寺町(読み)てらまち

精選版 日本国語大辞典 「寺町」の意味・読み・例文・類語

てら‐まち【寺町】

〘名〙 寺の多く集まっている町。寺の並んでいる通り。各地に地名として多く残る。
※虎明本狂言・長光(室町末‐近世初)「てら町にては馬道具、くら、あぶみ」

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デジタル大辞泉 「寺町」の意味・読み・例文・類語

てら‐まち【寺町】

寺院の多く集まっている地域。

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日本歴史地名大系 「寺町」の解説

寺町
てらまち

[現在地名]秋田市旭北栄きよくほくさかえ町・旭北寺きよくほくてら町・おお町三―六丁目の西部・旭南きよくなん一丁目の東部

北は六道の辻ろくどうのつじから南にかけて、外町の西部を大きく包む形に町割されている。寛文三年(一六六三)外町屋敷間数絵図(秋田県庁蔵)には保戸野北鉄砲ほどのきたてつぽう町の三寺を加え四三ヵ寺が配置されている。元禄五年(一六九二)写の秋田六郡寺院調書(県立秋田図書館蔵)によれば、真言宗一〇寺、曹洞宗四寺、浄土真宗九寺、日蓮宗五寺、浄土宗六寺、臨済宗四寺、時宗二寺で、各宗派にわたっている。

寺院は由緒により、常陸から随従した縁故寺、秋田氏の外護を得た土崎湊つちざきみなと寺内てらうちからの移転寺、現地開基の寺院と大別され、寺院配置は前二者を巧妙に組み合せている。北端に縁故寺鱗勝りんしよう(曹洞宗)、中央に同竜泉りゆうせん(時宗)、最南端に同誓願せいがん(浄土宗)を設け、鱗勝院の南に土崎湊より移転した浄土真宗二寺、浄土宗二寺、日蓮宗四寺を雁行形に配し、竜泉寺の南も同じく浄土真宗五寺、浄土宗一寺群と、浄土宗一寺、曹洞宗・臨済宗の禅寺四寺を配置した。また寺院群の東部に並列して、いわゆる御社務おしやむ町以南の地に、北に大八幡おおはちまん別当の一乗いちじよう院、南に金砂山かなさやま大権現(現金砂神社)別当東清とうせい寺の二大真言宗祈祷寺を配し、その間に真言宗寺院の多くを建立した。

寺院支配は藩政初期は常陸時代と同じく一族の山方氏が掌握していた。寛文一一年藩は新たに寺社奉行を設け、寺院を藩支配のもとに置いた(国典類抄)

寺町
てらまち

[現在地名]徳島市寺町・眉山町びざんちよう西大工町にしだいくまち三丁目

眉山東麓にあり、南は武家地北山路きたやまじ、南東は大工町(西大工町)。天正一三年(一五八五)阿波に入国した蜂須賀家政は徳島城下町の建設にあたり、寺院や神社を勝瑞しようずい(現藍住町)や旧領地から移し、最初は寺島に集めた。のちに眉山山麓に移転させ、同所が寺町と称されるようになったという。正確な移転年代は不詳だが、寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図に寺町とあり、寛永頃の情景を伝えていると思われる徳島藩領国図屏風(出光美術館蔵)にもすでに寺町が描かれていることなどから、かなり早い時期には寺町への移転が行われていたとみられる。一般的に城下町のなかに寺町を配するのは戦時下における兵力の屯集に利用されるとともに、防衛上重要な機能を担うことにあったとされており、徳島藩でも同様の意図をもって移転させたものと考えられる。寺町と大工町の接する辺りは法花寺ほつけじ町とよばれ、貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によれば、東西の町数五七間五尺、家数一五軒とある。また北西端の敬台きようだい寺から以東の大工町の付近を、通称で敬台寺前きようだいじまえとよんでいたという。

勝瑞から移された浄土宗還国げんこく(源国寺)浄智じようち寺、真言宗持明じみよう院・東宗とうしゆう院、法華宗本行ほんぎよう寺・妙永みようえい寺・善学ぜんがく寺・妙典みようてん寺・本覚ほんがく寺、真宗慈船じせん寺・東光とうこう寺・円徳えんとく寺・長善ちようぜん寺などのほか、春日神社の別当寺の春日寺(廃寺)、真言宗来福らいふく寺・源久げんきゆう寺・安住あんじゆう寺・善福ぜんぷく寺・願成がんじよう寺・般若はんにや院、真宗元勝げんしよう寺、法華宗敬台寺などがある。

寺町
てらまち

[現在地名]酒田市中央東町ちゆうおうひがしちよう中央西町ちゆうおうにしちよう寿町ことぶきちよう中町なかまち一―三丁目

東は寺門前てらもんぜん、西は伝馬てんま町までの東西に連なる両側町。町名は寺院の門前に町割されたことに由来する。慶長五年(一六〇〇)の出羽合戦まで寺院の多くは本町ほんちよう通北側に点在していたが、兵火後の町割で経済活動の障害にならないよう北側に移した。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)によると寺町は五町あり、東から一町目に町屋敷八軒、南に林昌りんしよう(現浄土宗)、北に法泉ほうせん(竜厳寺、現真言宗智山派)高照こうしよう寺、浄徳じようとく(現浄土宗)。二町目に町屋敷一三軒、北に浄福じようふく(現真宗大谷派)。三丁目に町屋敷一〇軒、北に安祥あんじよう(現同派)。四丁目に町屋敷七軒、北に浄円じようえん寺・本慶ほんきよう(現同派)。五丁目に町屋敷四軒、北に牢屋があった。当初寺院が多いため家数も少なかったが、寺町通南の持地じち院・泉流せんりゆう(現曹洞宗)、林昌寺が北側の現在地に移ってから家数も増え、天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると家数八七・人数四二一。慶応二年(一八六六)酒田町絵図(佐藤家蔵)によると、東側に一町分増えており、北側に東から妙法みようほう(現法華宗)・泉流寺・本慶寺、北方に林昌寺、西北方に持地院がみえる。

寺町
てらまち

[現在地名]松江市寺町

白潟本しらかたほん町・天神てんじん町の東に位置し、北は和多見わだみ町、東は大橋おおはし川と天神川を結ぶ堀を挟んで松江分に接する。南を天神川が限る。南北に寺院が長く連なるが、城下建設にあたって東方ないし南方から進入する敵を防ぐ防衛陣地、あるいは出陣の際の軍勢集結地としての役割を担っていた。堀尾時代城下図によると、天神橋北詰の勢溜り東端から北に延びる通りの東側に誓願せいがん寺があり、その北へ正明しようみよう(称名寺)千念せんねん(専念寺)・不動院・普門ふもん院・乗都寺(常教寺)明宗みようしゆう寺・洞林寺(東林寺)・新蔵寺・龍吟庵・安栖あんせい院・宗泉そうせん寺・常永じようえい(常栄寺)龍覚りゆうかく寺が連なり、洞林寺・新蔵寺の東裏手に橋姫はしひめ大明神、安栖院・常永寺の東裏手に久成くじよう寺、龍覚寺の東裏手に妙光みようこう(妙興寺)、同寺の北東に長満ちようまん寺がある。通りは宗泉寺付近で鉤形路となっており、通りの西側には町屋がみられる。延享城下図では、南から誓願寺・称名しようみよう寺・専念せんねん寺・明宗寺・安栖院・常教じようきよう寺・東林とうりん寺・全龍ぜんりゆう寺・龍昌りゆうしよう寺・宗泉寺・常栄じようえい寺・龍覚寺や久成寺などが立並び、通りを挟んだ龍昌寺西隣には永泉えいせん寺などがみえる。このように近世における寺院の配置には若干の変化があった。

普門院は元禄二年(一六八九)北田きたた町に移転し、現在は浄土真宗本願寺派円照えんしよう寺・西福さいふく寺の寺地となっているが、普門院以前は堀尾氏の重臣堀尾河内の下屋敷であったといわれる。

寺町
てらまち

[現在地名]大野市日吉ひよし町・にしき町・もと

大野城下の最東部を南北に走る通りに沿う。金森長近による町割で形成されたものであるが、中世末期の土橋どばし城周辺部の寺町が核となって建設されたためか、それより西に整然と南北に走る一番から五番までの通りとは異なり、北西から南東にかけて通りがやや傾く。

寛永三年(一六二六)の寺町名寄帳写(「大野領寺社記并雑記」所収)によれば、通りの東側を南から北へ、瑞祥ずいしよう寺・岫慶しゆうけい寺・恵光えこう寺・蓮光れんこう寺・徳正とくしよう寺・専西せんさい寺・来迎らいごう寺・光玖こうきゆう寺・妙典みようてん寺・円立えんりゆう寺・大宝だいほう寺・学円がくえん坊・北寿ほくじゆ坊・円識えんしき坊・明経みようきよう坊・長興ちようこう寺・光福こうふく寺・善導ぜんどう寺・誓念せいねん寺と並び、通りの西側は円立寺向いに竜泉りゆうせん寺、北へ大雄だいゆう院・願成がんじよう寺・善導寺墓地・長勝ちようしよう寺と並ぶ。長勝寺西隣に浄勝じようしよう寺がある。これは四番しばん町に入るが、やはり寺町の一部であろう。なお明治三二年(一八九九)に光玖寺裏に円和えんな寺が移転してきた。

寺町
てらまち

[現在地名]福島市清明町・五月町・早稲町・大町・舟場町など

福島城下の西および北側の奥州道中の裏通りや福島城の東、阿武隈川に面した現舟場ふなば町などを中心に多くの寺院があった。文禄年間(一五九二―九六)大森おおもりから福島に移ったとされる寺は、奥州道中の西裏通りに並び、南から常光じようこう(現曹洞宗)誓願せいがん(現浄土宗)城福じようふく(真言宗、現廃寺)と、御山新おやましん町口の普門ふもん(修験、現廃寺)があった。誓願寺は永禄一〇年(一五六七)大森城下の小島田こしまだ村に創建と伝えるが、明治二年(一八六九)に写された宝永二年(一七〇五)の福島中町絵図(安斎家蔵)には文禄二年の創立と注記されている。城福寺は天正五年(一五七七)の中興といい、木村吉清の開基ともいうが、明治一四年の福島大火で全焼し、同四二年に真浄しんじよう(現真言宗室生寺派)に吸収された。真浄院には城福寺旧蔵とされる福島城初代城主となった木村吉清の位牌が祀られている。普門寺はもと大森の城山じようやま観音堂の別当で、当地方修験の年行事を勤めた。

寺町
てらまち

[現在地名]米子市寺町

町人町の岩倉いわくら町・たて町の北部に位置する。中村氏による米子築城当時から城の北西方向の砂山地帯の一画が寺院の予定地とされ、城下の防御線を形成した。この地区が寺町と通称され、総間数二三〇間半(米子市史)。西から専念山万福まんぷく(現真宗大谷派)・見龍山常照院心光しんこう(現浄土宗)・寛龍山法蔵ほうぞう(現曹洞宗)、久遠山実成じつじよう寺・普平山妙興みようこう寺・本栄山妙善みようぜん(以上現日蓮宗)、万福山安国あんこく寺・久坂山瑞仙ずいせん寺・正覚山福厳ふくごん(以上現曹洞宗)の九寺が並ぶ。

万福寺は初め石見国邇摩にま郡にあって勝応しようおう寺と称し、文禄三年(一五九四)米子城下五十人ごじゆうにん町に移り、中村氏入部後寺号を万福寺に改めて現在地に移転を命じられたと伝える。「伯耆志」には慶長二年(一五九七)石見国浜田から移ってきたとある。たけ(鬱陵島)渡海で活躍した商人村川市兵衛の墓などがある。心光寺は近世は京都知恩院末。尾高おだか城下の源光げんこう(大谷家の祖和田永順による創建と伝える)が天正年中(一五七三―九二)米子城下に移って寺号を改め、さらに当町に移ったという(「伯耆志」など)。尾高にはのちに心光寺末として源光寺が再興された。

寺町
てらまち

[現在地名]静岡市常磐町ときわちよう二―三丁目・梅屋町うめやちよう駿河町するがちよう人宿町ひとやどちよう二丁目・駒形通こまがたどおり一丁目・新通しんとおり一―二丁目・本通ほんとおり五丁目

駿府城下の縦筋(縦町)第七行の両側町。北から南へヨコ町、さらに一丁目から四丁目に区画されている。北端は横筋(横町)第八行の本通五丁目・六丁目の間と交差し、ヨコ町と寺町一丁目の間を横筋第七行の通りが延びる。東側に町屋、西側に寺院が並び、城下南縁の防備をはたしている。南端から時宗宝樹ほうじゆ院、臨済宗(現臨済宗妙心寺派)菩提樹ぼだいじゆ院・少林しようりん寺・興禅こうぜん寺・摂取せつしゆ寺、法華宗浄祐じようゆう寺・宗林そうりん寺・倉長そうちよう寺・安立あんりゆう寺・妙像みようぞう寺・妙音みようおん寺・感応かんのう寺が並び、宝樹院・菩提樹院の西裏に法華宗蓮長れんちよう寺、ヨコ町西側に浄土宗善然ぜんねん寺がある(以上、町方絵図)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は一丁目が丁頭家一・本家六・借家七、二丁目が丁頭家一・本家一〇・借家九、三丁目が丁頭家一・本家一八半・借家六、四丁目が丁頭家一・本家一一・借家二。

寺町
てらまち

農人のうにん町の内側に南北に連なる寺院街区。元和の町割に際してそれまで市中に散在していた寺院が一ヵ所にまとめられ、錦之にしきの町以南、南半みなみはん町まで二〇町にわたる寺町が設定され、北郷約六〇ヵ寺、南郷約五〇ヵ寺が立並んだ(元禄二年堺大絵図)。各寺町は大寺院と幾つかの中小寺院を組合せて構成されたものが多い。代表的な大寺院を北からあげると、北郷では錦寺にしきてら町の北十萬きたじゆうまん(浄土宗)柳寺やなぎてら町の月蔵がつぞう(日蓮宗)九間寺くけんてら町の経王きようおう(日蓮宗)神明寺しんめいてら町の北御坊きたごぼう(本願寺堺別院)宿屋寺しゆくやてら町の成就じようじゆ(日蓮宗)材木寺ざいもくてら町の妙国みようこく(同宗)車寺くるまてら町の法王ほうおう寺・櫛笥くしげ(同宗)戎寺えびすてら町の禅通ぜんつう(臨済宗)湯屋寺ゆやてら町の超善ちようぜん(浄土宗)、南郷ではおおてら町の祥雲しよううん(臨済宗)宿院寺しゆくいんてら町の顕本けんぽん(日蓮宗)南中之みなみなかのてら町の妙法みようほう(同宗)寺地てらじてら町の旭蓮社ぎよくれんじや(浄土宗)少林寺しようりんじてら町の引接いんじよう(時宗)と少林寺(臨済宗)、そして南堀に面した南旅籠みなみはたごてら町の南宗なんしゆう(同宗)などを挙げることができる。

寺町
てらまち

[現在地名]新発田市諏訪すわ町二丁目・中央ちゆうおう町一―二丁目

新発田城下の東南外郭、城下を囲む新発田川と堀の外に寺院を配置して形成された町。城下の入口に相当する場所にあり、都市防衛的役割もあった。北流する新発田川に沿う道を挟んで両側に寺が並び、町の南で川を渡ると西は立売たちうり町、東は諏訪前すわまえから諏訪神社に至る。慶長一五年(一六一〇)法華ほつけ寺に境内保護を旨とする「定」が与えられ、元和五年(一六一九)には「寺町高徳寺」に寺領三反半が寄進されるなどしており(蕉鹿年代記)、城普請などとともに徐々に寺町の形成も進んだと考えられる。溝口氏の新発田入封に加賀から随従し、当初五十公野いじみのにあった浄見じようけん(のち宝光寺)託明たくみよう寺もやがて寺町に移転する。正保年間(一六四四―四八)の新発田藩家中絵図(新発田市立図書館蔵)によると、東側に北から法花(華)寺・真勝しんしよう(称)寺・正寿しようじゆ庵・浄見寺・三光さんこう寺・蓮昌れんしよう寺が並び、西側は浄見寺・三光寺の向いに託明寺・窓(相)円寺・福勝ふくしよう寺、立売町を隔てて南に高徳こうとく寺がある。

寺町
てらまち

[現在地名]富山市梅沢町うめざわちよう一―三丁目・南田町みなみだまち一―二丁目・南新町みなみしんまち

富山城下南東部の一角を占める。北は南新町南側の町並、西は東南田町から南に延びた杉内すぎないの家中屋敷地に接する。東をいたち川が北流し、寺町との間に町があり、南は東西に水路が通る(安政元年「富山城下絵図」県立図書館蔵)。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図および万治年間富山旧市街図には新寺町の名で記載される。これは北方のあら町中ほどから東に折れ仁右衛門によえもん町に直交する古寺ふるでら町に対応するもので、前田利次による町割に際し、新たに寺町を設置、城下の寺が当地に集められた。

寺町
てらまち

[現在地名]勝山市本町一―三丁目

うしろ町の西裏側、九頭竜くずりゆう川の河原地に尊光そんこう寺を中心に十数ヵ寺が並び、寺町とよばれた。江戸時代末期の旧城下地図(「大野郡誌」所収)によると、法栄ほうえい(現浄土宗西山禅林寺派)浄願じようがん寺・善立ぜんりゆう寺・正等しようとう(現真宗大谷派)照源しようげん寺・了西りようさい寺・西宮さいぐう寺・慶恵きようえい寺・尊光寺・明覚みようかく寺・浄円じようえん寺・延勝えんしよう寺・西方さいほう寺・浄敬じようけい(現浄土真宗本願寺派)正覚しようかく(現真宗三門徒派)が並ぶ。

法栄寺は寛永二年(一六二五)勝山領主松平直基の創立、開山は智廓存竜。末寺に立石たていし伯立はくりゆう院があった。正等寺は寛永一六年空心の時、寺号を免許された。

寺町
てらまち

[現在地名]松前郡松前町字松城まつしろ

近世から明治初年まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前こまつまえ川と大松前おおまつまえ川に挟まれた海岸段丘上に位置し、福山城北側にあたる。慶長五年(一六〇〇)松前慶広は福山の台地に新城の築城を開始、同一一年完成し福山城と称した。従来の居城である大館おおだて徳山とくやま(徳山城)を廃し、元和五年(一六一九)「大館街及寺街」を福山(松前)城下に移転している(福山秘府)。曹洞宗法幢ほうとう寺・法源ほうげん寺・龍雲りゆううん院・寿養じゆよう寺・宗円そうえん寺、浄土宗光善こうぜん寺のほか、曹洞宗福寿山永善坊(もとは真言宗。文亀二年建立、明和三年慈眼寺と改号。慶応元年罹災)・真言宗地屋山万福まんぷく(慶長一五年または元和二年建立。慶応元年罹災)などがあり、宝暦一四年(一七六四)妙蓮社(松前藩主松前資広母貞了院庵地。光善寺支配)が建立された。

寺町
てらまち

[現在地名]福井市つくも二丁目・有楽ゆうらく

西源寺さいげんじ町から西方に延びる町で、石場いしば寺町ともよばれる。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「地方寺町 百六拾七間、三ツ家ヨリ成円寺迄、但道幅二間」と記す。

貞享二年(一六八五)福居御城下絵図をみると、寺町北側東から宗徳そうとく寺・慶宗けいそう院、足軽組屋敷を隔てて正法しようぼう寺・善行ぜんぎよう寺・安穏あんのん寺・常楽じようらく寺・成円せいえん寺、南側には本経ほんきよう寺・総光そうこう寺・教徳きようとく寺・陽林ようりん寺・永春えいしゆん寺・本寿ほんじゆ寺が並ぶ。いずれも曹洞宗と法華宗寺院ばかりである。

寺町
てらまち

[現在地名]明石市うえまる一丁目・人丸町ひとまるちよう太寺たいでら三丁目

明石城の東側、人丸山の麓から南側にかけて広がった区画に位置する。南は家中町の腕塚うでつか町・ゆみ町・忠度ただのり町が続き、西は東片端ひがしかたは町。明治初年から一〇年代の町名。明治初年頃の明細図および明治五年(一八七二)の大区・小区一覧に町名がみえる。のち他の家中町二三町とともに大明石おおあかし村に含まれたが、その時期については不詳。同一四年に作製された大明石村地図にはすでに大明石村となっており、合併されたのはそれ以前と考えられる。町名は当地に寺院が集められて一画を形成していたことに由来する。

明石城の東側は人丸山から海岸線まで南北わずか一キロ余で平地を形成、東西に山陽道が走る。当地は要路を押えるための戦略上の重要拠点地域で、明石藩主松平家の菩提寺であった長寿ちようじゆ院と曹洞宗雲晴うんせい寺が置かれていた。

寺町
てらまち

[現在地名]中津市中津 寺町

中津城下の東、もと外堀に沿って、南から普門ふもん院・宝蓮ほうれん坊・松巌しようがん寺・合元ごうがん寺・本伝ほんでん寺・大法だいほう寺・円応えんのう寺・円龍えんりゆう寺・浄安じようあん寺・西蓮さいれん寺が相接し、付近に明蓮みようれん(桜町)東林とうりん寺・寿福じゆふく(鷹匠町)がある。一部には町家もあった。高野山真言宗の普門院は中世の建立であろうという(中津歴史)。宝蓮坊は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。獅子吼山と号する。慶長一二年(一六〇七)村上良慶は細川忠興が中津に隠居すると、小倉浄喜じようき寺を嫡男に譲って中津に一寺を創建したという。享保三年(一七一八)の大火で全焼している。寺宝に聖徳太子自作と伝承する太子像があり、木工業者の厚い尊崇を得ているが、室町時代初期の傑作とされる。宝蓮坊境内の安随あんずい寺は真宗大谷派で、弘治元年(一五五五)長尾晴景の臣僧安随の創建という。

寺町
てらまち

[現在地名]島原市寺町

島原城の南方、白土しらち町の北西にある。元和二年(一六一六)島原藩主松倉重政が島原築城の際に肥前小城光勝おぎこうしよう(現佐賀県小城町)の日億を招いて松島山光伝こうでん(現日蓮宗)を創建したという。重政はまた同三年(同五年とも)に水頭山善法ぜんぽう(現浄土真宗本願寺派)中木場なかこば村から当地に移建した。寛永一四年(一六三七)の島原の乱では住持の義海が長刀をふるって、キリシタンの一揆勢と交戦したという。乱後に酒造札一〇枚を与えられ、城内での年賀の順位を別格とされた。同一八年島原村の教智が木仏を下付されたが(木仏之留)、同寺の起立に関連するものであろう。正保四年(一六四七)同藩主の高力忠房の代に真言宗醍醐派の不老山加納かのう(叶寺)が創建。

寺町
てらまち

[現在地名]和歌山市寺町

和歌道わかみち筋を東へ入った古くからの横町。浅野氏時代、寺町は城下北部の宇治うじ地区にあったが、徳川氏の城下町政策でおか山南麓の武家町の真ん中である当地に寺院が集められ、旧地は元寺もとでら町として武家町となった。この寺町筋東突当りにあった浄土宗鎮西派の大智だいち寺は寛永九年(一六三二)徳川頼宣が創建、明暦元年(一六五五)寺領一〇〇石に加増されたと伝えるが(続風土記)、明治三年(一八七〇)大立だいりゆう(現橋向町)に合併された。次に寺町筋の寺院を寛政城下町絵図や「続風土記」「南紀徳川史」「紀伊名所図会」などによって記す。

町の北側を東から西へ向かうと、最も東が西山浄土宗増上山仙境院護念ごねん寺で、永正五年(一五〇八)宇治に創建されて常福寺と号し、桑山氏時代松屋まつや町へ移って城の鬼門衛護として護念寺と改め、慶長六年(一六〇一)岡地区に移り、寛永一七年頼宣の命で当地に移る。

寺町
てらまち

[現在地名]長崎市寺町

長崎町の南東部に位置する。江戸時代に多数の寺院が建立されていた地で、長崎市中のなかでは正式な町ではなかったが、通称としてみえる。慶安二年(一六四九)の御参宮人抜書(橋村家文書)では寺町の二人が伊勢参りをしている。正徳四年(一七一四)三月在津の唐船二八艘の唐人らが諏訪社を参詣し、その後に「寺町筋」にも赴いて伊勢宮に立寄り、さらに桜馬場の春徳さくらばばのしゆんとく寺や松森まつのもり天神にも回っている(唐通事会所日録)。寛政九年(一七九七)の「長崎歳時記」には「寺町」に延命えんめい寺・浄安じようあん寺・禅林ぜんりん寺などがあると記される。

寺町
てらまち

[現在地名]尼崎市開明町かいめいちよう三丁目・寺町

元和三年(一六一七)新城築造計画に際し、城地予定地にあった寺院が北西の別所べつしよ村領内に移転させられ寺町を形成した。本興ほんこう寺をはじめ大覚だいかく寺・如来院、別所町の法園ほうおん寺、風呂辻ふろつじ辰巳たつみ市場の長遠ぢようおん寺、大物だいもつ町の広徳こうとく寺・栖賢せいけん寺・甘露かんろ寺に加えて、戸田氏に従って近江国膳所ぜぜ(現滋賀県大津市)から移ってきた円通えんつう寺・全昌ぜんしよう寺・常隆じようりゆう寺があった(尼崎市史)。元禄一二年(一六九九)の美濃大垣城下寺社帳(藤井家文書)によると、円通寺・全昌寺・常隆寺・常楽じようらく寺・般若はんにや院・南光なんこう院が寛永一二年(一六三五)の戸田氏の移封に従って大垣おおがき(現岐阜県大垣市)へ移った。

寺町
てらまち

[現在地名]上野市寺町

しん町の東にあり、南北に通る約六町ほどの両側の町。各寺院の土塀が連なり、有事の際は城下町を守る東の一郭をなす。寛永絵図(岡森明彦氏蔵)では、東側には北より本覚ほんかく坊・妙昌みようしよう寺・万福まんぷく寺・念仏ねんぶつ寺、西側には恵光けいこう院・善福ぜんぷく院・大膳だいぜん寺・大膳寺隠居所とならぶ。寛文(一六六一―七三)頃の絵図(上野市立図書館蔵)では本覚坊は上行じようぎよう寺、恵光院は妙典みようてん寺、大膳寺隠居所は超誓ちようせい寺になり、大膳寺の南西隣に「山ぶし寿福院」がある。上行寺は藤堂家の菩提寺。その南に本能寺派妙昌寺があり、寺内に鬼子母神を祀り、その隣に三十番神を祀る。現歓喜天・毘沙門天堂である。

寺町
てらまち

[現在地名]鳥取市寺町・戎町えびすまち

元大工もとだいく町・桶屋おけや町・職人しよくにん町の南にあり、若桜わかさ橋土手内際よりふくろ(旧袋川)に沿って東に広がる。東端は惣堀。元和三年(一六一七)池田光政鳥取入部に伴う城下町拡張整備計画の一環として寺が集められた地域。東側には惣堀(薬研堀ともいう)が寺町袋町を囲み、袋川土手に沿って武家屋敷が取巻く。南東袋川には吉方よしかた村との間にしん橋が架けられていた。町内には日蓮宗(現法華宗陣門流)妙要みようよう寺、一向宗(現真宗大谷派)覚応かくおう寺、真言宗(現高野山真言宗)最勝さいしよう院、浄土宗本願ほんがん寺・慶安けいあん寺・光明こうみよう寺・一行いちぎよう寺の七ヵ寺があった。

寺町
てらまち

[現在地名]中区寺町・広瀬北ひろせきた

広島城下北西部に位置し、北の沼田ぬまた郡からよこ川に架かる横川よこかわ橋を渡って城下に入る雲石路に面する。広瀬組に属した。毛利氏時代には武家屋敷町であったが、慶長一四年(一六〇九)福島正則の時、打越うちこし小河内おがわち(現西区)にあった浄土真宗の大寺仏護ぶつご寺と、末寺とされたいわゆる仏護寺十二坊の寺々が移され、城下西北口に対する防衛に備えられた。

寺町
てらまち

[現在地名]高松市番町ばんちよう一丁目

三番さんばん丁武家屋敷の東隣からまっすぐ東に南鍛冶屋みなみかじや町まで、東西約一二〇間の寺院町。町名の由来も寺院が多数あったことによる。北は南紺屋みなみこんや町、南は四番丁武家屋敷。北西端に東光とうこう(禅宗)、その南に良水を出したといわれるここのッ井、その東隣が行徳ぎようとく院・地蔵寺(真言宗)正覚しようがく(浄土宗)徳成とくじよう(一向宗)善昌ぜんしよう寺・本典ほんでん寺・妙朝みようちよう(法華宗)、南側は西から大本だいほん(法華宗)慈恩じおん(禅宗)で南紺屋町西端の長興ちようこう庵、三番丁東端の法泉ほうせん寺、その南向いの東福とうふく寺を入れて、付近に一三ヵ寺があった(天保一五年城下図)

寺町
てらまち

[現在地名]高知市桜井さくらい町一―二丁目・宝永ほうえい

しん町東部に、元禄一一年(一六九八)の大火後、城下にあった寺院が集められてできた町。当初は新寺町とよばれた。「南路志」には「新寺町有鉄鉋町之下、東西下知田町を詰北より南江廻し片町」とみえ、東西一一四間、南北一七一間の町であった。この時集められた寺院は、細工さいく町の大超だいちよう寺、蓮池はすいけ町の山泉さんせん寺・安養あんによう院・蓮乗れんじよう院・大善だいぜん寺、紺屋こんや町の西念さいねん寺・真光しんこう寺、浦戸うらど町の真宗しんしゆう寺・専修せんしゆう寺・長泉ちようせん寺・遍照へんじよう寺、廿代にじゆうだい町の五法ごほう院・十楽じゆうらく寺、材木ざいもく町の善法ぜんぽう寺、新市しんいち町の真慶しんきよう寺・浄福じようふく寺、新町の金剛こんごう院・真証しんしよう寺・真立しんりゆう寺であった。

寺町
てらまち

寺町は仏教諸派の寺院で構成された街区で、天正一九年(一五九一)京都の市中整備のなかで寺町を設けたことが嚆矢となり、以後各地の城下町につくられていった。大坂は豊臣秀吉の天正一一年の城下町建設によって近世的な町が建設されていった。しかし数度の大規模な都市整備を経ているため、原初の都市構造は不明確で市中の北と南に接して形成された寺町の成立時期・形態などはつまびらかでない。寺町を構成した寺院は浄土真宗を除く各宗派で、境内は除地とされ町人役の負担も免除されていた(「過去帳」銀山寺蔵)。市中にあった浄土真宗寺院とはこの点対照的であった。もっとも大坂の場合寛永一一年(一六三四)に市中全域が地子免除となったので、寺町の寺院と浄土真宗寺院との差違は相当縮まっていた。

寺町
てらまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち八丁目・栄町さかえまち四丁目

八軒屋はちけんや筋の西に並行する南北の通り。北端は洲本川河岸に達する。そと町のうち。寛永八年(一六三一)城下整備に伴い由良ゆらから移した寺院を城下外縁に配し形成された。通筋の西側には、北から子安こやす地蔵・本妙ほんみよう(現法華宗本門流)千福せんぷく(現高野山真言宗)青蓮しようれん寺・地蔵寺(大正一五年二寺は合併、高野山真言宗遍照院となる)専称せんしよう(現浄土宗)称名しようみよう(現西山浄土宗)浄光じようこう(現浄土真宗本願寺派)・薬師が並んでいた(味地草)

寺町
てらまち

[現在地名]六郷町六郷 東高方町

六郷の東から南東部にある。六郷氏の城下町時代から慶長七年(一六〇二)佐竹義重の六郷入り以後、寺院が六郷を取り巻くように配置される。

善証ぜんしよう寺は浄土真宗本願寺派、吉水山と号し、「月の出羽路」によれば、源三位頼政の孫が親鸞の弟子となって建立したという。六郷へ移ったのは永正年間(一五〇四―二一)と伝える(「由来書」善証寺蔵)。「月の出羽路」によれば、檀家の間に争いがあり、承応二年(一六五三)同山号同寺名の寺が東西両派にできたという。

寺町
てらまち

[現在地名]津市乙部おとべ寿ことぶき

堀川の東側に南北に並ぶ寺院によって成立した町。藤堂高虎の城下町形成により、旧伊勢参宮街道沿いに広大な境内をもっていた西来せいらい寺の南に接して、一列に多くの寺院が集められた。低湿地を挟んで東に海岸を控えた寺院の列は、軍事的な意義が大きかった。玉置覚書(国訳聿修録)に「只今のほり川は何処ともなく洲崎の砂山にて、潮来れば後々商売のために候間、町後に掘り立て可申の由被仰付、深さ一丈二尺の舟入に掘り立申候、其土を東の方は築地・ほり川の町屋の地形に被仰付、西の方は寺町に出し候やうに地形つき可申旨被仰付候」とあり、堀川の築土が寺町の地形づくりに使われ、初期より寺町とよばれていたことがわかる。

寺町
てらまち

[現在地名]宇都宮市大通おおどおり一丁目・仲町なかまち

南は大工だいく町、東は新宿しんじゆく町、西は宮島みやじま町に続く東西の町。北側に東から妙金みようきん寺・法華ほつけ寺・生福しようふく寺と寺院が並び、南側に門前町がある。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)にみえる。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は一番組一一三間のうち一八間を受持ち、城内草刈人足は八人を差出す(宇都宮史)。享保四年(一七一九)の宇都宮大明神祭礼図(高橋節子蔵)によれば、三〇番山車で、剣赤熊七福神芸屋体と子供七人を出す。元文年間(一七三六―四一)の町方書上帳(高橋節子文書)によれば、名主は理兵衛と次郎兵衛で、町の長さ東西一町三五間一尺、道幅三間一尺、町家は南側に二二軒、北側は門前で西角に町家一軒がある。

寺町
てらまち

[現在地名]久留米市寺町

久留米城下の東辺に位置し、南はとおり町、西は鉄砲てつぽう小路。筑後国に入国した有馬豊氏は城下町の建設に着手、寺町も元和七年(一六二一)に始まり、二代忠頼のときほぼ完成(寛文十年寺社開基)。通町六丁目から北に直線的に道路が開かれ、その両側に寺院が配された。寺地を拝領した寺院は、慶長八年(一六〇三)田中吉政が久留米もと(現篠山町付近)に集めた一向宗寺院三ヵ寺や、丹波国より豊氏に従ってきた日蓮宗寺院などで、領内外からの移転、または創建があった(同開基)。正保四年(一六四七)・明暦三年(一六五七)久留米領内から西本願寺派寺院が追放されているが(米府年表)、その後の変動は少なく、延宝城下図では浄土宗五ヵ寺・一向宗六ヵ寺・日蓮宗五ヵ寺・臨済宗二ヵ寺・曹洞宗二ヵ寺・真言宗二ヵ寺・時宗一ヵ寺がみられる。

寺町
てらまち

[現在地名]上越市寺町一―三丁目

高田城下の西端に南北に延びる寺院街区。寺町は天正一九年(一五九一)京都の市中整備のなかで設けられたことが嚆矢となり、以後各地の城下町につくられた。当地の寺町は、上寺かみでら(現寺町一丁目の大部分)・中寺町(現寺町二丁目)・下寺町(現寺町三丁目)に分れていた。その中枢部に当たるのが中寺町で、とくに表寺町と裏寺町の二列の町として大寺院を置いた。寺町を城下西端に設けた理由として、西方の山麓を旧北国街道が通っていて敵の侵入が容易であったこと、西方丘陵からの攻撃が懸念されたことがいわれている。広い境内地と屋敷をもち、炊事施設などを有する寺院は、有事には城郭として利用されうる存在であった。

寺町
てらまち

[現在地名]村上市寺町

しお町西側の坂の中ほどから東に折れ、二町三六間ほどでおお町と合する。南西は小国おぐに町。北側は五軒の寺屋敷で大半を占める。はじめは現在の西半分のみが寺町で、東半分は塩町であったが、松平直矩在城時に塩町が北方の現在地に移るに従い、その跡地が寺町分に入った。寛永一二年(一六三五)の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)に「寺町」とみえ、家数二八。うち一軒が小走、九軒は寺方無諸役であった。寺のほか鉄砲衆・十人組頭・算用所番所がみえる。河岸段丘上に位置し、城下町の防御上重要な地域であった。明治期には料理屋が大盛況を呈し、大正末期までは芸者置屋を含めて一七軒があったが(村上民俗調査報告書)、置屋は現在はまったくない。

寺町
てらまち

[現在地名]青森市ほん町一丁目

しん町の東で西は鍛冶かち町に続く。「長二丁三十五間五尺幅八間。家数百四十七軒。寺院ある故に号く」(新撰陸奥国誌)とあるように、青森町の寺院街として形成された。

寛永五年(一六二八)青森町に一寺もないのを憂えた弘前誓願せいがん寺塔頭龍泉りゆうせん寺の住持龍呑が、藩主の許可を得て寺屋敷を賜り正覚しようがく寺を建立したのが最初である。続いて寛永一七年に蓮心れんしん寺、慶安元年(一六四八)開基で承応二年(一六五三)に移転してきた常光じようこう寺、同元年開基で、寛文四年(一六六四)に移転してきた蓮華れんげ寺がある(青森市沿革史)

寺町
てらまち

[現在地名]小松市寺町・本町ほんまち一―二丁目・芦田町あしだまち一―二丁目

本鍛冶ほんかじ町の北に続く南北通りで、東は大文字だいもんじ町、西は大文字町地方・なか町地方。長さ三町二〇間・幅二間(皇国地誌)。町名は本覚ほんがく寺があることによるといわれ(能美郡誌)。そのほかにも寺が多く、門前町として発展した。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に小松寺町とあり、高一九石、免六ツ九分(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)の小松町家数并人高調理帳(小松旧記)によれば、本町の一つで、家数一四四。曳山芝居をもっている。文政一三年(一八三〇)の小松城図では、通りは描かれるが町名が記されない。

寺町
てらまち

[現在地名]綾部市八津合町 寺町

上林かんばやし川中流域、右岸の君尾きみのお山麓を東西に通ずる若狭街道沿いに位置する。東は日置殿へきどの村、南は上林川を隔てて石橋いしばし村の城下しろしたに通ずる。西屋神谷にしやこうだに村に属するが、光明こうみよう(現睦寄町有安)の里坊が設けられていたためにこの名がある。

地名は天正一五年(一五八七)一〇月一六日付高田豊後守治忠折紙(光明寺文書)にみえるのが早い。

<資料は省略されています>

また藤懸永勝入部当初の藤懸美作守永勝折紙(同文書)にも次のように記す。

寺町
てらまち

[現在地名]魚津市本町ほんまち二丁目

あら町・真成寺しんじようじ町の裏町にあたり、北は餌指えさし町、東は真成寺町、西は下新しもしん町、南は荒町。町内に四つの寺院があり、寺町とよばれた。組合頭などは出さなかったようだが、魚津町方の万雑を一分負担している(魚津町誌)。天明五年(一七八五)魚津町惣絵図では下新町の八間はちけん町から東に延びる通りに寺町とみえ、通りの西端南側に山伏照庵しようあん寺、西端北側から東へ向かって一向宗等覚とうがく寺・勝楽しようらく(ともに現真宗大谷派)、日蓮宗長教ちようきよう(現在は双葉町に移転)が描かれる。

寺町
てらまち

[現在地名]高梁市寺町

伊賀いが町の南側にあたる山際に位置し、頼久寺らいきゆうじ丁から下谷しもだに(現紺屋町川)に架かる橋を渡って松山東まつやまひがし村へ至る道の東側の山麓に、北から瑞雲寺龍徳りゆうとく院・素南山巨福こうふく寺・大厳山玄忠げんちゆう寺・光明山寿覚じゆがく院の四ヵ寺が並んでおり、西側に家中屋敷があった。南北一町二九間の町で、元禄(一六八八―一七〇四)初年頃には一〇〇―一五〇石取の家臣七人の屋敷があった(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。延享元年(一七四四)には長屋四があり(「松山家中屋敷覚」高梁市立図書館蔵)、その後南端に揚り屋が設けられた。

寺町
てらまち

[現在地名]大分市都町みやこまち三丁目

今在家いまざいけ町の南にあり、通りの西側は同町、南の下紺屋しもこんや町ともに町並が続く。慶長府内絵図に町名がみえ、東頬五二間半・西頬五四間半、東西の入一五間。西側に北から常妙じようみよう寺・本光ほんこう寺がある。日蓮宗常妙寺は、享禄二年(一五二九)大友義鑑が日諦を開山として城西の「蘭若町」(寺町)天神祠の傍らに創建したのが始まりと伝える(豊後国志)。あるいは慶長七年(一六〇二)天満宮境内に移されたともいう(雉城雑誌)。明暦四年(一六五八)松平(大給)忠昭が府内に入部してのち屋敷高一石五斗を免許された(豊府指南)。平成二年(一九九〇)葛木かつらぎに移転。日蓮宗本光寺は、永禄七年(一五六四)寺町の稲荷祠の傍らに日賢が堂宇を営んだのが始まりとも(豊後国志)、もと天台宗で円長寺と号していたが、天文年間(一五三二―五五)大友義鑑が日蓮宗に帰依し、肥前国光勝こうしよう(現佐賀県小城町)の日賢を請来して改宗・改号したとも伝える(雉城雑誌)

寺町
てらまち

[現在地名]彦根市本町ほんまち一丁目

京橋きようばし通の外堀に突き当る辺りを東に折れる通り。寺町といっても江戸中期の侍屋敷図および天保城下絵図ともに武家の屋敷ばかりで、その北方に来迎らいごう寺など三ヵ寺があるのみ。江戸後期母衣の片桐氏(禄高三〇〇石)などが住していた(井伊家役人帳など)。明治一二年(一八七九)白壁しらかべ町・内大工うちだいく町と合併、四番よんばん町となる。「木間攫」に浄土宗の来迎寺・大信だいしん寺をあげる。大信寺は井伊直政が佐和山さわやま城に移るに伴って上野高崎たかさき(現群馬県高崎市)の大信寺の照誉が随行して建立、井伊直継の時に彦根に移された。

寺町
てらまち

[現在地名]会津若松市行仁町ぎようにんまち

竪三日たてみつか町の北に並び、東は千石せんごく町のうちの餌指えさし町末より西は行人ぎようにん町に至る、長さ一町三八間・幅四間余、家数二八。昔寺院が多かったので町名となった(新編会津風土記)。文化四年(一八〇七)の「若松風俗帳」に「此町御家人並職人雑居仕り候」とある。明治八年(一八七五)には家数三六・人数一九一(若松県地誌資料)。町の北側東に浄土真宗本願寺派真龍しんりゆう寺があり、本尊阿弥陀如来像の背後に「慶長九年九月二十三日、奥州会津郡後町真龍寺」と記されている。

寺町
てらまち

[現在地名]函館市弥生町やよいちよう大町おおまち

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町で、翌六年の町名再整理で富岡とみおか町となり、寺町の町名は廃された(明治五年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)。大町の通りの上手(山手)を走る通りの町で、函館山に向かって東側から青龍山浄玄じようげん(現真宗大谷派函館別院)・護念山称名しようみよう寺・一乗山実行じつぎよう寺が並んでいたため、近世から寺町とよばれていた。享和元年(一八〇一)の分間箱館全図でも三ヵ寺の門前を通る道に「寺町」と記される。安政四年(一八五七)に箱館に初めてやってきた米国貿易事務官ライスは浄玄寺の別堂を仮宿所とし、翌五年には初代箱館駐在露国領事ゴシケヴィッチ一行が実行寺を、翌六年には初代箱館駐在英国領事ホジソンが称名寺をそれぞれ仮宿所としている。

寺町
てらまち

[現在地名]大津市御幸町みゆきちよう春日町かすがちよう末広町すえひろちよう京町きようまち一―二丁目

金塚かなづか町から松屋まつや町に並ぶ町並の東側に、南北に長く町割が行われており、寛保二年町絵図には寺町上中下組と記される。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえる。慶応元年(一八六五)大津宿役を負担した役家数は七三軒(大津市志)。「輿地志略」が寺町所在の寺院としてあげるもののうち、日蓮宗の真常しんじよう寺はもと天台宗で松本まつもとにあったが、永仁六年(一二九八)の改宗、天正九年(一五八一)の移転という。

寺町
てらまち

[現在地名]福知山市字寺

福知山城下の北部、主要部は由良川堤防に沿う。京街道沿いの両側町で南東は菱屋町ひしやまち、北西は丹後口を経て鋳物師町いもじまちに続く。城下町建設時に北方の固めとして寺院を集中させたもので、有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図には、のちの法鷲ほうじゆう寺・常照じようしよう寺などを含めた地域には「寺屋舗」とのみ記され、寺名はみえない。松平忠房時代(慶安―寛文)の福知山城下図には街道の東側に南から常照寺・法樹(鷲)寺・西蓮さいれん寺・久昌きゆうしよう寺・善行ぜんぎよう寺・正眼しようげん寺の六ヵ寺が並んで描かれる。

寺町
てらまち

[現在地名]武生市きよう町一丁目・三丁目

むろ町を西へ折れた通りで、西詰に引接いんじよう寺がある。正徳元年(一七一一)の府中惣絵図には当町を引接寺門前と記し、安永三年(一七七四)の前田家文書では家数七一(武生市史)。通りの北側東方に国分寺、南側は常眼じようげん(大正一二年本多町に移転)報恩ほうおん寺・妙国みようこく寺・栄久えいきゆう寺の諸寺院が並び(正徳元年の府中惣絵図)、嘉永四年(一八五一)の記録からは寺町とみえ、家数九〇(南条郡誌)

報恩寺は天台宗。日蓮宗妙国寺は京都の妙顕寺末で応仁元年(一四六七)日東の創建。

寺町
てらまち

福山城下のひがし町のうち、笠岡かさおか街道を挟んだ東部地域には寺院が建並び、寺町とよばれた。水野時代福山城下地図をみると、笠岡(現岡山県笠岡市)より吉津よしづ川に架かる三枚さんまい橋を経て城下に入った街道沿いには、南に道証どうしよう寺・最善さいぜん寺・一心いつしん寺・じよう(浄)がん寺、向い合った北側に賢忠けんちゆう寺・光政こうしよう寺・大念だいねん寺・洞林とうりん寺・光善こうぜん寺・寂円じやくえん寺が描かれる。

寺町
てらまち

[現在地名]豊岡市中央町ちゆうおうまち

宵田よいだ町・なか町の西側に成立。両町の町筋を本町ほんまち通とよぶのに対しうら町と通称。天正一〇年(一五八二)発足の豊岡町(城下)五町の一。同年地子免除(免除高一一石四斗余・反畝合七反一畝余)となる(「豊岡五町御免地旧記之写」鳥井家文書)。南から日蓮宗立正りつしよう寺・浄土宗来迎らいこう寺と並び、ともに城下町成立時の創建または転入と伝えるが時期は不詳。元禄六年(一六九三)来迎寺の北に接して曹洞宗自性じしよう院が転入。

寺町
てらまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

三町目の北にある東西の町筋。東は川端の木戸から西の横町筋まで二町の両側町。ほぼ中央で南北に走るとおり町と交差する(宝永元年加里屋町絵図)。松平輝興時代絵図に「寺町」とみえる。加里屋町絵図には「寺町筋二丁」とあり、家数二六、うち貸家五。町筋の北側に臨済宗随鴎ずいおう(間口三四間・奥行二四間、現臨済宗妙心寺派)、西隣に真言宗遠林えんりん(間口二二間・奥行二四間)の二寺が並ぶため、四町目でなく寺町とよばれた。随鴎寺は大川河口の海面に鴎が多く見られることからの寺名。

寺町
てらまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目・照手てるて一―二丁目

上呉服かみごふく町を西に折れたところにあり、東西に延びる町で、北は西山にしやま町、南はえびす町、三橋みつはし町。柴田勝家時代以来の寺町と考えられる。慶長年間北庄四ツ割図では上寺かみてら町・下寺町・寺横町に分れ、家数はそれぞれ四四軒・三六軒・三二軒。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「上寺町 百拾三間、往還ヨリ下寺町迄、但二町分、但道幅三間」「下寺町 六拾七間、上寺町ヨリ土居屋敷町迄、但道幅三間」「寺横町三町 百八拾三間、但三町分、但道幅二間」と記す。

寺町
てらまち

[現在地名]高砂市高砂町横町たかさごちようよこまち

元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)に寺町とみえ、北堀きたほり川の西端から西堀川沿いに北は農人のうにん町から南は大工だいく町にかけて極楽寺・西福さいふく寺・延命えんめい寺・十輪じゆうりん寺・薬仙やくせん寺が連なり、町場を形成した。十輪寺は浄土宗西山禅林寺派で、ほかはいずれも十輪寺末寺。極楽寺は本尊青面金剛で応永三一年(一四二四)の中興、西福寺は本尊阿弥陀如来で同年の中興、延命寺は本尊地蔵菩薩で慶安年間(一六四八―五二)の中興、薬仙寺は本尊薬師如来で正保年間(一六四四―四八)の中興(高砂雑志)

寺町
てらまち

[現在地名]糸魚川市寺町一―五丁目・東寺ひがしてら町一―三丁目・南寺みなみてら町二―三丁目・押上おしあげ一丁目・一の宮いちのみや四丁目・おお町一丁目

糸魚川町の東端にあり、東は押上村に続く。西端はじようノ川に沿って南へ曲り、再度西へ折れて大町に続く。半農半漁で生計を立てていたと思われる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では寺町とあり、高一六九石六斗余、同所改出高二二石一斗余。天和三年郷帳では寺町村とあり、高二八四石余、うち塩高一三石二斗余。

寺町
てらまち

[現在地名]加賀市大聖寺寺町だいしようじてらまち

鷹匠たかじよう町西部の南にある町人町で、西はきよう町。慈光じこう院の寺伝によると同院は荻生おぎゆう村にあったが、天文年間(一五三二―五五)の乱で焼払われたため「寺町辺江立退居候ニ付、其跡を寺町与申候由、町名者紺屋町与申候由伝承候」といい(天保由緒書)、慈光院の移転で寺町とよばれるようになったが、もとは紺屋こんや町であったと伝える。

寺町
てらまち

[現在地名]黒石市きよう町 寺町

黒石陣屋の東北にあたり、うら町の東に接する。南側に感随かんずい寺・浄信じようしん寺・妙経みようきよう寺などがあり、北側に来迎らいごう寺がある。寺院の南西側には町家があり、享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)では家数は六である。文化三年(一八〇六)の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土誌)では鍛治町組に属した。

寺町
てらまち

[現在地名]八王子市寺町

横山よこやま八日市ようかいち両宿間の小路沿いに立地する。八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿のうちで、両宿の加宿。元禄(一六八八―一七〇四)以降当地に移転した曹洞宗松門しようもん寺をはじめ、同宗の長心ちようしん寺、浄土宗の西光さいこう寺などがあった(風土記稿)。元禄一五年の八王子横山宿村鑑(新野家文書)では高二一石余、家数九のうち本百姓八・水呑百姓一、人数五八、馬五、千人同心三・農間渡世(縄筵織)五・造酒屋一。

寺町
てらまち

[現在地名]出石町東条とうじよう

宗鏡寺すきようじ町の東に位置する町人町で、北は町。端町で寺家や百姓も多く住し、庄屋は宗鏡寺町が兼帯。文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、宗鏡寺町横町の東に続いて宗鏡寺山門に至る参道の北側に二条の道が記され、東側が上寺町、西側が下寺町といった。

寺町
てらまち

[現在地名]奈良市寺町

北向きたむき町の南に所在。「奈良曝」に「町役四十弐軒」とある。「奈良坊目拙解」によれば町内に一ヵ寺もなく、隣町に六ヵ寺、なかでも法華宗の四ヵ寺があることから俗に法華寺ほつけじ町といい、後に略して寺町という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「寺町」の意味・わかりやすい解説

寺町 (てらまち)

近世城下町は城郭を中心に,武士の居住地である武家地と,商人・職人の居住地である町人地で構成されたが,これらを取り囲む外郭の要所に寺院が集団的・連続的に配置された。この部分を寺町と呼ぶ。これらの寺院は,城下町建設期に領主により他の場所から招致されたり,また新しく創建されたもので,当初は領主による,おもに真宗寺院に対しての宗教統制の意味もあったと考えられる。しかし,その大規模な建築群と広い境内の機能から,主として非常時における軍事的意義を考慮して配置されていたと思われる。これらの寺院は,平時においても多人数の宿泊など,城下町における重要な都市施設としての役割も果たしていた。17世紀後半になると城下町の都市域拡大にともない,外郭に位置した関係から,寺町は移転される場合が多い。元寺町,新寺町という町名が残っている城下町が多いのはこのためである。
執筆者: 大規模な寺町の形成は,豊臣秀吉の京都の計画改造に端を発している。1590年(天正18)に秀吉は都京内の寺院を,京都市街東辺の鴨川西岸に沿って集在させ寺町とした。また,相国寺から千本通りまで東西に長い寺之内にも集中させた。この手法を前田利常は1610年(慶長15)に城下町金沢の整備に,また松平忠明は1615年(元和1)大坂再建に際し起用している。その後,各城下町の建設において寺院を集積的に存在させた街区がつくられた。その形態はさまざまだが,まず城下町の外延部の一地区に寺院を集中させるか,あるいは周辺外延部に列状配置させるか,あるいは街道の城下町への出入口付近に寺院を配するかである。一方,城下町内部でも,枢要な街区に分散的に配置させるか,また直線状に配置させるといった形態がある。隣り合う藩で利害関係が対立したり,また歴史的に紛争があったりすると,隣藩両者が対面する側に寺町を設けている場合がみられる。これは軍事的配慮に基づくと考えてよい。なお,江戸に比較的近い城下町のうちで,江戸に面する側には寺町を配置しないように気配りしている事例もある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「寺町」の意味・わかりやすい解説

寺町【てらまち】

城下町の一部で寺院の集まった区域。多くは町の中,または市街周辺に配置される。
→関連項目福知山

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺町」の意味・わかりやすい解説

寺町
てらまち

都市域の一部に寺院が数多く存在しているところ。おもに近世城下町に起源をもつ都市に多い。城下町の周辺部には多くの寺院を設置したが,これは城郭の外縁の防備のためという政策上の意図が強かった。たとえば,新潟県上越市の高田の場合は,城の外堀の南に町屋があり,さらに田地をへだてた町の外縁に寺院がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺町」の解説

寺町
てらまち

近世の城下町で,寺院が集中的に配置された街区。城郭・武家地・町人地とともに城下町の主要な要素であり,軍事的な意味や宿泊施設としての役割も担った。

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事典・日本の観光資源 「寺町」の解説

寺町

(三重県伊賀市)
伊賀のたからもの100選」指定の観光名所。

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