小森桃塢(読み)こもり・とうう

朝日日本歴史人物事典 「小森桃塢」の解説

小森桃塢

没年天保14.3.23(1843.4.22)
生年:天明2.4.3(1782.5.14)
江戸後期の蘭方医。名は義啓,字は玄良,号は桃塢,鷯斎。美濃国外淵村(大垣市)大橋政右衛門の次男。寛政3(1791)年その才能を見込まれ,同国出身で山城伏見に住む医師小森義晴の養子となる。寛政7年大垣の蘭方医江馬蘭斎に入門,2年後伏見に帰り,文化2(1805)年に海上随鴎(稲村三伯)が京に移住するや,翌年友人藤林普山と共に入門した。のち普山は蘭語研究と翻訳,桃塢は蘭方による治療に専念。同9年随鴎の遺志を継ぎ人体解剖を行う(門人波多野貫道が『解観大意』を著す)。同11年洛中に転居,同14年ブカンの著を訳し『蘭方枢機』を著す。文政3(1820)年典薬寮医師,従六位下肥後介。翌年再度人体解剖,わが国乳糜管観察の最初とされる(門人池田冬蔵が『解臓図賦』を著す)。同9年江戸参府途上のシーボルトを厚くもてなしている。同10年『病因精義』(桃塢講義の筆記,ブールハーヴェの影響を受け「自然良能」を重視),『泰西方鑑』刊行。大垣藩,岡部藩へ多額の寄付をし,祇園祭の緞帳や伏見御香宮への大型灯籠の寄付もしている。死後の天保14(1843)年5月12日従五位下信濃守に叙せられ,翌日死が公表された。小森家(京都市伏見区)に厨子入り衣冠束帯姿の木造桃塢座像や門人帳(324名署名)がある。昭和56(1981)年大垣市外淵に生誕地碑と顕彰碑建立。桃塢は正月3日間のほか診療を休まず,傍ら教育と著述を行った熱心な医家であった。<参考文献>山本四郎「小森桃塢伝研究」(有坂隆道編『日本洋学史の研究』2),京都府医史会編『京都の医学史

(山本四郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小森桃塢」の解説

小森桃塢 こもり-とうう

1782-1843 江戸時代後期の蘭方医。
天明2年4月3日生まれ。江馬蘭斎,稲村三伯にまなび,京都で開業名医として知られ,江戸参府途上のシーボルトと親交をもつ。この間文化9年と文政4年に死体解剖をおこなった。天保(てんぽう)14年3月23日死去。62歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。本姓は大橋。名は義啓(よしひろ)。字(あざな)は玄良。別号に鷯斎。訳書に「蘭方枢機」,著作に「病因精義」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「小森桃塢」の解説

小森桃塢 (こもりとうう)

生年月日:1782年4月3日
江戸時代後期の蘭方医
1843年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小森桃塢の言及

【メランコリー】より

…ヨーロッパ語としてのメランコリーがいつ日本に初めて伝えられたかははっきりしないが,江戸期の蘭方医がこれを仲介していることは確かである。たとえばゴルテルJohannes de Gorter(1689‐1762)の内科書(1744)を宇田川玄随が邦訳した《西説内科撰要》全18巻(1793‐1810)には,メランコリアを漢字に当てた〈黙朗格里亜〉の用語が,その意訳である〈胆液敗黒病〉とともに現れており,ついで,小森桃塢(とうう)(玄良)(1782‐1843)らによって〈鬱証〉〈鬱愁〉〈鬱狂〉などの訳語が提出されたあと,おなじく小森の編集になる《泰西方鑑》全5巻(1827)にいたり,ようやく〈鬱憂病〉の語が〈メランコリア〉のルビをつけて登場する。こうしてヨーロッパ的なメランコリーが,日本的な〈気鬱〉と結びつくわけだが,既述のとおり,前者が古代ギリシア・ローマ医学の体液病理学から発しているのに対し,後者は東洋医学に支配的な〈気〉の病理学に由来しており,この病理学上の差はメランコリーと日本的〈鬱〉との症候論上のちがいをも導いている。…

※「小森桃塢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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