専称寺(読み)せんしょうじ

精選版 日本国語大辞典 「専称寺」の意味・読み・例文・類語

せんしょう‐じ【専称寺】

[一] 山形市緑町にある真宗大谷派の寺。山号は最上山。文明一五年(一四八三)願正が高(たかだま)(=天童市高)に草庵を創建したのに始まる。慶長元年(一五九六最上義光が娘お今の方(駒姫)の供養のために現在地に移した。
[二] 福島県いわき市平山崎にある浄土宗の寺。山号は梅福山。応永二年(一三九五)十声良就が創建。梅の名所。

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デジタル大辞泉 「専称寺」の意味・読み・例文・類語

せんしょう‐じ【専称寺】

山形市緑町にある真宗大谷派の寺。山号は最上山。蓮如の弟子、願正が文明15年(1483)現天童市に結んだ草庵に始まる。出羽五か寺の一。
福島県いわき市にある浄土宗名越派の本山。山号は梅福山。開創は応永2年(1395)、開山は良就証賢。

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日本歴史地名大系 「専称寺」の解説

専称寺
せんしようじ

[現在地名]いわき市平山崎 梅福山

磐城平いわきたいら城下の東にある丘にあり、太平洋を一望する。梅福山報恩院と号し、浄土宗名越派本山で、本尊阿弥陀如来。草創は応永二年(一三九五)浄土宗名越派三世良山妙観の高弟成蓮社良就十声(一説に良山の高弟祐誠の門弟)によって建立されたという。延徳二年(一四九〇)六世住職に就任した良大仰観は、文亀年中(一五〇一―〇四)上洛参内し、勅願所となり奥州総本山の宸筆を賜ったという。この頃より名越派本山の如来によらい寺をしのぎ、同寺に伝来する名越派の秘伝書入れである月形筥を当寺に運び、名実ともに本山への道を進み、談義所として多くの門弟を育成した。良大の衣鉢を受継いだ門弟たちにより、岩城氏やその一族の後援のもとで北は蝦夷から南は琉球王国まで全国に名越派が布教された。専称寺文書のうち知恩院二七世徳誉書状・同二八世浩誉書状・増上寺観智書状は当寺が格式ある寺であることを示す重要文書である。

徳川家康が政権を握ると、将軍に年始言上のため三代将軍の時まで登城。四代将軍家綱誕生の折には将軍に御目見、五代将軍綱吉の代に一九世良弘は御能拝見、天明三年(一七八三)浅間あさま山噴火の犠牲者の霊を慰めるための大施餓鬼を、全国六ヵ寺の一つとして同八年将軍より命じられるなどの名誉を賜った。江戸時代初期の本末制度や檀林所の設置の改革により、当寺は京都知恩院の末寺に属し、浄土宗名越派本山、浄土宗の一七ヵ所の国触頭の一つとして陸奥・出羽の両国を支配。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]山形市緑町三丁目

江戸時代城下町であった七日なぬか町の東にある。最上山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。文明一五年(一四八三)本願寺蓮如の直弟子願正坊が高擶たかだま(現天童市)に創建したことに始まると伝え、当地方に真宗が弘通した初めとされる。寺伝によると、文禄四年(一五九五)最上義光は豊臣秀次に仕えていたため斬殺された娘の駒姫を悼み、高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依して専称寺を興隆、姫の菩提を弔うため慶長元年(一五九六)当寺を山形城下の二王堂におうどう小路に移建した。しかし馬見まみさき川の出水に脅かされるため、同三年現在地に三町四方の土地と寺領一四石を寄進して伽藍を建立した。村山地方の真宗寺院を塔頭として当地に集め、のちに寺内あるいは寺町とよばれるようになった。専称寺を中心とする寺内は当時は笹谷ささや街道から北に入った位置にあり、山形城を守る戦略的に重要な場所であった。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]加賀市大聖寺鉄砲町

大聖寺鉄砲だいしようじてつぽう町の南にあり、龍華山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もと上河崎かみかわさきにあった。寺蔵の親鸞絵伝は裏書によると「加州江沼郡山ママ庄川崎専称寺住持願主釈真光」が宝徳元年(一四四九)一一月一八日に下付されたとあり、寺伝によれば前年の文安五年(一四四八)に越中国礪波となみ野尻のじり川崎かわさき(現富山県福野町)から加賀国山代やましろ庄に移転したという。越中では天台宗龍華院として創建されたが、承元元年(一二〇七)親鸞に帰依した親光が改宗して専称寺開基となり、真光はその八世という(天保由緒書)

専称寺
せんしようじ

[現在地名]多久市多久町字多久町

光明山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。

東の原ひがしのはるの多久川南岸にある。初め下多久の平瀬(現南多久町)に建立され、前多久氏が来てからは太郎宗直より五代の間菩提寺となり、宗直が上多久の梶峰かじみね山に城を築いた時(鎌倉初期か)、この寺も現在地に移ったと伝えられる。現在多久氏の供養塔のある下多久の延寿えんじゆ寺は葬地で、当寺の末寺である。

開山は行基と伝えられ、当初は天台宗であったが、弘安年中(一二七八―八八)一遍がこの地を訪れた時しばらく居住し時宗に改めたが、その後衰退。のち南里なんり(現佐賀郡川副町)正定しようじよう寺開山の満恵の弟子暁誉が中興の祖となって、浄土宗開山とされている。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]柏崎市北条

北条きたじよう城跡南麓、大手口にあたる場所にある。時宗、北条山三宝院と号し、本尊阿弥陀如来。元弘元年(一三三一)毛利丹後守時元の開基と伝える。以来毛利北条氏の菩提寺。応長元年(一三一一)八月二二日の大江前丹後守(時光カ)寺領寄進状写(専称寺文書、以下同文書)によると、当寺に「佐橋庄北条下村内、金丸名田畠并山林」を寄進し、「一宇之道場」を建立して一遍上人の門葉僧衆一〇余人に勤修させるとある。康正三年(一四五七)六月一九日の北条広栄寺領寄進状写では、永鳥ながとり条内「なかむね名」の「あさうひら」「ひこた」合計一千苅が寄進されている。同年一一月二七日には南条広信から当寺内の天神田「つほもと庄屋条内」ほか一ヵ所計三〇〇苅の寄進があったが、宮内少輔(毛利道幸か)と北条氏との仲違いがあった際に惣領たるの儀を兼ねたことにより寄進したものである。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]那須町伊王野 下町

伊王山往生院田辺道場と号し、時宗。本尊は阿弥陀三尊。寺伝によれば開基は伊王野氏の祖資長で、弘安三年(一二八〇)遊行二祖真教の開山という。しかし、本尊が文永四年(一二六七)五月日銘をもつこと、弘安三年の真教遊行が宗祖一遍と同道であったことなどから、文永四年以前すでに資長によって持仏堂が建立されており、永仁五年(一二九七)の下野巡化の頃に寺基が確立されたと思われる。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]下館市乙 栄町

浄土宗、八幡山と号し、本尊は阿弥陀如来。元和四年(一六一八)水谷勝隆の創建で、開山は深誉孤峰。初めは上岡崎浄土かみおかざきじようど(現富士見町)光照こうしよう寺として創建されたと伝えられ、寛永初年に城下町整備の一環として現在地に移転する。同一六年(一六三九)に藩主となった松平頼重は当寺を菩提所とし、「英公日暦」同年一一月四日に「一、同日夜五ツ時過、下館出家社人御礼之次第、光照寺・最勝寺・福聚寺(中略)、右之分今晩御書院ニ御目見有之」とある。

専称寺
せんしようじ

[現在地名]赤碕町赤碕

天乃神奈斐あめのかんなび神社の鎮座する丘の下にある。寿福山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。享保七年(一七二二)に記された寺蔵の専称寺無量寿仏并観音大士因由によれば、元和五年(一六一九)に当地を巡礼した霊巌が、かつて三浦義明が捧持していたと伝える無量寿仏をみて驚喜し、衆人を募り精舎を建てたことに始まるという。

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デジタル大辞泉プラス 「専称寺」の解説

専称寺

福島県いわき市にある寺院。浄土宗名越派。山号は梅福山。本尊は阿弥陀如来。梅の名所として知られる。本堂、庫裏、総門は国の重要文化財に指定。

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