寿福寺(読み)ジュフクジ

デジタル大辞泉 「寿福寺」の意味・読み・例文・類語

じゅふく‐じ【寿福寺】

鎌倉市扇ヶ谷おうぎがやつにある臨済宗建長寺派の寺。山号は亀谷山。開創は正治2年(1200)、開基は北条政子、開山は栄西鎌倉五山の第三位。寺宝に木造地蔵菩薩像・喫茶養生記がある。源実朝・北条政子の墓と伝える五輪塔がある。

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精選版 日本国語大辞典 「寿福寺」の意味・読み・例文・類語

じゅふく‐じ【寿福寺】

鎌倉五山の一つ。神奈川県鎌倉市扇ケ谷にある臨済宗建長寺派の寺。山号は亀谷山。治承四年(一一八〇岡崎義実源義朝の故地に草庵を建てたのに始まる。正治二年(一二〇〇)北条政子が栄西を開山に伽藍を創建。源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。

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日本歴史地名大系 「寿福寺」の解説

寿福寺
じゆふくじ

[現在地名]鎌倉市扇ガ谷一丁目

源氏げんじ山の東麓にある。臨済宗建長寺派。亀谷山寿福金剛禅寺という。本尊釈迦三尊。開山明庵栄西、開基源頼家・北条政子。鎌倉五山の一つ。

当寺一帯は源義朝邸跡であったらしい。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月七日条によれば、鎌倉入りした源頼朝はこの地に屋敷を構えようとしたが、その頃には岡崎義実が義朝菩提のため草堂を建立していたことなどから沙汰やみとなっている。義実のあと、その子土屋義清の所有となり、養和元年(一一八一)三月一日条では頼朝母のための仏事が義清の亀谷かめがやつ堂で修せられている。正治二年(一二〇〇)閏二月一二日に北条政子は伽藍建立を発願し、翌一三日に将軍頼家は義清の亀谷堂の地を明庵栄西に寄進、ただちに造営が開始された。七月一五日には佐々木定綱寄進十六羅漢の開眼供養が「金剛寿福寺」において行われ、当寺はひとまず完成したと思われる。その後も造営は続けられ、建仁二年(一二〇二)二月二九日に沼浜ぬはま(現逗子市沼間か)の義朝旧宅の旧材が、建暦二年(一二一二)七月九日には侍所の材木が寄進されている。こうして伽藍もだいぶ整ったと思われるが、宝治元年(一二四七)一一月七日の火災で仏殿以下惣門に至るまでことごとく焼失した。また同書には北条政子・源実朝らの度々の参詣、開山栄西が当寺内外で仏事を修していることなどが散見し、両者の密接な関係がうかがえる。しかし「海道記」「東関紀行」などの紀行文では当寺の記述はなく、創建当初の規模は目をみはるほどのものではなかったようであり、開山以下当寺に住した退耕行勇・蔵叟朗誉などの経歴からして、当寺は禅密兼修的な雰囲気をもっていたと思われる。

寿福寺
じゆふくじ

[現在地名]江迎町長坂免

江迎川右岸にある。栄久山密厳院と号し、真言宗智山派。本尊は釈迦如来。天正一一年(一五八三)の創建と伝え、はじめ長福ちようふく寺と号し、早岐はいき重尾しげお(現佐世保市)にあったが、寛永一二年(一六三五)平戸藩三代藩主松浦隆信(宗陽)が江迎郷の祈願所として寺基を現在地に移し、住持の玄性も移住させ、中興開山とした。この折造立された山門は仁王像がなく、屋根瓦の下の柱に駒獅子が施され、資財の不足を示すものという。

寿福寺
じゆふくじ

[現在地名]三刀屋町多久和

多久和たくわにある古刹で、出雲三十三観音の第一二番札所。飯石山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。内仏の聖観音立像は像高八四・三センチ、平安末の作と思われ、定朝様式の優品である。寺伝によれば、平安時代に播磨国書写山円教えんきよう(現兵庫県姫路市)の性空が出雲巡錫の折開いたという。その後天台宗の道場として栄えたが、永禄年間(一五五八―七〇)僧玄了のとき曹洞宗に改宗。

寿福寺
じゆふくじ

[現在地名]楠町大字奥万倉 城南

有帆ありほ川の支流、今富いまどみ川をさかのぼった奥万倉の黒五郎おくまぐらのくろごろう(現城南)にある。浄土真宗本願寺派で融光山と号し、本尊は阿弥陀如来。すぐ近くに信田之丸しだのまる城跡がある。

「注進案」によれば、室町時代、大内氏の重臣杉重良が信田之丸城主であったが、天文二〇年(一五五一)大内氏滅亡後遁世、本願寺准如の弟子となり、のち帰国。

寿福寺
じゆふくじ

[現在地名]麻生町岡

天台宗、相賀山海岸院と号し、本尊は薬師如来。「常陸誌料郡郷考」に「逢賀郷、今根小屋、岡平村の地是也、(中略)村中相賀山竜翔寺、(寿)福寺あるは、皆郷名の遺称なり」とあり、山号の由来が記される。薬師堂の材木に、当山の再興といわれる貞海の記した墨書がある。大意は御堂は聖武天皇の時代に化人が住んだことに始まり、神亀三年(七二六)行基が本尊の薬師如来を造立、応永元年(一三九四)に中興され、相賀城の鬼門として薬師如来を祀ったといい、薬師如来の胎内に「大旦那時国、応永廿九年正月廿五日申剋、大仏師法眼円慶六十七」とある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寿福寺」の意味・わかりやすい解説

寿福寺
じゅふくじ

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷(おうぎがやつ)にある臨済(りんざい)宗建長寺派の寺。詳しくは亀谷山(きこくさん)寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦(しゃか)三尊。鎌倉五山の第三位。この寺はもと源義朝(よしとも)の邸宅であったが、その没後岡崎四郎義実(よしざね)がこの地に亀谷(かめがやつ)堂を建て、1200年(正治2)北条政子(まさこ)が栄西(えいさい)を開山として伽藍(がらん)を建立したのに始まる。1215年(建保3)栄西が没すると門弟退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が住持し、この寺は日本の初期の禅宗史上で重要な地位を占めることになった。中世にはたびたび兵火にみまわれ、足利(あしかが)氏の衰退とともに荒廃が進んだ。かつては正隆庵(しょうりゅうあん)、悟本(ごほん)庵、松鵠(しょうこく)庵、桂光(けいこう)庵、大沢(だいたく)庵、定光(じょうこう)庵などや、乾徳寺(けんとくじ)などの塔頭(たっちゅう)があったが、いまは山門、中門、仏殿、客殿、庫裡(くり)を残すのみである。寺宝の木造地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像、紙本墨書『喫茶養生記(きっさようじょうき)』は国重要文化財。本尊の釈迦像(県文化財)は唐の陳和卿(ちんわけい)の作と伝えられ、籠(かご)で上を張ってあるところから籠釈迦(かごじゃか)という。境内は国史跡。なお、背後の山麓(さんろく)には源実朝(さねとも)、北条政子の墓と伝える五輪塔を納めたやぐらがある。

[菅沼 晃]

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改訂新版 世界大百科事典 「寿福寺」の意味・わかりやすい解説

寿福寺 (じゅふくじ)

神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺。正式には亀谷山寿福金剛禅寺。鎌倉五山の第3位。開山は栄西,開基は北条政子で1200年(正治2)開創。本尊は釈迦如来。1633年(寛永10)《寿福寺本末幷御寄進領之事》によれば,寺領は5貫200文,塔頭(たつちゆう)が4庵,末寺12ヵ寺とみえている。江戸中期には,寺領8貫580文,塔頭18庵,末寺15ヵ寺とやや増加するが,現在塔頭はすべて廃絶している。寺宝のうち木造地蔵菩薩立像,紙本墨書《喫茶養生記》は重要文化財。裏手の墓地には源実朝,北条政子の供養塔と称する五輪塔を納置した〈からくさやぐら〉がある。
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百科事典マイペディア 「寿福寺」の意味・わかりやすい解説

寿福寺【じゅふくじ】

鎌倉市にある臨済宗建長寺(けんちょうじ)派の寺。本尊釈迦如来。鎌倉五山第3位。1200年北条政子(ほうじょうまさこ)が創建,開山栄西(えいさい)。木造地蔵菩薩立像・紙本墨書《喫茶養生記》は重要文化財。源実朝(みなもとのさねとも)・北条政子の供養塔と称する五輪塔を納めた〈からくさやぐら〉がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寿福寺」の解説

寿福寺
じゅふくじ

神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺。正式には亀谷山寿福金剛禅寺。開山は千光国師明庵栄西で,北条政子が1200年(正治2)閏2月に開創。鎌倉五山の第3位。もと源義朝邸跡で,1180年(治承4)にはじめて鎌倉入りした源頼朝は,ここに幕府を構えようとしたが,すでに義朝の菩提を弔う堂があったことなどから断念。木造地蔵菩薩立像,「喫茶養生記」の古写本(ともに重文)などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「寿福寺」の解説

寿福寺
じゅふくじ

鎌倉市扇ケ谷にある臨済宗の寺
1200年源頼朝の妻政子の創建で栄西 (えいさい) が開山となる。幕府の保護も厚く,2度の焼失にあったが,室町時代に鎌倉五山の第3位に列した。1395年の火災で規模も小さくなった。

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デジタル大辞泉プラス 「寿福寺」の解説

寿福寺

神奈川県鎌倉市にある寺院。臨済宗建長寺派。山号は亀谷山。1200年、北条政子が栄西を開山として創建。鎌倉五山のひとつ。境内は国指定史跡。

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事典・日本の観光資源 「寿福寺」の解説

寿福寺

(神奈川県鎌倉市)
鎌倉五山」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の寿福寺の言及

【栄西】より

…また諸職人や農民の苦しい家業とその歴史的進歩をたたえ,これに対比して出家の持戒を督励しているのが注目される。99年(正治1)鎌倉に下向,北条政子と2代将軍源頼家の帰依をうけ,翌年寿福寺に請ぜられて開山となった。《吾妻鏡》はもっぱら密教祈禱僧としての活動を記録しているが,1202年(建仁2)頼家の寺地施入により京都に建仁寺を開創,また頼家の申請で朝廷はここに真言・止観・禅の三宗を置く宣旨を下した。…

【鎌倉五山】より

…鎌倉にある臨済宗の五大禅刹,すなわち建長寺円覚寺,寿福寺,浄智寺,浄妙寺をいい,京都五山に対する。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,1299年(正安1)執権北条貞時が浄智寺を五山に列したのが史料上の初見である。…

※「寿福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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