寺町通(読み)てらまちどおり

日本歴史地名大系 「寺町通」の解説

寺町通
てらまちどおり

平安京開設時に開かれた最東辺りの東京極大路ひがしきようごくおおじにほぼ該当。上・中・下京を南北に貫通。「坊目誌」は「北は鞍馬口に起り、稍東に今出川の北にひ、夫より直南して五条に至り、五条より稍西に斜に上珠数屋町に至り、東枳殻馬場に接続して止む。一条より五条までは、凡そ古の京極大路にして、延暦遷都の時開通す、一条以北は天正に五条以南は明治に通ずる所とす」と記す。中世、五条以南はかも川付替えによって川床となった。

寺町通の成立は、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が行った京都都市改造の一環として洛中散在寺院の強制移転による。とくに移転の対象とされたのは、洛中の民衆生活に密着していた浄土宗日蓮宗・時宗の各寺院で、京極通の東側に整然と並べられた。

寺町通
てらまちどおり

[現在地名]新潟市西堀前通にしぼりまえどおり一―一一番町・西堀通にしぼりどおり一―一一番町

古町ふるまち通の西(浜側)に並行して南北に連なる町で、通りに沿って西堀(寺町川)が走り、その西側に寺院が立並ぶ。専用の橋を有する寺も多く、「寺一つに橋一つ」と称された(新潟市史)。通りの南部、西堀東側の鍛冶かじ小路までは神明しんめい町とよばれた。西側は寄居白山よりいはくさん新田村に接する。

最も早く当地に基を定めたのは曹洞宗松樹山法音ほうおん寺および浄土宗真光山善導ぜんどう寺で、天文三年(一五三四)といわれ、その後寛永期(一六二四―四四)までに現在の姿が形成されたと考えられる。

寺町通
てらまちどおり

[現在地名]能代市上町・富町

長根ながね町の寺院門前町を享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)では寺町通としている。東から本澄寺ほんちようじ西福さいふく寺・浄明じようみよう寺・願勝がんしよう寺・徳善とくぜん寺・薬師やくし堂・敬正きようしよう寺と並んで御米蔵に連なる。

明治期(一八六八―一九一二)の寺院台帳(秋田県庁蔵)によると、徳善寺は浄土真宗、本尊阿弥陀如来。文明一〇年(一四七八)清水政吉が本願寺蓮如に帰依して、文亀三年(一五〇三)姥が懐うばがふところに一宇を創立、天正一三年(一五八五)秋田実季から寺地を受け堂宇を建立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺町通」の意味・わかりやすい解説

寺町通
てらまちどおり

京都市の北は鞍馬口(くらまぐち)通から南は五条通までの街路名。豊臣(とよとみ)秀吉が京都市街復興にあたって新たに築造した御土居(おどい)の鴨(かも)川に接する東側の部分に、市街防衛の目的も兼ねて、洛中(らくちゅう)の寺院の3分の1を集めたのが起源。現在、寺の数は少なくなったが、都心商店街の一部をなし、老舗(しにせ)も多い。

織田武雄

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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