小田原(読み)おだわら

精選版 日本国語大辞典 「小田原」の意味・読み・例文・類語

おだわら をだはら【小田原】

[1] 神奈川県南西部の地名。古来、関東平野の要地。戦国時代には北条氏の本拠地となり、以来、城下町として栄えた。東海道の旧宿場町。現在は東海道新幹線東海道本線、小田急小田原線などが通じる交通の要地で、商工業都市、住宅都市として発達。箱根の玄関口でもある。特産はかまぼこ。昭和一五年(一九四〇)市制。
[2] 〘名〙
※雑俳・柳多留‐五四(1811)「小田原を付て又消す長評議」
※雑俳・川柳評万句合‐明和四(1767)礼二「小田原を言い言いやかたさがる也」
③ (「おだわらぢょうちん」から) 老人の男陰をいう。
※雑俳・柳多留‐八〇(1824)「小田原へ四つ目の紋を妾(しょう)すすめ」

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デジタル大辞泉 「小田原」の意味・読み・例文・類語

おだわら〔をだはら〕【小田原】

神奈川県南西部の市。戦国時代は北条氏、江戸時代は大久保氏の城下町。また、東海道の旧宿場町で、箱根東方出入り口にあたる要所。箱根観光の基地。商工業が発達し、梅干し・かまぼこを特産。人口19.8万(2010)。

小田原提灯おだわらぢょうちん」の略。
小田原評定」の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「小田原」の意味・わかりやすい解説

小田原[市] (おだわら)

神奈川県の南西部にあり,相模湾に臨む市。1940年市制。人口19万8327(2010)。市域は箱根火山の東麓と,酒匂(さかわ)川下流の沖積地(足柄平野)とを含み,市街地は早川と酒匂川に挟まれた臨海部にある。1495年(明応4)北条早雲が大森氏を滅ぼしてここに拠ってから,後北条5代,約100年間にわたって南関東の中心となり,江戸時代には小田原藩大久保氏の城下町として,10代180年にわたって,足柄一帯の中心地であった。東海道が整備されると,箱根山をひかえた宿場町としてもにぎわうようになった。1889年東海道本線が箱根を迂回して国府津(こうづ)から御殿場へ抜けるように建設されて,小田原は一時衰微した。1920年国府津からの熱海線に小田原駅が設置され,34年には丹那トンネルが開通して現在の東海道本線が通過することになり,昔日の勢いをとりもどした。現在は東海道新幹線,小田急線,国道1号線などが小田原を通過し,富士箱根伊豆国立公園の表玄関としてにぎわっている。従来からの農・水産業のほか近代工業地も足柄平野に展開している。また市街地内に箱根細工から発展した各種の木工業が盛んである。特産品にはほかに,かまぼこ,梅干しなどがある。60年に天守閣が復元された小田原城の城跡は史跡に指定され,続いて本丸・二の丸の整備がはかられている。市内には報徳博物館・小田原文学館・松永記念館などがあり,市の北東郊の二宮尊徳の生家,曾我の梅林などとともに観光客を集めている。
執筆者:

相模国足柄下郡のこの地に早川牧から発展した早河荘が12世紀初頭に姿をあらわし,その一つの郷名が小田原である。鎌倉・南北朝期には土肥氏や伊豆走湯山(そうとうさん)領があり,15世紀初頭,上杉禅秀の乱で土肥氏が没落すると,代わって山内上杉氏の家臣大森頼顕が入部してきた。1432年(永享4)には,東海道の小田原の関があり,関銭が鶴岡八幡宮修理料となっていた。駿河今川氏のもとにあった伊勢新九郎長氏(後に北条早雲)は,93年(明応2)に伊豆の堀越公方家の内紛に介入して足利茶々丸を殺し伊豆を制圧すると,95年には大森藤頼を小田原城から追い,ここを居城とした。以来,後北条氏は,氏綱,氏康,氏政,氏直の5代,約100年の間小田原を本城として,関東各地に進攻して領国を拡大し,小田原城下町は領国の中心として繁栄した。
執筆者: 1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡したのち,大久保氏,稲葉氏,再び大久保氏11万3000石の城下町となる。1601年(慶長6)以後東海道の主要宿駅として最盛期には本陣・脇本陣各4,旅籠95を数えた。城下町としての区画は60年(万治3)ごろ完成し,町の東西を東海道沿いの通り町9ヵ町と北へ通ずる甲州道沿いなどの脇町10ヵ町から成る町人地と,これを取り囲むように小田原城周辺および町の出入口部分から成る武家地とに分かれる。松原明神の門前町である宮前町と西隣の本町が中心をなす。町名には大工町や青物町があるが,職人や商人の集住は見られない。町年寄は代々本陣などが務め,彼らを頂点とする上層商人が領内の商品流通を独占していたが,1780年(安永9)ごろから在郷商人の台頭を見るに至った。職人は城大工頭の下に各棟梁以下が城内の役儀を務めていた。1743年(寛保3)の町人戸数1152(店借を含む),人口7355,これに武家人口推計2200,計約9500。1859年(安政6)には町人戸数1458,人口5897。近世初期には武士の旅籠兼業も存在したが,後には武士と町人との混住禁止,武士の家族の町見物や銭湯入浴,町人の城内通行が禁止された。末期には祭礼,年中行事に武士の見学や参加も自由となった。宿場町として伝馬人足役を負担するため地子銭1万坪を免除され,1669年(寛文9)以後は年々125石の救米を幕府から給与された。しかし負担の過重から助郷(すけごう)村々との紛争が多発し,また1718年(享保3)には町人の中から伝馬人足騒動が起こって主謀者4人が追放された。その他87年(天明7)の打毀(うちこわし),1866年(慶応2)の打毀計画(未発)など零細交通労働者の動きが散見される。1703年(元禄16)の大地震,14年(正徳4),1817年(文化14)の大火,53年(嘉永6)の大地震など大災害が相次ぎ,宿場町を構成する19ヵ町の財政窮乏ははなはだしく,近世末期には再建のための仕法を実施したが,没落する町名主も多く,59年には旅籠として幕府関係公用者の宿泊可能な家は88軒中20軒以下であった。70年(明治3)の宿駅廃止,71年の廃藩置県,76年の神奈川県移管などにより城下町,宿場町としての特色を失って町勢は停滞した。89年町制施行時の戸数3000,人口1万9000であり,町の再生は1920年の熱海線敷設以後のことであった。
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旺文社日本史事典 三訂版 「小田原」の解説

小田原
おだわら

神奈川県南西部,相模湾に面した都市。中世より城下町・宿場町として発展
鎌倉時代に土肥氏,室町時代に大森氏の居城であったが,1495年北条早雲入城後大いに発展し,西の山口と並び称せられた。豊臣秀吉の征討(1590)後,江戸時代には主として大久保氏の城下町となり,箱根を控えた要衝ならびに東海道の主要宿駅として知られた。現在は商工業および観光都市。1940年市制施行。

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事典・日本の観光資源 「小田原」の解説

小田原

(神奈川県小田原市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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