富岡鉄斎(読み)トミオカテッサイ

デジタル大辞泉 「富岡鉄斎」の意味・読み・例文・類語

とみおか‐てっさい〔とみをか‐〕【富岡鉄斎】

[1837~1924]日本画家。京都の生まれ。名は猷輔、のち百錬。国学儒学を修め、幕末は勤皇学者として国事に奔走。維新後は絵画に専念。南画明清みんしん大和絵などを研究。水墨画に独自の画境をひらく。作「不尽山頂全図」「蓬莱仙境図」など。

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精選版 日本国語大辞典 「富岡鉄斎」の意味・読み・例文・類語

とみおか‐てっさい【富岡鉄斎】

幕末から大正時代にかけての南画家。京都の人。名は猷輔、のち百錬。青年時代大田垣蓮月に学僕として仕える。儒学・国学・仏典・詩文など和漢の学を修め、また、湊川神社石上神宮・大鳥神社の宮司となる。絵は大和絵に明清の画風を取り入れ、特に水墨画に独自の画風をひらき、文人画の本領をよく伝えている。帝室技芸員。帝国美術院会員。代表作「不尽山頂全図」「蓬莱仙境図」。天保七~大正一三年(一八三六‐一九二四

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改訂新版 世界大百科事典 「富岡鉄斎」の意味・わかりやすい解説

富岡鉄斎 (とみおかてっさい)
生没年:1836-1924(天保7-大正13)

日本の文人画の最後の代表的作家。京都に住み,詩文に通じ,書を能くした。その画業は風景,花鳥,人物などを描き,みずから〈古人の筆意を学んで,人格で画をかく〉(《書画叢談》)と称した。生涯多作(小品を含めての絵画は2万点以上といわれる),晩年に至って,水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し,近代日本の芸術家としても傑出する。梅原竜三郎は,将来の日本美術史が〈徳川期の宗達,光琳,乾山とそれから大雅と浮世絵の幾人かを経て,明治・大正の間には唯一人の鉄斎の名を止めるものとなるであろう〉といった。

 鉄斎は,京都の法衣商十一屋伝兵衛富岡雅叙の次男として生まれた。名は猷輔,後に百錬,字は無倦(むけん)。鉄斎のほかにも鉄崖,鉄史の号がある。幼にして国学を大国隆正に,漢学を岩垣月洲に学び,後に陽明学春日潜庵に,詩文を叡山の僧羅渓慈本に学んだ。絵は大角南耕,窪田雪鷹,小田海仙(文人画),浮田一蕙(大和絵)に就いたが,特定の師の系統をひくというのではない。文人画,大和絵,円山派,琳派,浮世絵などの諸派の作品から取るものを取って,独学工夫したといえるだろう。明清の諸家の影響は,おそらく大きい。西洋画の直接の影響はほとんどまったくない。

 1855年(安政2),19歳で,大田垣蓮月尼と北白川の雲居山心性寺に同居し,蓮月尼の製陶の手助けをしたことがある。その20歳代,幕末の動乱期には,いわゆる〈勤王の志士〉たちとの交際の範囲が広かった。30歳代から40歳代の前半にかけて,明治初期の鉄斎は,全国を旅行し,結婚して,最初の妻の急死ののち再婚し,離別し,三度結婚し,いくつかの神社の宮司となり,《称呼私弁》(1869)などの著作を出版すると同時に,その画業をつづけていた。45歳のとき(1881)に兄伝兵衛が死に,大阪の宮司の職を辞して京都に帰り,上京区室町通一条下ル薬屋町に住んで,その後は読書と書画の制作に専念する。南画協会の創立(1896)に参加,多くの展覧会の審査員となり,また帝室技芸員(1917),帝国美術院会員(1919)でもあった。しかし自作の展覧会への出品は,南画協会の場合を例外として他にはほとんどない。新日本画(狩野芳崖から横山大観まで)や油絵に対抗して,伝統的文人画を擁護したといえる。1924年12月,88歳で急逝。寺町四条下ル大雲院にて葬儀,富岡家墓地に葬る。法名は無量寿院鉄斎居士。

 絵は60歳以後,ことに80歳以後に妙味を加え,成熟して,独特の世界をつくり出した。その画題は,明清画の伝統に従い,風景にしても人物にしても,中国の古典に材をとることが多い。しかしそこにも個人的な好みはあらわれていて,儒・仏・老荘の三教一致の立場をとった鉄斎は,好んで釈迦,観音,達磨,孔子,老子を併せて描き,また道教的桃源境の図を多く作った。また実景を写実的に描くこともあり,たとえば富士は,ことに好んだ題材である。円熟した時期の画面の構成は,とりわけ風景画において,余白を残さず,近景から遠景へ重畳して隈なく書きこむことを特徴とする。その迫力は,洒脱の味からもっとも遠く,むしろ西洋の近代絵画に近い。たとえば《旧蝦夷風俗図》(1896,東京国立博物館)の大画面は典型的である。水墨の筆法は,薄い墨で山や水や樹木を描き,そこに濃い墨を加えて,律動感をつくり出す。濃墨は描写的にも用いられるが,また描写を離れて,抽象的表現主義的な効果のためにも用いられる。たとえば《東瀛神境図》(1915,清荒神清澄寺)。水墨のこのような用法は,大雅にも,石濤にも,みられないわけではない。しかし鉄斎は,はるかに徹底して,水墨の抽象的表現主義を追求し,独創的な画面をつくった。また色彩家としても,中国日本の伝統的な画家のなかで際立つ。たとえば《聚沙為塔》(1917,清荒神清澄寺)にみるように,緑,紺青,朱,金泥の配合は,墨の明暗と相まって,まさに抜群の色感を示す。近代日本において,油絵の影響を受けることもっとも少なかった鉄斎は,伝統的材料と手法とを駆使して,筆勢においても色感においても,西洋の油絵の傑作にもっとも近い画面をつくり出した。

 鉄斎の評価がきわめて高くなったのは,日本国内でも,国外でも,主として第2次大戦後である。梅原竜三郎や中川一政,美術史家ケーヒルJames Cahillや画家ビニングB.C.Binningは,鉄斎を世界美術史上の天才とし,しばしばセザンヌと比較した。作品は多く宝塚の清荒神清澄寺にあつめられ,鉄斎美術館が設けられている。その蒐集は,主として,鉄斎に師事した清澄寺法主坂本光浄による。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富岡鉄斎」の意味・わかりやすい解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい
(1836―1924)

近代の巨人的日本画家。天保(てんぽう)7年12月19日、京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれる。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字(あざな)は無倦(むけん)。号は初め裕軒(ゆうけん)のちに鉄斎、ほかに鉄崖(てつがい)、鉄道人がある。山本園(やまもとばいえん)に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を、岩垣月洲(いわがきげっしゅう)に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺(しんしょうじ)に太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の学僕として住み込み、その薫陶を受けて春日潜庵(かすがせんあん)に陽明学を学び、梅田雲浜(うめだうんぴん)の講義を聴く。また頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、板倉槐堂(いたくらかいどう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)、山中信天翁(やまなかしんてんおう)らと交際するなど、幕末動乱のなかで勤皇思想に傾倒し、国事に奔走する青年期を過ごした。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮(いそのかみじんぐう)、和泉(いずみ)の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念、徐々に画名も高まっていった。

 画(え)は19歳のころ大角南耕、窪田雪鷹に南画の手ほどきを受け、長崎旅行(1861)の際、木下逸雲(きのしたいつうん)や鉄翁に画法を問うたりもしたが、ほとんど独学である。南画や明清画(みんしんが)、大和絵(やまとえ)などの諸派の研究、また写生をその基礎に独自の画風をつくりあげたが、特色とするところは、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水墨画風のものにあり、多く晩年に傑作を残している。活発になった明治画壇で、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は南画協会、後素如雲社展(こうそじょうんしゃてん)以外は出品せず、自適の生活のうちに在野の学者としての態度を貫いた。「万巻の書を読み、万里の道を行く」文人哲学を指標に、博学多識、稀覯(きこう)の書の収集家としても聞こえた。1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員に任ぜられている。大正13年12月31日京都に没。代表作に『不尽山全頂図(ふじさんぜんちょうず)』『安倍仲麿明州望月図(あべのなかまろめいしゅうぼうげつず)』『旧蝦夷風俗図(きゅうえぞふうぞくず)』などがあり、『小黠大胆図(しょうかつだいたんず)』のような小品にも優れたものを残した。宝塚(たからづか)市の清荒神(きよしこうじん)内に鉄斎美術館がある。

[星野 鈴]

『小高根太郎著『富岡鉄斎』(1962・平凡社)』『小林秀雄他著『富岡鉄斎』(1965・筑摩書房)』『青木勝三編『富岡鉄斎』(1971・至文堂)』『小高根太郎著『現代日本美術全集1 富岡鉄斎』(1973・集英社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富岡鉄斎」の意味・わかりやすい解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい

[生]天保7(1836).12.19. 京都
[没]1924.12.31. 京都
江戸時代末期~大正の代表的南画家。京都三条の法衣商,十一屋伝兵衛の次男。通称は猷輔。名は道節,のち百錬。字は君 筠。幼少から国学,漢籍,陽明学,画事を習い,安政2 (1855) 年頃歌人太田垣蓮月尼の薫陶を受けた。万延1 (60) 年鉄斎の号を用い,翌年長崎へ行って海外の情勢を探る。文久2 (62) 年帰京して聖護院村に私塾を開き,志士の藤本鉄石,平野国臣らと交わって,『孫呉約説』ほかを出版。明治維新後は,神社の復興を念願して石上 (いそのかみ) 神社少宮司,大鳥神社大宮司として献身的に尽力し,鉄史,鉄崖と号した。 1881年以降は京都に定住して学者,画家としての生活を続け,おりにふれ日本各地を旅行,『旧蝦夷風俗図』 (96,東京国立博物館) などを描く。その鮮麗な色彩と個性的で奔放な筆線は,晩年になるほど円熟した。なお絵をもって説法することを考えて画賛に凝り,古今東西の書物から引用して,独特の書体で書いた。帝室技芸員,帝国美術院会員などを歴任。主要作品『山荘風雨図』 (1912頃) ,『阿倍仲麿明州望月図』 (14,重文) ,『蘇子会友図』 (21) ,『蓬莱仙境図』 (24,清荒神清澄寺) ,画集『貽咲 (いしょう) 墨戯』 (23) ,『水墨清趣図』 (24) 。

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百科事典マイペディア 「富岡鉄斎」の意味・わかりやすい解説

富岡鉄斎【とみおかてっさい】

幕末〜大正の南画家。京都生れ。本名百錬。号は鉄斎のほか鉄人,鉄史など。国学,儒学,仏典を学び,勤皇派の志士と交わり,明治以後諸神社の宮司を勤めた。絵は特に師につかず,初め大和(やまと)絵,中期以降中国文人画の手法を学び,国内各地を旅行して独自の画境を形成。豊かな感覚と気力のあふれた奔放な画風は近代日本画のなかでも特異なもので,国際的にも高く評価されている。作品に《武陵桃源》《瀛洲(えいしゅう)神境図》《不尽山頂全図》《赤壁図》など。兵庫県宝塚市に鉄斎美術館がある。
→関連項目富田渓仙

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富岡鉄斎」の解説

富岡鉄斎 とみおか-てっさい

1837*-1924 明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)7年12月19日生まれ。国学,漢学,仏教,詩文をまなぶ。勤王家とまじわり,維新後,各地の神社の宮司となる。明治14年郷里の京都にかえり,読書と画業に専念。自由奔放で独自な文人画の世界をきりひらいた。帝室技芸員,帝国美術院会員。大正13年12月31日死去。89歳。名は猷輔,百錬。字(あざな)は無倦(むけん)。別号に鉄崖,鉄史。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。
【格言など】画家も長生きしなければいいものは描けない。このごろになって,どうやら思うような絵が描けるようになった(死の直前のことば)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富岡鉄斎」の解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい

1836.12.19~1924.12.31

明治・大正期の南画家。京都生れ。石門心学・国学・漢学・陽明学など幅広く学問を修め,大田垣蓮月の感化もうけた。小田海僊(かいせん)・浮田一蕙(いっけい)を訪ねて絵画制作を始め,明・清画に接して文人画を描く。幕末には勤王派として奔走。維新後は立命館の教員,神社の宮司などをへて,1881年(明治14)隠棲。以後文人生活をし,南画壇の中心的存在となった。京都市立美術工芸学校の修身担当教員,帝室技芸員,帝国美術院会員。代表作の「安倍仲麻呂明州望月」「円通大師呉門隠棲」は重文。

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旺文社日本史事典 三訂版 「富岡鉄斎」の解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい

1836〜1924
明治・大正時代の南画家
京都の生まれ。平田派の国学・漢学を学び,幕末志士と交わり,1876年,一時石上神宮などの神官をつとめる。京都に帰り,のち独学で独自の画風を大成。展覧会に一度も公表しなかったが,南画派の中心的存在となる。代表作に『武陵桃源図』など。

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