対馬(読み)つしま

精選版 日本国語大辞典 「対馬」の意味・読み・例文・類語

つしま【対馬】

[1]
[一] 長崎県北部、対馬海峡の東水道と西水道との間にある島。西海道一一か国の一つ。対馬海峡東水道を隔てて壱岐に、対馬海峡西水道を隔てて朝鮮半島に対する。早くから大陸との交通・軍事上の要地として開け、天智天皇三年(六六四)には防人(さきもり)と烽(とぶひ)が置かれた。鎌倉中期から宗氏が支配し、室町・江戸時代を通じて朝鮮貿易の特権を握る。明治四年(一八七一廃藩置県により厳原(いずはら)県となり、同年、佐賀県と合併して伊万里県となる。同五年長崎県に編入。平地は少なく、好漁場を控えて、漁業を主産業とする。多島海の景観を見せる浅茅(あそう)湾などが壱岐対馬国定公園の一部に指定されている。対州(たいしゅう)
[二] 長崎県北部、①を占める市。平成一六年(二〇〇四)に島内六町が合併して市制施行。
[2]
※胎金瑜伽記(855‐873)金剛瑜伽記「読砧。如日本対馬唱貪字。従出」
③ 「つしまど(対馬砥)」の略。

たい‐ま【対馬】

〘名〙 将棋で、対等の手合割りで指すこと。また、将棋の技量が互角であること。平手。〔書言字考節用集(1717)〕

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デジタル大辞泉 「対馬」の意味・読み・例文・類語

つしま【対馬】


旧国名の一。現在の長崎県対馬全島にあたる。対州たいしゅう
[補説]古くは「津島」とも書いた。
九州朝鮮半島との間にある島。面積約698平方キロメートル。長崎県に属する。古くから朝鮮半島や中国との通路にあたる要地。漁業を主産業とする。
長崎県の対馬を占める市。平成16年(2004)に厳原いづはら町、美津島みつしま町、豊玉町、峰町、上県かみあがた町、上対馬かみつしま町が合併して成立。漁業が主要産業。人口3.4万(2010)。

対馬音」の略。
対馬」の略。
対馬焼」の略。

たい‐ま【対馬】

平手ひらて2」に同じ。
将棋の技量が互角であること。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「対馬」の意味・わかりやすい解説

対馬
つしま

九州と朝鮮半島との間にある島。長崎県対馬市に属する。古くは対馬国あるいは対州(たいしゅう)とよばれた。面積696.29平方キロメートル(2005)。博多(はかた)港から壱岐(いき)を経て海路120キロメートルにあり、北は朝鮮海峡を隔てて韓国の釜山(ふざん)までわずかに40キロメートルの距離にある国境の島である。古くから大陸とわが国との文化、経済、軍事上に重要な役割を果たした。弥生(やよい)遺跡や古墳や延喜(えんぎ)式内社が多く、日本最古の銀山があった。このことは、渡来人や政府使節がもたらした文化と貿易によって得た日本の利益はとくに大きかったことを示す。そのほか、防人(さきもり)(7世紀)、文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役の元寇(げんこう)(13世紀)、文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)(16世紀)、倭寇(わこう)や刀伊(とい)などの歴史的背景を有する。明治以後は全島要塞(ようさい)地帯となり、現在では開発途上地帯として島の経済・文化の停滞性が指摘される。しかし島の国際的重要性は通信や軍事のうえで示され、1975年(昭和50)には世界的な電波灯台海上保安庁オメガ局(オメガ塔)が設置された(1997年廃止)。このほかに水中聴音器(ソナー)(海上自衛隊)、デッカ局(海上保安庁)などの施設があり、海上・陸上の警備隊が配置されている。人口3万6227(2009)。

[石井泰義]

自然

地学的には、かつて大陸の動植物が陸上を伝わってきた陸橋と認められている。現在の地形は、第三紀層からなる地塁山地で、標高約400メートルの隆起準平原の山容を呈し、これを刻む河谷は壮年期の渓谷をつくっている。南北に走る主分水界は東に片寄り、河川は西側では比較的緩やかに流れ、東側では短小で急傾斜をなす。海岸は沈降型を示す所が多く、中央部の浅茅湾(あそうわん)では日本一の溺(おぼ)れ谷景観を展開している。こうした自然景観は、歴史的背景と相まって壱岐対馬国定公園に指定されている。

[石井泰義]

交通

1979年(昭和54)対馬空港(対馬市美津島町(みつしままち)地区白蓮江(しれえ))が開設され、福岡、長崎への空路があり、博多(はかた)港から厳原港(いづはらこう)、比田勝港(ひたかつこう)にジェットフォイルフェリーが就航している。島内交通は各地の主邑(しゅゆう)を結ぶ海上交通が開かれ、大船越(おおふなこし)瀬戸は元禄(げんろく)年間(1688~1704)、万関(まんぜき)瀬戸は日露戦争(1904)前に開設した水路である。かつては陸上交通はきわめて不便で、対州馬をおもな交通手段とし、河谷を利用した河床道(かしょうどう)が主であり、道路はまったく未開発で、軍用道路として厳原―雞知(けち)間に近代的道路が開かれているにすぎなかった。第二次世界大戦後、各地に林道がつくられ、現在では南北を貫く対馬縦貫道路(国道382号)が完成している。厳原港、比田勝港からは韓国の釜山へ高速船の便(不定期)がある。

[石井泰義]

産業

山地が多いため耕地はわずかに2%足らずで、耕地の不足を補うため古くから林野での木場(こば)作(焼畑)が行われ、アワ、ソバ、ダイズがつくられたが、現在は木場作は廃止され、普通畑でのサツマイモ、ジャガイモ、ムギの生産を主としている。牧畜は、かつて対州馬を産したが、いまはまったく衰えている。全島の89%が林野で占められているが、明治以後要塞に指定され、森林の開発は停滞、わずかに天然のマツを利用した杭木(こうぼく)の生産や木場作跡地の雑木林からの薪炭の生産にとどまっていた。1959年(昭和34)対馬林業公社が発足、5335ヘクタールを造林したが2001年度を最後に造林はしていない。また、薪炭の生産も、灯油が家庭燃料として主役を占めるに及んで停滞し、そのかわりにシイタケ栽培が盛んとなり、農林業所得の重要な地位を占めている。

 漁業はイカを中心に、タイ、ブリなどの一本釣りや沿岸での定置網漁業が主である。真珠養殖も盛んである。

 鉱業は674年(天武天皇3)佐須(さす)・椎根(しいね)地区においてわが国最初の産銀が行われ、明治以後は亜鉛と鉛が採掘(対州鉱山)されたが、1973年(昭和48)閉山し、付近一帯はカドミウム汚染要観察地区に指定されている。

[石井泰義]

観光

朝鮮式山城(やまじろ)の遺構をもつ城山(じょうやま)をはじめ、防人たちに親しまれた浅茅山(あさじやま)(いずれも対馬市美津島町地区)あるいは金石城、万松(ばんしょう)院や武家屋敷の高塀など(同市厳原町地区)の史跡、島内各地にみられる高床式の俵物(ひょうもん)小屋(穀物倉)や頁(けつ)岩を利用した石屋根の家屋景観、万関橋・大船越橋などの特色ある交通景観があり、さらに浅茅湾をはじめとして各地にみられる海岸美、海洋美や奥地にみられる紅葉の渓谷美などがあげられる。

[石井泰義]

『『対馬の自然と文化』(1953・九学会連合対馬共同調査委員会)』『『壱岐・対馬自然公園学術調査報告書』(1965・日本自然保護協会)』『長崎県生物学会編・刊『対馬の生物』(1976)』『永留久恵著『古代日本と対馬』(1985・大和書房)』『矢野道子著『対馬の生活文化史』(1995・源流社)』『岡田啓助著『対馬の信仰と説話の研究』(1997・おうふう)』


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改訂新版 世界大百科事典 「対馬」の意味・わかりやすい解説

対馬[市] (つしま)

長崎県対馬にある市。全島で一市を構成する。2004年3月厳原(いづはら),上県(かみあがた),上対馬(かみつしま),豊玉(とよたま),美津島(みつしま),峰(みね)の6町が合体して成立した。人口3万4407(2010)。

対馬市南部の旧町。旧下県郡所属。1908年町制を施行し,56年久田(くた),佐須,豆酘(つつ)の3村と合体。人口1万5485(2000)。町の中心をなす東岸の旧厳原町は県の出先機関が集中する対馬の中心地であり,博多港からフェリーが就航する。古代には対馬島の国府が置かれ,文明年間(1469-87)宗貞国が,居城を旧峰町から移して以来金石城の城下町となり,近世まで府中または府内と呼ばれた。金石城跡近くには,宗氏歴代の霊をまつる万松院がある。国道382号線の馬場筋通りは武家屋敷が多く,往時の長屋門や石垣が残っている。古くから日朝交渉の窓口であった厳原港は,第2次世界大戦後重要港湾に指定され,日韓片道貿易が1952年ころから始まり,最盛期の60年には貿易商社が20軒も立ち並んだが,65年の日韓条約以後は衰退している。港から川端通りにかけては柳並木のある商店街があり,昔日の繁栄がしのばれる。町域の80%は山林で,用材やシイタケの生産が盛んである。わずか10%の耕地を利用した農業は,米,肉用牛の生産が行われている。水産業は対馬を代表する近海のイカ釣漁業とブリ飼付漁があるが,ブリの水揚げ量は全体の30%を占める。樫根にあった東邦亜鉛対州鉱山は亜鉛,鉛を産したが,カドミウムによる公害が生じ輸入原鉱にも押されて73年閉山した。北部の上見坂(かみざか)は溺れ谷の浅茅(あそう)湾を眼下に,遠くは九州,朝鮮半島の山々を望める景勝地である。リアス式海岸が発達する東海岸一帯や暖帯常緑樹の原始林を残す竜良(たてら)山などは壱岐対馬国定公園に指定されている。また農産物収納小屋の屋根に板状の水成岩を使う石の屋根は全島的にみられたが,今は西岸の椎根(しいね)地区などに残る程度である。
執筆者:

対馬市北西部の旧町。旧上県郡所属。人口4494(2000)。御(み)岳(479m)を最高峰として標高300m内外の山地が連なり,仁田川,佐護川の二大河川が西流する。海岸線は複雑なリアス式海岸をなし,湾入部の多くは天然の良港となっている。平地が少なく,海岸部の小平地や河川流域に集落が点在しており,国道382号線が縦貫する。役場所在地の佐須奈は古くから朝鮮貿易の窓口として栄え,現在も郡内を管轄する行政諸機関が集中する。産業の中心は漁業で,ブリ,イカなどの漁獲が多く,ハマチ,タイなどの養殖も盛ん。全山草地の千俵蒔(せんびようまき)山は韓国を見渡せる好展望地で,山頂には電波灯台デッカ局がある。御岳は鳥類繁殖地として天然記念物に指定されている。

対馬市北端の旧町。旧上県郡所属。人口5226(2000)。北西部は対馬海峡に面し,韓国まで約53kmの距離にある。標高100~300m前後の山地が海岸に迫り,総面積の大部分が林野で,耕地はきわめて少ない。海岸線は屈曲に富み,湾奥のわずかな平地に耕地と集落が点在する。天然の良港と沿岸漁場に恵まれ,漁業が産業の中心で,はえなわ,一本釣り,定置網,養殖などが行われる。漁業以外では杉,ヒノキの造林,シイタケ,肉用牛の生産が盛ん。国境の町のため海栗(うに)島には航空自衛隊レーダーサイト,鰐浦には海上自衛隊上対馬警備所と海上保安庁トーキング・ビーコン局,比田勝北東部の権現山にはロラン局(両局は現在廃止),舟志湾には東洋一の電波灯台(現在跡地はオメガ塔跡地公園となっている)がある。海岸線は壱岐対馬国定公園の一部で,鰐浦ヒトツバタゴ自生地は天然記念物。古里の塔の首遺跡は弥生後期の埋葬遺跡で史跡に指定されている。

対馬市中部の旧町。旧下県郡所属。1975年町制。人口4705(2000)。浅茅湾北岸に位置し,東は対馬海峡(東水道),西は対馬海峡(西水道)に面する。町域は北部の黒隈(くろくま)山(242m)を最高峰とする丘陵性山地が連続し,総面積の大部分が山林である。海岸線は出入りの多いリアス式海岸で,湾奥や河川沿いのわずかな平地に主集落の仁位(にい)などの集落が散在する。基幹産業は漁業で,漁船の大型化,設備の近代化にともない,沿岸漁業から沖合漁業へと進出している。イカの一本釣り,真珠,タイ,ハマチ,ワカメの養殖も盛んである。シイタケ栽培や畜産も行われる。仁位に豊玉姫命をまつる和多都美(わだつみ)神社がある。

対馬市中南部の旧町。旧下県郡所属。人口8423(2000)。東部は対馬海峡(東水道)に面し,西部はリアス海湾の浅茅湾を抱く。地形はほとんどが標高200m以下の丘陵性山地であるが,西部は白嶽(しらだけ)(515m)を最高峰とする山地が急傾斜をなして海に迫る。浅茅湾と対馬海峡(東水道)を結ぶ大船越瀬戸は1672年(寛文12)に,万関(まんぜき)瀬戸は1900年に開削されたもので,東西海域を結ぶ航路となっている。町域を国道382号線が縦貫し,大船越西部には対馬空港(1975完成)がある。雞知(けち)は平安末期から鎌倉前期にかけて対馬を支配した阿比留氏の本拠地であったと考えられる。浅茅湾内の竹敷は旧海軍の要港で,現在は海上自衛隊の基地となっている。産業は水産業を基幹とし,イカ漁のほか,真珠,ハマチ,タイ,アジなどの養殖が盛んである。シイタケも多産する。浅茅湾は壱岐対馬国定公園を代表する景勝地で,浅茅湾南岸の城山には朝鮮式山城の金田(かなだ)城跡(特史)があり,対馬で唯一の前方後円墳を主体とする根曾古墳群(史),洲藻(すも)白嶽原始林(天)などもある。

対馬市中北部の旧町。旧上県郡所属。1976年町制。人口2897(2000)。東は対馬海峡(東水道),西は対馬海峡(西水道)に面する。丘陵性山地が町域の85%を占め,中央部を大星山(348m)を主峰とする対馬山系が南北に連続し,町域を東西両地区に分けている。産業形態も東西で異なり,東部は漁業,西部は農林業を主体とする。西部の三根湾に注ぐ三根川や吉田川の流域は対馬でも数少ない田園地帯となっている。東部地区を中心とする漁業はイカ釣りや定置網漁が盛んで,佐賀(さか)港は対馬中央部における中心漁港である。林業ではシイタケ栽培が中心。木坂の海神(わだつみ)神社は対馬一宮で,古くは木坂八幡と呼ばれた。境内の宝物館には国の重要文化財の銅造如来立像をはじめ多くの文化財が収蔵され,周辺は県の〈野鳥の森〉に指定されている。
執筆者:

対馬 (つしま)

九州と朝鮮半島の中間に位置する島嶼(とうしよ)群。長崎県に属し,上県(かみあがた)郡の3町(上対馬,上県,峰)と下県郡の3町(豊玉,美津島(みつしま),厳原(いづはら))に分かれていたが,2004年合併により全島が対馬市となった。かつての対馬島(つしまのしま)にあたり,九州とは対馬海峡東水道,朝鮮半島とは同西水道によって隔てられ,大陸と日本との交通の要衝としての役割を果たしてきた。日常生活の面では福岡県との関係が強い。

 主島の対馬(面積698km2)は中央部に西から浅茅(あそう)湾が深く湾入し,湾奥は万関(まんぜき)瀬戸により分断され2島からなるようにみえるが,瀬戸は人工的に開削されたもので,もとは一つの島である。地質は,大部分が対州層群とよばれる第三紀層で,おもに黒灰色のケツ岩からなり,これに砂岩が挟まる場合が多い。また対州層群に貫入する花コウ岩などの火成岩が露出するところもある。全島にわたって険しい山々が連なるが,山頂部には平たん面がみられ,山地は隆起準平原と考えられる。北部の御岳(みたけ)(479m)や香ノ木(こうのき)山(307m)は準平原上に突出した残丘であり,南部の内山盆地は,貫入した花コウ岩が浸食され盆地が形成されたものである。海岸は浅茅湾に標識的にみられるリアス海岸である。

 全島の87%が山林でおおわれて平地は少なく,農業は振るわない。作付面積がもっとも多いのは水稲であるが,島内の米消費量の4割弱の生産をあげるにすぎない。山林は薪炭材や炭鉱の坑木,パルプ材として利用されてきたが,今日では建築用材としての杉,ヒノキが重要性をもつにいたり,1959年に設立された対馬林業公社などによって,年々造林面積は拡大している。60年ころからは豊富なコナラなどの原木資源を利用したシイタケ生産が盛んとなり,長崎県の干しシイタケ生産のほとんどを占める。品質は優れ,とくにドンコは定評がある。対馬で最も重要な産業はイカ,ブリ,タイの漁業である。かつてはイカ漁業が対馬漁業の代名詞のようにまでいわれていたが,島の西側漁場が日韓漁業協定による共同規制水域の設定で出漁隻数に制限をうけ,漁獲高は年々減少している。またタイ,ハマチ,真珠の養殖が行われている。とくに浅茅湾を中心とする真珠養殖は,大正期に島外業者によって導入されたもので,第2次大戦後急速に伸びて地元民による養殖も行われており,養殖真珠の日本三大産県の一つである長崎県の総収獲量の約4割を占めている。地下資源は亜鉛,鉛を埋蔵し,東邦亜鉛が旧厳原町佐須地区の対州鉱山で採掘し精錬していたが,カドミウム公害の発生もあって73年に閉山し,めぼしい鉱工業は島から消えた。

 変化に富んだリアス海岸と美しい自然林,多くの史跡に恵まれ,1968年壱岐対馬国定公園に指定された。72年には大型フェリーが厳原~博多間に就航,75年には対馬空港が旧美津島町に開設され,さらに対馬を縦貫する国道382号線も整備されつつある。
対馬島
執筆者:

対馬はその地理的位置から明らかなように古代から日本と朝鮮半島との交流の舞台であり,とくに江戸時代には朝鮮との交流が許可された唯一の地域である。対馬における本格的な民俗学的調査は1950-51年に行われた九学会連合対馬調査に始まるが,士族・本戸(ほんこ)・寄留などの身分制度,村落の二元的構成,親分・子分関係(オヤカタ・コドモウチ関係とオハグロオヤ・オハグロゴ関係),隠居制,天童信仰など日本民俗文化を考察するにあたっての多くの重要な文化項目が認められる注目すべき地域である。対馬には現在も旧士族が村落に居住し,本戸,寄留などとともに厳格な身分制度を形成し,村落のさまざまな権利関係や祭祀などに特別の秩序が認められる。この身分制度は村落類型論の視点からみればオヤカタ・コドモウチ関係とともに東北日本型村落の要素であるが,一方において隠居制家族や年齢集団のように西南日本型村落の要素も多くみとめられる。対馬の村落社会は,原理的に異なるこれらの諸要素が複合して複雑な社会構造が形成されているのである。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「対馬」の意味・わかりやすい解説

対馬【つしま】

九州北西海上,朝鮮半島との間にある島。面積696.62km2。かつての対馬島。浅茅(あそう)湾により南北2島に分かれ,両島間は典型的なリアス式海岸を呈する。全島山がちで農業は振るわず,林業,漁業が主。有名な対州(たいしゅう)馬の飼育は,現在はあまり行われない。中心は南東岸の対馬市厳原(いづはら)。海岸部は壱岐対馬国定公園に属する。
→関連項目上県[町]上対馬[町]朝鮮通信使投馬国豊玉[町]長崎[県]美津島[町]峰[町]ロシア軍艦対馬占領事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対馬」の意味・わかりやすい解説

対馬
つしま

長崎県北西端,九州島と朝鮮半島とのほぼ中間にある国境の島。六つの有人島と約 70の無人島からなり,全島で対馬市を形成する。南北約 82km,東西約 18km。おもに砂岩からなるゆるやかな起伏の山地で,中央部に浅茅湾がある。中世以降,宗氏の支配地で厳原はその城下町,朝鮮貿易の開港場であった。日本海の出入口にあって,大陸との交通上,軍事上の要地にあたり,外寇の悲史が多い。また,浅茅湾は倭寇の根拠地であった。第2次世界大戦終戦までは全島が要塞地帯であり,日露戦争時の対馬沖海戦は有名。中心集落は厳原と比田勝 (上対馬町) で国道 382号線で結ばれ,博多,小倉との間にそれぞれ定期船が就航している。美津島町には空港があり,福岡,長崎と結ばれている。鉛,亜鉛,銅などを産出していた厳原の対州鉱山は,付近一帯がカドミウム汚染要観察地域に指定され,1975年閉山した。浅茅湾沿岸,北部海岸などは壱岐対馬国定公園に属し,特に浅茅湾沿岸は景勝地が多い。天然記念物のツシマヤマネコ,ツシマテン,ヒトツバタゴなど貴重な動植物がみられる。面積 697.10km2 (有人島のみ) 。人口4万 1016 (2000) 。

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旺文社日本史事典 三訂版 「対馬」の解説

対馬
つしま

長崎県,壱岐 (いき) 島の北西,九州と朝鮮半島との中間にある島
古くから大陸への交通の要地として重視された。鎌倉時代,宗氏が守護代として支配,文永・弘安の役,応永の外寇などの舞台となる。室町・江戸時代を通じて宗氏は対朝鮮貿易の利権を独占,江戸幕府下に対馬藩(府中藩)として10万石の格式を与えられた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「対馬」の解説

対馬 つしま

?-? 江戸時代の遊女。
江戸吉原海老屋に属し,正月,吉原ではじめて羽根をつき,また禿(かむろ)に羽子板をもたせて花魁道中(おいらんどうちゅう)の列にくわわらせたことで知られる。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の対馬の言及

【対馬島】より

…663年(天智2)の朝鮮半島白村江での敗戦後は国防の最前線となり,翌年に防人(さきもり),烽(とぶひ)が配備され,667年には金田(かなだ)城が築かれたが,のち1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇では大被害を受けた。古くは対馬国と称され,律令制の成立とともに上県・下県2郡を管する対馬島として国に準ずる扱いを受けた。国府・国分寺は現下県郡厳原(いづはら)町にあった。…

【対馬藩】より

…対馬国(長崎県)下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中に藩庁を置いた外様藩。藩主は宗氏,中世以来の守護大名から近世大名に転化した数少ない例。…

【畑∥畠】より

… 山間村では,この畑地にさらに焼畑が加わって農民生活を維持する。対馬の木庭(こば)では20年前後雑木を立てた林を伐採し,猪,鹿よけの垣を作り,枝や草を焼いて2~3年麦をはじめ多様な作物を作る。灌木状態の山を焼くには,数年放置したあと,刈り倒し,焼いて作物を作る。…

※「対馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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