対ソ干渉戦争(読み)たいソかんしょうせんそう

精選版 日本国語大辞典 「対ソ干渉戦争」の意味・読み・例文・類語

たいソ‐かんしょうせんそう ‥カンセフセンサウ【対ソ干渉戦争】

(「ソ」は「ソ連」の略) 一九一八年から二〇年にかけての戦争。十月革命直後、ソ連に社会主義政権が確立することを恐れたイギリスフランスアメリカ・日本などがソ連国内の反革命勢力援助のために出兵した。反革命勢力の敗北に終わる。

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改訂新版 世界大百科事典 「対ソ干渉戦争」の意味・わかりやすい解説

対ソ干渉戦争 (たいソかんしょうせんそう)

1917年の十月革命によってロシアに成立したソビエト政権と,それに反対する反ソビエト派諸勢力との間で闘われた内戦と一体となった,外国軍によるソビエト政権に対する軍事干渉戦争(1918-20)。

 十月革命において,ロシア中央部におけるソビエト権力の樹立は,首都ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)やモスクワでの一時的な武力衝突を除いて,ほぼ平和裏に行われた。これに反し,旧ロシア帝国周辺や諸民族地域でのソビエト政権樹立は激しい武力衝突をともなった。1918年1月,ドンやクバン地方では旧帝政軍の将軍カレージン,コルニーロフデニキンなどのコサック軍や〈義勇軍〉とソビエト軍の戦闘が始まった。ウクライナはブレスト・リトフスク講和の結果,ドイツ軍の占領下に置かれ,4月にはスコロパツキーを首班とするドイツの傀儡(かいらい)政権がつくられた。このような中で,1917年12月の〈英仏秘密協定〉によって南ロシアの干渉範囲を取り決めていたイギリス,フランス両国は,反革命派を援助するとともに日本,アメリカに対しシベリア・極東地域への軍隊派遣要請工作を強化した。

 連合国による全面的干渉戦争の開始は,1918年5月におこったチェコスロバキア軍団の反乱を契機としている。ヨーロッパ戦線への移動のため,シベリア鉄道によってウラジオストクを目指すチェコスロバキア軍の反乱は,鉄道沿線の諸都市に反ソビエト派政権を生み出したが,8月,日本,アメリカはこのチェコスロバキア軍救援を口実にシベリア・極東に出兵した(シベリア出兵)。日本軍は10月,極東地域に連合国軍中最大の7万3000人を超す兵力を投入した。同じころ,イギリス,フランス軍も北部ソビエト・ロシアに派兵された。これに対してソビエト政権は,赤軍の強化をはかるとともに,戦時共産主義と呼ばれる一連の経済政策を導入,国内体制の軍事化をはかった。

 干渉戦争にとっての大きな転換は,1918年11月のドイツの第1次世界大戦敗戦である。この結果,イギリス,フランスを主力とする干渉軍が〈秘密協定〉にもとづき南ロシアに侵入し,その兵力はおよそ7万5000~8万5000人を数えた。シベリアでも連合国に支援されたコルチャーククーデタおこし,軍事独裁政権を樹立した。19年2月には,14ヵ国の連合国軍はおよそ13万を数え,白衛軍部隊と合流してロシア中央部への進撃を予定していた。しかしこれは成功しなかった。ソビエト軍は南部での攻勢に成功し,他方では連合国軍兵士の戦闘拒否が広がったからである。19年4月には黒海のフランス艦隊で反乱がおこり,イギリス,フランス両軍は上陸部隊の撤退を余儀なくされた。

 内戦と干渉戦争は1919年をピークとしつつ20年まで続いた。20年春,南部ではデニキン軍主力が粉砕され,東部でもコルチャーク軍に勝利した赤軍がイルクーツクを占領した。ただ西部でのみ,20年4月,突然始まったポーランドとの戦争が10月まで続いた。すでに同年1月,連合国はソビエト・ロシアの封鎖の解除を宣言,対ソ干渉戦争の主要な時期は終わったといえる。ただ極東地域のみは,アメリカ軍撤兵後も日本軍の残留は続き,ウラジオストクが解放されるのは22年10月末のことである。
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百科事典マイペディア 「対ソ干渉戦争」の意味・わかりやすい解説

対ソ干渉戦争【たいソかんしょうせんそう】

第1次大戦末期,ブレスト・リトフスク条約によって戦線離脱をしたソ連に対し,連合国が社会主義政権打倒をめざして始めた戦い。1918年春から英仏を中心とし日本も積極的に参加(シベリア出兵)。とくに1918年5月のチェコスロバキア軍団の反乱はボルガ流域から極東にいたる広範囲に反革命政権を生み,また日本や米国はチェコ軍団救援を介入の口実とした。この結果ソ連国内での革命軍とコルニーロフデニキンコルチャークらの率いる反革命軍との内戦も本格化した。大規模な軍事的干渉は一時的だったが,1920年まで連合国の反革命軍への支援は続いた。→戦時共産主義
→関連項目十月革命シュテファーニクソビエト連邦ロシアロシア革命

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対ソ干渉戦争」の意味・わかりやすい解説

対ソ干渉戦争
たいソかんしょうせんそう
Foreign Intervention in Russia

1917~22年,シベリア出兵と並んで,革命勃発後のロシア西部および中央部で行われた,諸外国によるさまざまな軍事干渉。ドイツは 18年3月の対ソ単独講和後もウクライナの反革命派の支援を継続。他方連合国は,7月にロシア軍の武器が敵側に渡るのを防ぐという名目で,北ロシアのムルマンスク,アルハンゲリスクに軍隊を上陸させ,10月にはオデッサを含む南ロシアにも派兵,ロシア周辺の封鎖を宣言した。諸外国から直接,間接に支援された白衛軍の将軍や提督たち (シベリアからボルガ地方にかけての A.V.コルチャク,ドン川地方の A.I.デニーキン,L.G.コルニーロフ,バルト地方の N.N.ユデニチ) は勢力を拡張し,ソビエト政権は一時ごく狭い地帯に追いつめられた。しかし農民がソビエト政権と赤軍を支持したため,白衛軍は 19年秋には各地で敗退,また連合国も内部的な不和や,干渉政策に対する自国での不人気が重なって撤兵を余儀なくされ,20年1月に封鎖を解除した。なおも干渉を続けたのは新興国ポーランドで,白衛軍の P.N.ウランゲリと呼応してウクライナを攻撃し,20年5月にはキエフを占領。その後ポーランドは一時ワルシャワ近くまで後退したが,フランスの支持を得て立直り,ベラルーシ人,ウクライナ人地域を大きく取込み,10月のリガ条約によりようやく講和に到達した。日本のシベリア撤兵により全体としての干渉戦争は 22年 10月終結した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「対ソ干渉戦争」の解説

対ソ干渉戦争(たいソかんしょうせんそう)

ロシア革命に対する列強の軍事干渉と,その支援を受けた国内反ボリシェヴィキ勢力の反乱。(1)第1期は1918年5月までで,反ボリシェヴィキ勢力の最初の結集と攻撃,連合国の支援と干渉の決定,ドイツ‐トルコ軍のウクライナカフカース侵入がみられた。(2)第2期は18年5月のチェコ軍団の反乱に始まる干渉戦争の本格的開始の時期。英・仏は北部,南部,カフカースに,米・日はシベリアに侵入した。(3)第3期は19年3月東部戦線でのコルチャーク軍の攻勢に始まり,同年9月南部戦線でのデニキン軍の攻勢があったが,いずれも敗北し,日本軍を除き連合国軍も撤退し,干渉戦の帰趨が明らかとなった。(4)第4期は,20年4月ポーランド軍の侵入に始まり,ヴランゲリの攻勢もあったが,いずれも敗北した。(5)第5期は20年末より22年末までで,カフカースの完全解放と日本軍の撤退をもって終わった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「対ソ干渉戦争」の解説

対ソ干渉戦争
たいソかんしょうせんそう

1918〜22年,ソヴィエト政権の壊滅をはかって,反革命派とこれを支援する帝国主義諸国が起こした戦争
1918年3月イギリス・フランス軍が北ロシアのムルマンスクに,4月にはシベリアのチェコ人部隊救出のため日本・イギリス・アメリカ軍がウラジヴォストークに,11月にはイギリス・フランス軍が南ロシアのオデッサに上陸した。ソヴィエト側は戦時共産主義政策をとり,赤軍を充実させて反撃したため,反乱は鎮圧され,各国も1921年までに撤兵したが,日本だけはシベリアに22年まで残留した(北樺太 (からふと) 油田は1925年まで)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「対ソ干渉戦争」の意味・わかりやすい解説

対ソ干渉戦争
たいそかんしょうせんそう

干渉戦争

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