富田林市(読み)トンダバヤシシ

デジタル大辞泉 「富田林市」の意味・読み・例文・類語

とんだばやし‐し【富田林市】

富田林

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「富田林市」の解説

富田林市
とんだばやしし

面積:三九・六七平方キロ

大阪府南東部に位置し、東は南河内郡太子たいし町・河南かなん町・千早赤阪ちはやあかさか村、西は同郡美原みはら町・狭山さやま町、南は河内長野市、北は羽曳野はびきの市に接する。地形的には南高北低で、金剛山地西麓の東部山地、羽曳野丘陵南東部の西部山地、および両山地の間を流れる石川中流域の中央低地の三地域からなる。南北に国道一七〇号と近鉄長野線が縦断し、東西に国道三〇九号が通る。市名は当地域の中心であった富田林村・富田林町に由来。

〔原始〕

石川によって形成された河岸段丘や台地部から発展してきたと思われ、石川西岸の河岸段丘上にある新家しんけ遺跡からは、先土器時代と考えられるナイフ形石器・有舌尖頭器などが検出された。同じく段丘上の錦織にしごり遺跡からは縄文土器・石鏃などが出土、錦織南にしごりみなみ遺跡からは縄文晩期の土器が多数出土し、藤井寺市の国府こう遺跡との関係が考えられる。だけ(二七八メートル)南東麓には嶽山だけやま遺跡があり、石川支流の佐備さび川上流にある佐備川さびがわ遺跡と時期的に同じで、縄文時代以来の生活がこの丘陵にも及んでいたことが知られる。弥生時代の遺跡には、石川河岸段丘上に竪穴住居跡を中心とする甲田南こうだみなみ遺跡があり、ほかに喜志きし遺跡・中野なかの遺跡などがある。両遺跡はともに石器製作にかかわる遺跡として注目される。古墳は大規模なものは存在しないが、古墳前期のものに羽曳野丘陵東縁の鍋塚なべづか古墳・真名井まない古墳・廿山つづやま古墳、中期から後期にかけては石川東岸の彼方丸山おちかたまるやま古墳、羽曳野丘陵上のひら古墳群、佐備丘陵の板持いたもち古墳群などがある。羽曳野丘陵東端近くのお亀石かめいし古墳は、主体部が横口式家形石棺の前方に羨道を付した形のもので、横穴式石室から石棺式石室への過渡期の姿を示し、宮前山みやぜんやま古墳群とともに石川上流域の終末期古墳を考えるうえで重要である。

〔古代〕

河内国南部の石川・錦部にしごり両郡の各一部が市域にあたり、「和名抄」に載る郷のうち、石川郡佐備郷・紺口こんく郷・新居にいい郷、錦部郡百済くだら郷が市域に比定される。従来錦部郡錦部郷は近世の錦部村一帯を中心とする当市域に比定されてきたが(日本地理志料)、錦部村一帯は百済郷とする見解が有力である。市域に関係の深い氏族としては、錦部連・大友史・板茂連などの渡来系氏族や、紺口県主・蘇我氏などが考えられる。佐備川上流の竜泉りゆうせん寺は蘇我氏の建立と伝え、石川西岸の新堂しんどう廃寺(奈良時代前期)の存在も注目される。同じ丘陵にある御観寺池おかんじいけ窯跡で製作された瓦は、新堂廃寺に使用されていた。古代の寺院跡としては奈良時代前期の細井ほそい廃寺跡、平安時代中期の錦織寺跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富田林市」の意味・わかりやすい解説

富田林〔市〕
とんだばやし

大阪府南東部,大和川の支流石川中流域の市。 1950年市制。西部は羽曳野丘陵,東部は河谷平野で,中心市街地は石川左岸の河岸段丘上に位置。永禄3 (1560) 年証秀上人が一向宗興正寺を開基,寺内町として発達した。街路形態や寺院建築に面影が残存している。工業は石川の伏流水を利用した醸造業のほかは,在来のクリスマス装飾用のグラスボールや竹すだれに代り,織物,メリヤス,発電機,化学工業などが主流になっている。丘陵部ではミカン,平地ではナス,一寸ソラマメを産する。羽曳野丘陵にはPL教団の宗教地区があり,金剛団地など宅地開発も進んでいる。南朝ゆかりの楠妣庵,日本三大不動の一つ滝谷山明王寺などがある。龍泉寺庭園は名勝。国道 170号線が市域を縦断,新家インターチェンジを通じて国道 309号線に連絡。近畿日本鉄道長野線が通る。面積 39.72km2。人口 10万8699(2020)。

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