小槻隆職(読み)おづきのたかもと

改訂新版 世界大百科事典 「小槻隆職」の意味・わかりやすい解説

小槻隆職 (おづきのたかもと)
生没年:1135-98(保延1-建久9)

平安末期~鎌倉初期の官人。大夫史(五位の左大史。のち官務)小槻政重の三男。1165年(永万1)兄永業の没後をうけて官務となったが,85年(文治1)源義経らの奏請した源頼朝追討の宣旨を奉行した責任を負わされて解官された。しかし頼朝の朝政干渉を快く思わない後白河院の強い指示によって,91年(建久2)官務に再任され,ついで記録所寄人にも補された。98年10月病のため,所帯官職を息男国宗に譲ることを請願して許され,同月29日没した。時に正五位上で,穀倉院別当を兼ねていた。前後あわせて30年に及ぶ官務在職中,太政官における官務の地位を確立し,若狭国国富荘などの荘保を開発して官中所領とし,官中文書の保全を図るとともに,これら所領や文書の知行管領子孫に伝え,壬生みぶ)官務家の始祖と仰がれた。
壬生家
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朝日日本歴史人物事典 「小槻隆職」の解説

小槻隆職

没年:建久9.10.29(1198.11.29)
生年保延1(1135)
平安末期・鎌倉初期の官人。左大史政重の3男。兄永業のあとをうけて永万1(1165)年より官務となる。源義経らの奏請による源頼朝追討宣旨を奉行した責任を問われ,文治1(1185)年に解官されるが,建久2(1191)年に後白河法皇の指示により復職する。太政官弁官局の実務責任者である官務の地位を確立するとともに,小槻氏壬生流の祖として,官中文書の整備,官中便補地(弁官局が調達すべき朝廷の公事経費の一部を負担する所領)の建立に努めた。これらの文書・所領はともに壬生家相伝の財産であると同時に,弁官局の運営の資でもあるという公私二重の性格を持ち,小槻氏による官務独占世襲の確立と表裏一体のものといえる。<参考文献>宮内庁書陵部編『壬生家文書』1~10巻,橋本義彦『平安貴族社会の研究

(本郷恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小槻隆職」の解説

小槻隆職 おづきの-たかもと

1135-1198 平安後期-鎌倉時代官吏
保延(ほうえん)元年生まれ。小槻政重(まさしげ)の3男。壬生(みぶ)官務家の祖。長寛3年兄永業(ながなり)の跡をついで,左大史につき官務となる。のち伊賀守(いがのかみ),修理(しゅり)東大寺大仏長官をかねる。文治(ぶんじ)元年源頼朝追討宣旨を指揮したことにより解官(げかん)されたが,建久2年官務に再任された。建久9年10月29日死去。64歳。

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世界大百科事典(旧版)内の小槻隆職の言及

【開発】より

…播磨国小犬丸保の〈土民等〉が〈計略を廻らし,功力を尽し〉て池を築造したのは後者の代表例であり,こうした農民的共同開発が中世村落成立の重要な基盤となった。それに対して前者は,比較的大規模な開発であり,若狭国国富保の開発領主となった太政官厨家小槻隆職,丹波国波々伯部保の開発領主として田堵等の組織者となった感神院大別当行円,摂津国猪名荘内の塩入荒野を開発せんとした鴨御祖社禰宜鴨県主祐季など下級貴族・寺僧・神官なども開発領主となっている。しかし何と言っても開発領主の典型は,平安時代以来の開発によってその本領を確立し子孫に伝領した在地領主である。…

【国富荘】より

…太政官厨家領。元来吉原安富(左大史小槻隆職)の相伝私領であったが,1165年(永万1)官御祈願米・造八省院料米・法花会料米・官厨家納絹代計200石を進済する便補保(びんぽのほ)とされ,国富保と称した。下って95年(建久6)には,保司・太政官厨家の申請により,太政官は四至を定め牓示(ぼうじ)を打って立券し,国郡使の入勘と課役を停止するとともに,安富の子孫の相伝領掌を認めた。…

【世能荘】より

…世能村(現,広島市安芸区瀬野川町上瀬野・下瀬野),荒山村(同町中野)を荘域に含み,世能荒山荘と称されることも多い。1193年(建久4)諸司領確保をもくろむ官務小槻隆職(たかもと)の働きかけに応じ,国司平親守は太政官厨家納物米以下の進済地として世能・荒山両村を便補保(びんぽのほ)に指定した。隆職は保経営の不安定さを打開するため再び申請を行い,その結果,四至牓示が打ち定められ,98年高倉法華堂領世能荒山荘の成立をみた。…

【新見荘】より

…現在の岡山県新見市の北西部から阿哲郡神郷町の北東部にわたる広大な地域を占める。平安時代の末ころ,大中臣孝正の開発した所といわれ,孝正はこれを官務家の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻隆職はさらに上級の権門の保護を得るため,建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする最勝光院に寄進,かくして新見荘は最勝光院を本家,小槻氏を領家とする荘園となった。…

【便補保】より

…このような条件のもと,便補保は国守と官衙・封主側の合作として成立した。所領として便補保を領有した官衙には官厨家(かんちゆうけ)(太政官に付属し,官の運営費等をまかなうための太政官領を管轄した官衙),内蔵寮(くらりよう),大炊(おおい)寮,主殿(とのもり)寮,造酒司(さけのつかさ)などがあるが,官厨家を例にとるならば,その多くは12世紀末から13世紀初めの小槻隆職(おづきのたかもと),国宗の代に立てられており,彼らは保司(ほし)として実質的な領有権を保持していた。また封物便補保は伊勢神宮,北野社,東大寺,円宗寺,法勝寺,尊勝寺などに多くみられる。…

【保司】より

…保司が在京の領主であったばあいは,現地で開発を請け負った在地の領主が公文(くもん)に任じられた。保出現の当初より保司には在京の領主が多く,祇園感神院領の丹波国波々伯部(ははかべ)保,近江国守富(もりとみ)保を領有した感神院大別当行円や若狭国国富保をはじめ数多くの官厨家領の便補保(びんぽのほ)を立てた官務小槻隆職(おづきのたかもと)が著名である。国富保のばあい,隆職自身が功力を投入し,開発したといわれる。…

【壬生家】より

…(1)本姓小槻(おづき)氏。鎌倉時代の初めより左大史,算博士および主殿(とのも)頭を世職とした地下(じげ)官人家。平安中期以降,太政官においては五位の左大史が左右両弁官局の史以下の官人を掌握し,大夫史あるいは官長者,官務とよばれるようになり,平安後期以降は算道出身の小槻氏が大夫史=官務の地位を世襲独占するに至った。ついで1144年(天養1)小槻政重が没した後,その子師経・永業・隆職(たかもと)の3兄弟が相ついで官務となり,さらに永業流の大宮家と隆職流の壬生家が,氏長者と官務の地位を争って室町末期に及んだ。…

※「小槻隆職」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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