小笠原忠真(読み)おがさわらただざね

改訂新版 世界大百科事典 「小笠原忠真」の意味・わかりやすい解説

小笠原忠真 (おがさわらただざね)
生没年:1596-1667(慶長1-寛文7)

江戸前期の大名。幼名春松丸,初名忠政。秀政の次男。母は徳川家康の長子信康の女。1615年(元和1)大坂の陣に父秀政,兄忠脩とともに徳川秀忠に従軍し,父と兄を失ったが,功により父の遺領信濃松本城8万石を継いだ。幕府の信任厚く,西国の押えとして17年播磨国明石10万石,32年(寛永9)豊前国小倉15万石に加封された。島原の乱にも戦功あり,のち長崎警固の任などを務めた。
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朝日日本歴史人物事典 「小笠原忠真」の解説

小笠原忠真

没年:寛文7.10.18(1667.12.3)
生年:慶長1.2.28(1596.3.26)
江戸前期の大名,豊前国小倉藩(福岡県北九州市)藩主。幼名春松丸,初名忠政。大学頭,右近将監,侍従。従四位下。小笠原秀政の次男。母は松平信康の娘。下総国(茨城県)古河生まれ。元和1(1615)年大坂夏の陣で父と兄を失い,遺領信濃国松本8万石を継ぐ。同3年播磨国明石10万石,寛永9(1632)年豊前国小倉15万石と加増移封,寛文2(1662)年には長崎警備の指揮を命じられ,幕府九州支配の要となる。同5年隠元の高弟即非如一を開祖福聚寺建立,菩提寺とした。黄檗宗への帰依は,明(中国)文化を吸収しようとした文人趣味を示すものだろう。<参考文献>『北九州市史

(福田千鶴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小笠原忠真」の解説

小笠原忠真 おがさわら-ただざね

1596-1667 江戸時代前期の大名。
文禄(ぶんろく)5年2月28日生まれ。小笠原秀政の次男。母は徳川信康の娘。大坂夏の陣で父と兄忠脩(ただなか)が戦死したため,信濃(しなの)(長野県)松本藩8万石をつぐ。元和(げんな)3年播磨(はりま)(兵庫県)明石(あかし)に移封。寛永9年豊前(ぶぜん)小倉藩(福岡県)藩主小笠原家初代となる。15万石。島原の乱に出兵,のち長崎警備の任にあたった。寛文7年10月18日死去。72歳。初名は忠政。

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367日誕生日大事典 「小笠原忠真」の解説

小笠原忠真 (おがさわらただざね)

生年月日:1596年2月28日
江戸時代前期の大名
1667年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小笠原忠真の言及

【明石藩】より

…当時の城地は明石川河口右岸の船上(ふなげ)城であった。1617年(元和3)小笠原忠真10万石が入封。翌年幕命を受け,夫人の父姫路藩本多忠政が縄張りして赤松山に平山城を築き,10町から成る城下町も建設された。…

【小倉藩】より

…22年(元和8)作成の〈小倉藩人畜改帳〉は江戸初期の農村の状況を今に伝えるものとして貴重である。32年(寛永9)加藤氏の改易により忠利が肥後国熊本に移ったのち,小笠原忠真が播磨国明石より入り,豊前国6郡15万石を支配することになった。小笠原氏小倉藩は同時に成立した豊前中津,竜王,豊後杵築の3藩とともに,外様大藩の蟠踞(ばんきよ)する九州にその監視役として送り込まれた譜代藩である。…

※「小笠原忠真」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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