小原桃洞(読み)おはら・とうどう

朝日日本歴史人物事典 「小原桃洞」の解説

小原桃洞

没年:文政8.7.11(1825.8.24)
生年:延享3(1746)
江戸後期の本草学者。名は良貴,通称源三郎,号は桃洞。和歌山藩士の子として生まれる。京都に出て吉益東洞医学を,小野蘭山に本草学を学ぶ。和歌山藩医,本草方に抜擢され,寛政4(1792)年同藩医学館の創立時に本草局の主宰となる。蘭山の享和1(1801)年日光採薬,翌2年紀州採薬に随行。文化3(1806)年『紀伊続風土記』新編纂の藩命を受ける。同書は未完に終わったが,広く山野に採集して動植物を調査し,すぐれた博物誌『桃洞遺筆』を残した。実検を重んじるこの姿勢は門人畔田翠山に継がれた。<著作>『御国産物考』『魚譜』『南海禽譜』<参考文献>上野益三『博物学者列伝』

(遠藤正治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小原桃洞」の解説

小原桃洞 おはら-とうどう

1746-1825 江戸時代中期-後期の本草家。
延享3年生まれ。医学を吉益(よします)東洞に,本草学を小野蘭山にまなぶ。熊野などの動植物を調査。和歌山藩医となり,医学館本草局を主宰した。文政8年7月11日死去。80歳。紀伊(きい)和歌山出身。名は良貴。通称は政之助,源三郎。著作に「熊野採薬巡覧記」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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