寛政改革(読み)かんせいかいかく

改訂新版 世界大百科事典 「寛政改革」の意味・わかりやすい解説

寛政改革 (かんせいかいかく)

江戸後期の幕政改革。享保,寛政,天保の三大改革の一つ。1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。

寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。1783-86年に続発した天災,飢饉(天明の飢饉)は,農村の荒廃にいっそうの拍車をかけ,都市に流入する離村農民が顕著にみられた。農村は領主財政の基盤であったため,年貢収入の激減により幕府財政は極度に窮迫した。都市の社会秩序もまた,この時期に大きく動揺した。田沼の重商主義的な政策に便乗した商人の物価つり上げに苦しむ生活困窮者や,都市に流れ込む没落貧農の増加により,都市下層貧民層が急速に増大した。彼らは,米穀買占めなどの不正が行われたり,飢饉により米価が極端に高騰したりすると,たちまち都市打毀(うちこわし)の主体勢力となった。天明期は,百姓一揆とともに,都市打毀の前代未聞の激発期でもあった。田沼時代の末期には,領主階級の内部もさまざまな矛盾を露呈した。賄賂による役人の出世が横行したため,出世からはずれた無役や下級の幕臣たちの中には,為政者としての自覚を喪失する者が多くなった。いわゆる士風の退廃である。また伝統的な重農政策を幕政の基本とすべきことを主張する門閥譜代大名層と,新参成り上がりの田沼意次を支持する大名層との対立も顕在化し,幕府の権威は著しく低下した。

寛政改革は,以上のような幕藩体制の全構造的危機を打開するために要請されたのである。本百姓体制の再建,都市社会秩序の再編,大名・旗本の統制強化の実現を通じて,幕府権威の回復と階級闘争の鎮静化をはかり,究極的には幕府財政を再建することが改革の課題であった。白河藩主松平定信は,御三卿の田安宗武の子つまり8代将軍徳川吉宗の孫という毛並みのよさと,天明大飢饉をみごとに乗り切った白河藩政の実績をかわれ,1787年6月に老中首座に就任,改革政治に着手した。定信は翌88年3月,若年の11代将軍家斉の補佐役をも兼ねることになり,改革遂行の実権を完全に掌握した。まず人事の刷新を行い,田沼期以来の老中を解任し,かわって松平信明(のぶあきら),松平乗完(のりさだ),本多忠籌(ただかず),戸田氏教ら定信と志を同じくする大名を次々に老中に登用した。不正役人を厳罰に処したり,うずもれた人材を抜擢するなど,旗本の人事も大幅に刷新し,諸役人の綱紀を粛正した。また改革政治の実務を担う諸役人が,経済的に困窮していては,再び不正を生む余地が生じるので,彼らの札差からの借金を棒引きにする札差棄捐(きえん)令を発し,旗本の困窮財政の救済をはかった。

 大名・旗本に対する幕府の権威回復も,改革の主要な課題であった。そのため,彼らに先祖書の提出を命じ,各家の歴代将軍に対する忠誠度を改めて確認させた。なおこの先祖書の提出は,大名・旗本の系図集である《寛政重修諸家譜》の編纂事業の契機となった。改革政治は,松平定信の強力な指導のもとに推進されたが,政策の決定にあたって定信は,かならず御三家の尾張,紀伊,水戸と御三卿の一橋に対して意見をもとめている。このような御三家,御三卿の幕政への参加も,幕府権威の回復にきわめて有効に作用したと思われる。

寛政改革の農村政策は,まず天明の飢饉により荒廃した農村を復興し,本百姓体制を再建することであった。具体的には,農業人口の回復増加と耕地面積の復旧拡大を目ざした。そのため,夫食(ぶじき),農具代の恩貸とその返済猶予令,他国への出稼ぎ制限令,江戸に流入した農民に対する旧里帰農奨励令などを発した。また飢饉対策として備荒貯穀を奨励し,村々に籾蔵を設置した。さらに〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉という名目の公金貸付けを実施している。これは諸国代官を通じて豪農層に利子1割前後で貸し付けられ,その年々の利金が耕地の復旧(荒地起返)や,農業人口の増加(小児養育)のための資金に活用された。このほか助郷村々助成手当とか用水普請助成手当などの名目の公金貸付けをさかんに行うなど,幕府は農政のなかに金融政策を積極的に導入した。この公金貸付政策の特色は,公金を借り幕府にその利金を年々納める豪農層の存在を前提にしている点である。このように寛政改革の農村政策は,推進の基盤を豪農層が担っていた。

 次に商業・金融政策であるが,米価をはじめとする諸物価の平準化をはかるため,米穀や貨幣の相場操作の実権を,商人の手から幕府の側に取り戻すことを改革の基本方針とした。しかし相場を操作するためには,それ相当の資金を必要としたが,当時の幕府にそうした財政的余裕はなかった。そこで幕府は,江戸一流の豪商のなかから10名を選んで勘定所御用達に任命し,必要に応じて彼らの大きな資本とすぐれた商業手腕を利用することとした。事実,寛政改革の米価調節策は,この勘定所御用達と結託して推進された。1789年には低落した米価を引き上げるため,91年には高騰した米価を引き下げるため,それぞれ勘定所御用達に出金,買米を命じている。幕府は銭相場の引上げ策など貨幣政策についても,勘定所御用達に意見を徴しており,その財力のみならず,すぐれた商業知識にも依存することが多かった。また札差棄捐令により,118万両余にものぼる債権棄捐という大打撃をうけた札差を救済するため,幕府は猿屋町会所を設置し,この会所から札差に融資をすることとした。この会所資金の大半は,勘定所御用達の出資金によって賄われ,しかも貸付事務など会所の運営までもが,勘定所御用達に任された。田沼政治の特色の一つは,商業資本との結託にあり,寛政改革は逆に商業資本を抑圧したというのが通説である。しかし,寛政改革も勘定所御用達=商業資本と密接に結託しており,田沼の経済政策路線を継承する面が多かった。田沼期の政策と際だった違いをみせたのが,都市政策や思想・情報統制策であった。

 寛政改革の都市政策は,とくに将軍の膝元である江戸の社会秩序の維持に腐心している。具体的には,天明年間に高揚した都市打毀(うちこわし)の再発防止であり,打毀の主体勢力の温床となっている江戸下層社会への対策である。旧里帰農奨励令,物価引下げ令,石川島人足寄場の設置,七分積金令などは,その代表的な政策であった。しかも旧里帰農奨励令にみられるごとく,この期の都市政策は農村政策と密接に関係していた。没落貧農の大量の江戸流入により,江戸下層社会が質的に変化したことを,幕府は危険視したのである。なお七分積金令は,江戸の町入用の節減高の70%を町会所に毎年積金し,その積金を窮民救済や低利融資にあてることを目的とするものであった。幕府は,この町会所積金の貸付事務も先述の勘定所御用達にゆだねており,さらに町会所籾蔵の備蓄米の買上げ,売払いは,勘定所御用達とは別に登用した米方御用達に担当させた。このように都市政策においても,寛政改革は豪商を政策推進の基盤とした。

 また寛政改革は,思想,情報の統制にも熱心であった。1790年に幕府は林大学頭信敬に対し,朱子学を振興するため朱子学以外の儒学を禁じ,人材を取りたてるよう達した。いわゆる寛政異学の禁である。これは学問,思想の統制を通して,幕府に忠実な役人の育成と風俗矯正を意図するものであった。これと同時に出版統制令を発し,風俗をみだす好色本類や,政治批判を内容とする出版物を禁じた。事実,洒落本作家の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は,この出版統制令違反で処罰された。寛政期は対外緊張が高まった時期でもある。外国船がしきりに日本の近海に出没し,とくにカムチャツカ半島を経て南下してきたロシアは,蝦夷地に住む日本人としばしば衝突した。1792年には通商を求めてロシアのラクスマンが根室に来航した。北方問題にはやくから重大な関心を寄せた幕府は,蝦夷地の地勢調査をするなど海防の緊要性を痛感していた。にもかかわらず,《三国通覧図説》《海国兵談》を著し海防の必要性を力説した林子平を処罰したのは,外交権や対外情報を独占している幕府の権威を侵すものと考えたからである。

以上のような寛政改革により,財政的にはわずかながら黒字に転じ,改革直前の深刻な財政危機を一応回避することができた。しかし物価引下げ令や旧里帰農奨励令などは,ほとんど成果を上げることができず,また倹約令を中心とする景気の極端な抑制策や,隠密を駆使しての徹底した教戒政治は,庶民のみならず武士階級内部からも強い反感をかい,1793年7月,ついに松平定信は将軍補佐役ならびに老中を解任された。当時の落首にも〈白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき〉とある。とくに解任直前には,定信は他の老中の意見をほとんど聞かず,幕閣から浮きあがっていたようである。定信解任の理由としてこのほかに,光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし,定信がこれに反対した〈尊号一件〉,さらに将軍家斉が実父の一橋治済を大御所として江戸城に迎え入れようとしたのを,定信がいさめたいわゆる大御所問題により,家斉・治済と定信との対立が深刻化したことが挙げられる。しかし寛政改革を定信とともに推進してきた老中松平信明らは,定信解任後も幕閣にとどまっており,これら〈寛政の遺老〉により,文化末年ごろまで寛政改革路線は継承されている面が多い。なお幕政改革と並んでこのころ,米沢藩,会津藩などにおいても藩政改革が行われた。
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百科事典マイペディア 「寛政改革」の意味・わかりやすい解説

寛政改革【かんせいかいかく】

松平定信が老中在任の1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)に行われた幕府政治の諸改革。前代の田沼時代は本百姓が没落し,農村の荒廃が続き,1782年−1787年の天明の飢饉(ききん)でその頂点に達したので,定信は享保改革の徳川吉宗を理想とし,田沼意次の勢力を一掃し倹約政策を採った。農村には備荒貯蓄の奨励,他国出稼(でかせぎ)の制限によって本百姓の復興を図った。江戸在住の出稼人には帰国を促し,人足寄場(よせば)を設け浮浪人を一掃。商人の株仲間を整備し,札差には棄捐(きえん)令を発し旗本・御家人の救済を図ったが,幕府への批判はすべて禁じ,山東京伝林子平らが罰せられた。私娼(ししょう),好色本を禁止する徹底した緊縮政策は〈濁りの田沼〉時代と比較されたが,華美を求める大奥の策謀などで改革は挫折した。
→関連項目宇下人言江戸幕府岡田寒泉寛政異学の禁寛政の三博士黄表紙旧里帰農令均田制度倹約令骨董集七分積金社倉白河藩正学徳川家斉花札尾藤二洲紅嫌い

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世界大百科事典(旧版)内の寛政改革の言及

【江戸幕府】より

…さらに印旛沼干拓,蝦夷地開発を企てたが,天明の飢饉,農民一揆により挫折,将軍家葬祭・社参費用,新田開発土木事業,飢饉災害救済など臨時出費が重なり,奥金蔵は130万両も激減した。寛政改革では倹約令の頻発にもかかわらず年貢収入は増えず,禁裏・日光・聖堂の修復,米買上げ,治水事業,蝦夷地入用が加わり支出増となった。年貢外収入は大名手伝金,国役金に公金貸付け返納と利子収入が経常収入として固定,未返済元金,延滞利金の回収困難から天保期には縮小せざるをえなかった。…

【貸付金】より

…そしてこの利殖金を困窮農民,宿場民らに無利息で恩貸,すなわち拝借金として貸し出すしくみになっていた。このような公金貸付政策は,領主財政の再建や本百姓体制の維持などと密接に関連して,寛政改革以降とくに幕府の重要な金融政策となった。たとえば,寛政年間(1789‐1801)における〈荒地起返・小児養育手当御貸付金〉は,約15万両にものぼった。…

【戯作】より

…代表的な作者には朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ),恋川春町大田南畝山東京伝などをあげうる。 そこへ寛政改革が始まり武士階級のあるべき姿が厳しく問い直される。従来の戯作者の大半が武士階級に属したこともあって,ここで作者層の大幅な転換が起こり,後期戯作が始まる。…

【七分積金】より

…寛政改革の中で,江戸町方を対象として始められた都市政策。1791年(寛政3)12月,松平定信らを中心とする幕閣は,町奉行所を通じて江戸の名主,地主,家守(やもり)にあてた長文の町触で,江戸町方支配の大改革を行う旨を告げた。…

【手余地】より

…これは必然的に手余地=荒地の増加となり,領主財政窮迫の因となり,同時に博徒,無宿(むしゆく)者,都市細民を生み出して社会不安の一因になった。寛政改革ではこれへの対策が重要課題となり,水呑,小作人,奉公人などに農具代,夫食(ぶじき)を与えて手余地=荒地を開発させ,1790年(寛政2),91年,93年と続けて旧里帰農奨励令を公布し,帰村費や田畑購入費まで支給した。さらに93年,関東代官に長文の〈申諭〉を令達し,荒地起返(おこしかえし)の場所は元の租率に引き上げるように指示し,その意味を説明して,地主取分を制限して貧民一統を救済するものだとし,手余地の解消と本百姓経営の再建によって貢租収入の確保をねらった。…

【天明の飢饉】より

…次の87年の飢饉に際し打毀が江戸,大坂をはじめ全国主要都市に集中的に発生したのは,このような動向に対し農村対策が優先された結果と考えられる。寛政改革は天明の飢饉対策を基調とした。幕府は流亡農民の旧里帰農奨励(人返し),社倉・義倉制による貯穀,江戸の七分金積立て(七分積金)等のほか,大名にも囲籾(囲米)を義務づけた。…

【人返し】より

…【藤木 久志】(2)江戸幕府が社会不安の源ともいうべき過大な都市人口を抑制するため実施した帰農政策。1790年(寛政2)相次いだ寛政改革の諸法令のなかで,旧里帰農令が出されている。これは江戸の人口過剰による需給の不安定や,打毀(うちこわし)の原因となる条件を排除するねらいであった。…

【文武二道万石通】より

…源頼朝が畠山重忠に命じて,鎌倉の大名小名を富士の人穴に入らせて,文武道の士のほかにぬらくら武士を識別し,それを箱根七湯でさらして,文武いずれかの士たらしめようとし,惰弱をこらしめ戒めるという構想をとる。天明7年より始まった老中松平定信による寛政改革の文武奨励に取材したもので,田沼意次(おきつぐ)一派の失脚をとり入れるとともに,改革に際会しての武士たちの狼狽ぶりなどをも風刺する。改革政治取材の端緒をつけた作品で好評を博し,翌89年(寛政1)には恋川春町の《鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)》をはじめ,類似作が続出したが,当局の忌諱(きい)に触れ,喜三二も戯作の筆を断った。…

【本多忠籌】より

…87年(天明7)若年寄,89年(寛政1)側用人,90年老中格となり5000石の加増をうけた。この間寛政改革を主導した松平定信の補佐役として活躍。93年定信が失脚した後も〈寛政の遺老〉の一人として改革路線を継承,98年病気を理由に辞職するまで幕政に大きな影響を与えた。…

【松平定信】より

…江戸後期の幕府老中。寛政改革を推進した中心人物。8代将軍徳川吉宗の孫,父は三卿の田安宗武。…

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