小犬丸保(読み)こいぬまるほ

日本歴史地名大系 「小犬丸保」の解説

小犬丸保
こいぬまるほ

和名抄」に記載される揖保いぼ布勢ふせ郷の内に成立した古代から中世の保。建久八年(一一九七)四月三〇日の官宣旨案(壬生家文書、以下特記しないものは同文書)穀倉こくそう(現京都市中京区)領小犬丸保とみえ、当保は約二〇〇年前に穀倉院領として成立したという。応保年中(一一六一―六三)中原師元が同院長官の時、平頼盛(清盛の異母弟)国司と共謀して布施郷を立庄し布施庄としたが、その際小犬丸保の作田以外の山林・畠地を押領したという。平家没落後、当保の住人らは布施庄立庄時にはほかに当保の池水まで奪われたことなどの不当行為を朝廷に訴えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「小犬丸保」の意味・わかりやすい解説

小犬丸保 (こいぬまるのほ)

播磨国揖保郡にあった穀倉院領荘園。〈おいぬまるのほ〉と読むこともある。もとの布施郷北辺にあたるが,古代の山陽道に沿い,布施駅家にも近く,早くからひらけた土地で,9世紀末から10世紀初めごろに穀倉院領になったらしい。現在のたつの市揖西町小犬丸(こいぬまる)一帯を占める。応保年中(1161-63)に平頼盛が布施荘を立荘したが,同荘は小犬丸保には作田のほかに山林畠地などあるはずがないと称してこれを押領し,穀倉院別当中原師元と相論になった。師元の死後平氏全盛の間は押領が続いたが,平氏が没落して布施荘が平家没官領として収公されると,小犬丸保は保領の四至を主張して押領されていた山林畠地や池を回復した。布施荘が平頼盛家に返還されたのちも,小犬丸保は穀倉院別当を世襲した大外記中原氏の局務渡領として中世を通じて存続した。室町後期には在地武士の押領が激しく,代官請所となっている。
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百科事典マイペディア 「小犬丸保」の意味・わかりやすい解説

小犬丸保【こいぬまるのほ】

播磨国揖西(いっさい)郡にあった保。〈おいぬまるのほ〉とも。兵庫県たつの市を流れる小犬丸川流域,揖西町小犬丸一帯に展開した。《続左丞抄(ぞくさじょうしょう)》に引く1197年の官宣旨によると,穀倉院領で布施(ふせ)郷内であった。同郷は応保年間(1161年−1163年)平頼盛が国司と共謀して立荘した。郷内には早くから小犬丸保があったが,穀倉院別当中原師元(もろもと)の抗議にもかかわらず,頼盛は当保の山林・畠地を布施荘に取り込んだ。平家没落後没収された頼盛の所領は1183年返付されたが,上記の事情などを国庁へ訴えた保民の主張が1197年認められた。のち穀倉院領として存続するが別当を世襲した中原氏の所領化し,局務渡(きょくむわたり)領と称された。室町時代後期には代官請により公用銭は確保されていた。

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世界大百科事典(旧版)内の小犬丸保の言及

【小犬丸保】より

…現在の竜野市揖西町小犬丸(こいぬまる)一帯を占める。応保年中(1161‐63)に平頼盛が布施荘を立荘したが,同荘は小犬丸保には作田のほかに山林畠地などあるはずがないと称してこれを押領し,穀倉院別当中原師元と相論になった。師元の死後も平氏全盛の間は押領が続いたが,平氏が没落して布施荘が平家没官領として収公されると,小犬丸保は保領の四至を主張して押領されていた山林畠地や池を回復した。…

【開発】より

… このような開発には,開発主体が〈開発領主〉と称される領主的な開発と農民たちの村落的な共同開発とがあった。播磨国小犬丸保の〈土民等〉が〈計略を廻らし,功力を尽し〉て池を築造したのは後者の代表例であり,こうした農民的共同開発が中世村落成立の重要な基盤となった。それに対して前者は,比較的大規模な開発であり,若狭国国富保の開発領主となった太政官厨家小槻隆職,丹波国波々伯部保の開発領主として田堵等の組織者となった感神院大別当行円,摂津国猪名荘内の塩入荒野を開発せんとした鴨御祖社禰宜鴨県主祐季など下級貴族・寺僧・神官なども開発領主となっている。…

※「小犬丸保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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