼業率(1996)によって全国有数の農家所得をあげていることに特徴がある。耕地面積のうち水田が95%(1996)を占め,全国平均54%をはるかに上回り,全国第1位である。また米の10a当り平年収量は536tで,全国平均525t(1996)と比べて高水準にある。水田裏作として大正期に導入されたチューリップの球根栽培は富山平野南西部の砺波平野と東部の黒部川扇状地を中心に行われ,国内・国外市場に出荷されている。黒部川扇状地には特産の大型・長楕円体の黒部スイカがある。果樹は魚津市でリンゴ,呉羽丘陵西斜面で梨,ブドウが栽培され,南砺波地方の柿は干柿として出荷されている。

 県内の森林面積は県域の約6割(1990)を占め,そのうち国有林が25%を占める。森林種類別ではブナ,ミズナラ,トチノキなどの広葉樹林が6割弱で,杉,アカマツなどの針葉樹林は2割にすぎない。また水源涵養,土砂流失・崩壊防止などの保安林面積は林野総面積の6割以上に及び,全国で最も高率となっている。しかし,広葉樹林の多くは生産性の低い雑木林で,民有林は林野所有規模が零細であるうえに,近年山村の過疎化による林業労務者の不足,高齢化などによって人工造林の拡大,保育などが阻害されている。

 漁業の現状は経営体数の88%(1992)が個人経営で,兼業率も9割近い。兼業率が高いのは,富山湾の海岸線が単調なため良好な漁港に恵まれず,しかも背後地で工業化が著しく進んでいるため,在宅通勤による兼業が可能であるからである。沿岸漁業,沖合漁業が漁獲量の9割を占め,イカ,マグロ,ブリ,カニ,エビ,サケ・マスなど,寒流系・暖流系の多種類の魚族が漁獲されている。滑川(なめりかわ)・魚津両市の沖合はホタルイカの群遊海面(特天)となっている。富山湾の大型定置網漁業は江戸時代からの歴史をもち,主として大陸棚が発達している富山湾西方海域に展開している。

富山県の工業は,古い歴史をもつ伝統工業と近代工業が併存していることが特色で,北陸4県では新潟県に次ぐ出荷額を上げている(1995)。第1次大戦を契機として出発した近代工業は,豊富・低廉な電力と工業用水,伏木(ふしき)港や富山港の港湾施設,豊富な労働力,工業用地などに恵まれたため,冬季の積雪や首都圏,中京圏,近畿圏からほぼ等距離にあって大消費地から遠いという不利な条件を克服して発展した。近代工業のうち,鉄鋼(合金鉄),化学,機械,紙・パルプなどの重化学工業部門は,伏木・富山両港の背後地に展開して高岡北部工業地域および富山北部工業地域を形成し,繊維工業を中心とする軽工業部門は小矢部市,砺波市などに立地して内陸工業地域を形成していった。さらに射水市の旧新湊市の放生津(ほうじようづ)潟を利用した掘込み式人工港湾で日本海側有数の規模を誇る富山新港が完成(1968)し,既存の伏木港,富山港(旧,東岩瀬港)と合わせ伏木富山港として重要港湾に指定された。アルミ関連企業,木材関連企業を中心とする富山・高岡新産業都市が建設されて非鉄金属,金属製品,木製品の比重が高まった。また1983年富山・高岡両市を中心に富山テクノポリスに指定され,先端技術産業が進出している。

 一方,江戸時代以来の歴史をもつ伝統工業が各地で行われている。高岡市の鋳物・銅器(仏像,仏具,梵鐘(ぼんしよう)など)・捺染(なつせん),南砺市の旧城端(じようはな)町の羽二重,高岡市・魚津市・旧城端町の漆器,富山市の旧八尾(やつお)町,五箇山(ごかやま)の和紙,高岡市の旧福岡町の菅笠,南砺市の旧井波町の木彫(欄間,獅子頭),砺波市の旧庄川町の木製品(盆,菓子器)などがそのおもなものである。とくに反魂丹(はんごんたん)などの名で古くから全国に知られ,富山市,滑川市を中心に行われてきた家庭配置薬は,今日でも昔ながらの先用後利の伝統を持続しながら,和漢薬に現代医薬を取り入れて,県経済に重要な位置を占めている。

 県内最初の鉄道は1897年,福野~黒田(高岡市南郊)に開通した民営の中越鉄道(現,JR城端線の一部)である。北陸本線は98年に石川県金沢市方面から高岡まで開通し,翌年には富山まで延長された。北陸本線が親不知トンネルの開削によって全線開通し,信越本線に接続したのは1913年のことである。高山本線は34年に開通した。私鉄は呉東を中心に富山地方鉄道,呉西を中心に加越能(かえつのう)鉄道(2008年現在,すべてバス事業)が地方交通の需要に応じている。道路の大動脈は県域を東西に走る国道8号線で,これを軸として南北に通じる41号,156号,160号線などがある。滋賀県米原(まいはら)市と新潟市を結ぶ北陸自動車道(1996年現在の開通区間は米原~新潟県亀田)が通じている。また富山空港と東京,札幌,名古屋,大阪,福岡などとの間に定期便が就航している。

 富山県には山岳と渓谷の自然美に加えて,長い歴史を伝える史跡が数多く分布している。東部の飛驒山脈一帯は中部山岳国立公園となり,薬師岳の圏谷群(特天),立山の山崎圏谷(天)の氷河遺跡もみられる。山地を立山連峰と後立山連峰に二分して北流する黒部川は日本一深い黒部峡谷(特名・特天)を形成している。立山連峰の主峰立山は,平安時代にさかのぼる開山の歴史をもつ信仰の山であるが,立山黒部アルペンルートが1970年に開通して観光客の多い山となった。また庄川上流の五箇山は,平家の落人集落の伝説をもつ隔絶山村で秘境の感が強かったが,最近では国道も整備され,多数の観光客が訪れている。

県域は富山平野のほぼ中央を南西から北東にのびる呉羽丘陵によって,それより以東の呉東,以西の呉西とに二分される。呉東,呉西の呼称は,昭和初期から地理学の分野で使用されたものが一般化したとされる。

 呉東は富山市を中心に,滑川,魚津,黒部の3市と中新川,下新川市の2郡の全域を含み,県面積の65%,県人口の57%を占め,人口密度は呉西より低い。一方,呉西は準県都の高岡市を中心に,射水,氷見(ひみ),小矢部,砺波,南砺の5市を含み,県面積の35%,県人口の43%を占める。産業別人口構成では,両地域とも米作農業を基幹としながらも,呉西がより工業化し,呉東は公務・サービス業の比重が高い傾向がみられる。

 呉西は奈良時代,伏木に国府が置かれ,また東大寺の荘園が設けられるなど古くから開発が進められてきた。とくに砺波平野は江戸時代,加賀藩の穀倉地帯として藩内で最も豊かな農村地帯であった。〈北陸の大阪〉と呼ばれ,かつては富山市をしのぐ経済力を有した高岡市は,このような豊かな後背地を商圏としてかかえながら発達してきた。一方,呉東の扇状地は,今日でこそ水田化率全国第1位を誇る穀倉地帯であるが,かつては荒蕪(こうぶ)の地で,開発が進められたのは江戸時代以降のことである。しかも山地から流出する融雪水のため灌漑水源の河川の水温が低く稲の生育がさまたげられ,生産性はきわめて低かった。生産性が飛躍的に増大したのは,第2次大戦後,流水客土工事が行われてからである。このような歴史的・風土的な違いはそれぞれの地域特有の住民意識を生み,一面では競争心が相互の発展を促進してきたが,ときには必要以上の対抗意識が弊害を生むこともあった。しかし近年の交通の発達,著しい都市化による両地域の一体的発展,住民意識の均質化によって,呉東・呉西という地域区分の意義はしだいに失われつつある。
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富山[市] (とやま)

富山県中央部の市で県庁所在都市。2005年4月旧富山市と大沢野(おおさわの),大山(おおやま),婦中(ふちゆう),八尾(やつお)の4町およに細入(ほそいり),山田(やまだ)の2村が合体して成立した。人口42万1953(2010)。

富山市中南部の旧町。旧上新川(かみにいかわ)郡所属。人口2万2642(2000)。神通(じんつう)川が飛驒山脈から富山平野に流れ出る谷口に位置する。北部は段丘化した扇状地が占め,南部は神通川東岸の飛驒山脈北縁にあたる山地が占める。中心地の笹津は谷口集落で,飛驒街道の宿場町として発達,南北7kmに及ぶ街村がみられる。江戸時代中期に神通川から取水する用水路の開削が始まり,後期に新田開発が進んだが,扇状地一帯が水田化したのは昭和初期である。明治末期から神通川の電源開発が進められ,高山本線の開通とあいまって,安価な余剰電力と農村労働力を利用した炭素電極,紡績などの工場が昭和初期に立地した。第2次世界大戦後は国道41号線沿線に工場が進出した。近年は旧富山市への通勤者が増えている。上流の神岡鉱山の排水によって水田土壌が重金属で汚染され,イタイイタイ病の被害を受けた。

富山市東部の旧町。旧上新川郡所属。人口1万1652(2000)。町域の大部分は常願寺川,黒部川の源流部の山地で,飛驒山脈を境に長野県,岐阜県と接する。中心集落の上滝は常願寺川の谷口に位置する市場町として発達した。富山地方鉄道立山線が通じ,付近には曹洞宗の名刹(めいさつ)大山寺や遊園地がある。常願寺川西岸の扇状地は水田になっている。常願寺川の支流和田川上流には有峰ダム(有峰湖)が建設され,水力発電所も多い。有峰湖周辺の観光開発が進められ,町内には極楽坂,粟巣野などのスキー場がある。薬師岳の圏谷(カール)群は特別天然記念物。
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富山市北部の旧市で,県庁所在都市。富山湾に臨む。1889年市制。人口32万5700(2000)。県の政治・経済・文化の中心をなす。市域は富山平野のほぼ中央にあり,神通川と常願寺川の形成する複合扇状地と西側の呉羽(くれは)丘陵からなる。中心市街地は,近世には富山藩の城下町として栄えたところで,北陸街道と飛驒街道の分岐点にあたる交通の要衝でもあった。鉄道は1899年北陸本線富山~敦賀間,1934年高山本線が開通して分岐点となり,関西,中京とのつながりが強められた。富山地方鉄道やJR富山港(現,富山ライトレール富山港線)線も通じ,周辺からの通勤・通学客も多い。かつて市域を迂回していた神通川の洪水に古くから悩まされてきたため,明治末期から河道を直行させる工事が行われた。大正から昭和にかけて河道の埋立てが行われ,旧河道は県庁を中心とする都市機能の集中する地域として整備された。また埋立てに要した土砂は東岩瀬港(現,富山港)から北陸本線富山駅北まで神通川の東岸に並行する富岩(ふがん)運河(1934完成)を掘ることによってまかなう方法をとったため,この運河が旧富山市の工業立地に大きな役割を果たすことになった。

 昭和初期から本格的な工業立地が始まり,化学,アルミニウム,パルプ,合金鉄などの近代工業が進出した。1935年ころから満州(中国東北)との貿易が盛んとなり,近世に西廻海運の寄航地であった富山港は,第2次大戦中にも富山港と富岩運河沿いに北部工業地域の形成が進められたが,空襲により市街地の大部分を消失し,戦後新しい都市計画により近代都市として再生した。富山港はその後整備されて,伏木港(現,高岡市),富山新港(現,射水市)とともに1968年に指定された特定重要港湾伏木富山港の一部として発展した。95年現在,化学,一般機械,輸送用機械などの工業が盛んで,日本海沿岸屈指の工業都市となった。近世以来の歴史をもつ反魂丹(はんごんたん)などの家庭配置薬にもとづく製薬工業は,今も重要な位置を占める。富山城跡公園,藩校広徳館跡,藩主前田家歴代の墓所長岡廟所,呉羽山公園などがある。北陸自動車道が通じ,南郊に富山空港がある。
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地名の初出は1398年(応永5)の〈吉見詮頼寄進状〉で,富山郷とみえる。戦国動乱の中で戦略上の要所となり,永正(1504-21)のころ水越越前守勝重が築城したという。のち神保氏,また佐々成政が居城,1587年(天正15)以来,前田利長が支配したが,1609年(慶長14)に焼失した。当時,北陸街道は神通川を舟橋村から富山町の小島町に渡り,片原町を経て柳町に抜けており,城下町は北陸街道に沿って展開していた。39年(寛永16)に加賀藩主前田利常の子利次が富山藩10万石を分藩された。利次は加賀藩の富山城を借城し,59年(万治2)に分散していた土地を富山町辺の新川郡と替地し,翌年より富山町を藩都とし,61年(寛文1)富山城を修築し,城下を本格的に再編成した。富山町の南限に北陸街道を移し,その南西部に武家町,南東部に寺町を,富山城の東に町人町を置き,本町35町,田地方町29町,舟橋向8町に区分した。そして加賀藩時代の経済体制からの脱却をはかった。数万俵の瀬戸内塩,能登塩を取り扱う塩問屋を金沢町人から富山町人の手に移し,修験道売薬を差し止め,反魂丹を主とする富山町人による商業売薬を始めて富山売薬の基礎をつくり,繰綿,藍玉をはじめ各種の営業特権を富山町人に与えていった。富山は陸海交通の要所で,飛驒街道を分岐し,また神通川に面する木町舟方は早くから栄えていた。

 町政は富山町奉行のもとに町年寄,町肝煎と各町ごとの町頭が担当した。町方人口は1676年(延宝4)に1万6210人,1810年(文化7)に2万7388人となる。家中人口は1676年に7700人,1810年に6840人であった。
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富山市北西部の旧町。旧婦負(ねい)郡所属。人口3万4528(2000)。神通川下流西岸にあり,神通川とその支流井田川の扇状地を占め,西部は丘陵地である。中心集落の速星(はやほし)は,1927年の飛越線(現,JR高山本線)開通と,それを契機とした翌28年の化学肥料工場の進出により急速に発展した。水利に恵まれる平地は米作主体の農業が行われるが,近年は隣接する旧富山市の近郊住宅地化が進んでいる。丘陵地帯に王塚古墳(史)をはじめとする古墳群や木造十一面観音立像(重要文化財)を有する常楽寺などがある。神通川から取水し,灌漑していた地区を中心に,第2次大戦後イタイイタイ病が発生し,多くの犠牲者を出した。

富山市南部の旧村。旧婦負郡所属。人口1923(2000)。神通川中流西岸にあり,飛驒高地北縁部の山地にある。飛驒街道(現,国道41号線)の難所で,江戸時代には猪谷(いのたに)に富山藩の関所が置かれていた。楡原(にれはら)を中心とする北部は日蓮宗が,猪谷を中心とする南部は禅宗が盛んで,地域性がみられる。第2次大戦後,神通川の電源開発工事と国道の改修工事が行われ,土木工事の日雇稼ぎは村民の生活を変えた。神通川の峡谷には三つのダムがあり,一帯は神通峡とよばれる景勝地である。神通川に沿ってJR高山本線,国道41号線が通じ,旧富山市への通勤者がふえている。なお猪谷の背斜・向斜は天然記念物。

富山市南西部の旧町。旧婦負郡所属。人口2万2322(2000)。神通川の支流井田川の上流域,飛驒高地北縁の山地が富山平野に接するところにある。中心集落の八尾は井田川の河岸段丘上にある谷口集落であったが,1636年(寛永13)真宗聞名(もんみよう)寺の門前町として町立てされた。毎月2・5・8の日に九斎市が立ち,婦負地方の中心であった。富山売薬の包装に用いられた八尾和紙の製造も売薬の普及とともに盛んになった。町域の8割は山林であるが,米作,野菜栽培が行われ,1960年の機械工業センター誘致後は工業開発も進んでいる。毎年9月1~3日は〈風の盆〉といい,この地発祥の《越中おわら節》が歌われ,町中総出で盆踊が行われる。八尾和紙は民芸品として現在もつくられる。JR高山本線が通じる。

富山市西端の旧村。旧婦負郡所属。人口2037(2000)。飛驒高地から続く山地が大部分を占め,中央を神通川の支流山田川が北流する。近世には加賀藩領を経て,1639年(寛永16)以後は富山藩領であった。宿坊(すくぼう)は南方の金剛堂山への修験者の宿坊が近世にあった地である。第2次大戦後,人口流出が著しく,25あった集落のうち4集落が廃村となった。1962年から県営事業により開田が進められたが,土木工事の日雇いが主な収入源であった。過疎対策として牛岳山麓に村営スキー場がつくられている。中心集落である湯付近に山田温泉(食塩泉,45~47℃)がある。
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富山(千葉) (とみやま)

富山(愛知) (とみやま)

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日本歴史地名大系 「富山」の解説

富山
とみやま

三浦みうら集落の東、桃生ものう鳴瀬なるせ上下堤じようげつつみとの境にあり、松島丘陵の南端にあたる。標高約一一七メートル。「塩松勝譜」の著者舟山万年が選んだ松島四大観の一。湾の北東に位置し、湾内の佳景に南面する利点とその大観はつとに知られ、大淀三千風・佐久間洞巌・橘南谿ら、舟山万年に先んじてこれを紹介したものは少なくない。頂上に大仰だいぎよう寺があり、そこからの景観を「仙台領遠見記」は「客殿より海上を詠むる景又松島にもこへたり。遠門より寺迄四丁程急成坂也。客殿の西南東麓より松島・塩釜・宮城・高城・深谷浜々島々目の下に見ゆる。遠くハ国分・名取郡の山々、相馬のうのふか崎、牡鹿の遠島残なく、見越に見ゆる所ハてまへの山低く遠きハ絶景なり」と述べている。

富山
とみやま

応安八年(一三七五)三月二三日の島津氏久挙状写(志々目文書)に、富山彦五郎義弘が室町幕府に安堵を申請した島津庄日向方なかん郷内の所領として、富山が安久やすひさ名・和里木わりき名・秋永あきながなどとともにみえる。島津庄庄官である中郷弁済使富山氏の本貫の地と目され、富山氏の系譜を伝える志々目家系図(同文書)には、中郷弁済使と注記される富山宗義の孫たちの名字に富山・長谷・禰寝・手塚がみえる。富山氏は藤原姓で義を通字とした。康永四年(一三四五)三月五日の梅北うめきた貴船社の棟札(庄内地理志)にみえる「藤原散位義□」は富山氏の可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富山」の意味・わかりやすい解説

富山
とみやま

千葉県南部,南房総市北部の旧町域。房総丘陵西端に位置し,西は浦賀水道に面する。 1955年岩井町と平群村が合体して富山町が成立。 2006年富浦町,三芳村,白浜町,千倉町,丸山町,和田町と合体して南房総市となった。地名は『南総里見八犬伝』の舞台富山に由来する。中世は里見氏の所領。近世は江戸幕府直轄地。大部分は丘陵地で,海岸は海水浴場に適し,民宿が多い。特に岩井海岸は臨海学校に利用され,海岸一帯は南房総国定公園に属する。ビワ,花卉,野菜を栽培し酪農も盛ん。内陸部の富山,伊予ヶ岳を中心とした地域は富山県立自然公園に指定。

富山
とみやま

愛知県北東端,豊根村北東部の旧村域。天竜川を境に静岡県に隣接。 2005年豊根村に編入。 1935~55年の間に約 40戸が渥美半島へ移住し,佐久間ダム (→佐久間湖 ) の建設で中心地区が水没したため全人口のおよそ3分の1が豊橋市の高師原天伯原へ移住した。耕地は少ないが雨量が多く,スギを中心に林業が行なわれる。天竜奥三河国定公園に属する。

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世界大百科事典(旧版)内の富山の言及

【越中国】より

…旧国名。現在の富山県全域にあたる。
【古代】
 北陸道に属する上国(《延喜式》)。…

【越中国】より

…旧国名。現在の富山県全域にあたる。
【古代】
 北陸道に属する上国(《延喜式》)。…

【東岩瀬】より

…越中国新川郡(現,富山市),神通川河口右岸の地名。古代からの交通の要所で,《延喜式》に磐瀬駅が見えるが,東岩瀬の初見は1572年(元亀3)。…

【水橋】より

…越中国(富山県)新川郡,常願寺川河口の港町。《延喜式》に水橋駅が見え,古くから渡河点として北陸道の要衝であった。…

※「富山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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