尚巴志(読み)しょう・はし

朝日日本歴史人物事典 「尚巴志」の解説

尚巴志

没年:尚巴志18.4.20(1439.6.1)
生年:察度23(1372)
15世紀,琉球で最初の統一王朝を樹立した国王。在位18年(1422~39)。14世紀初頭,沖縄本島は北山,中山,南山と呼ばれる3つの政治勢力によって支配され,この3勢力がそれぞれ中国(明朝)と朝貢貿易を行い,覇権争いを繰り広げていた。沖縄本島の南部・佐敷グスクを拠点とした尚巴志は,父の思紹と協力して勢力を拡大,21歳で佐敷按司(豪族)となった。武寧7(1402)年,島添大里按司を攻略し,東四間切を支配下におさめ,さらに4年後浦添グスクの中山王武寧を攻め滅ぼして父の思紹を中山王にした。のちに中山の拠点を浦添から首里に移して,尚巴志は首里城を整備し,第一尚氏王朝の基礎を確立した。こうして中山勢力の覇権を握ることになった尚巴志は,さらに三山統一をめざし,尚思紹11(1416)年,攀安知の居城今帰仁を攻略し,次男尚忠を北山監守に任じて地域支配の拠点を固めた。次いで尚巴志8(1429)年には南山の他魯毎を攻め滅ぼし,三山統一を成し遂げた。こうした琉球国の政治的統一と並行して,尚巴志は海外貿易にも力を入れ,中国,日本,朝鮮,東南アジア諸国と活発な貿易活動を展開した。三山統一の前年スマトラ島の旧港国,同9年にはジャワ島の爪哇国との正式な通交が開かれ,翌年には朝鮮国にも通交の使者を派遣した。この時代,明から甘蔗(サトウキビ)が輸入され栽培が盛んとなる。尚巴志の遺骸は首里の天山陵に葬られた。その死を悼んだ側近の懐機の書状が,琉球から海を越えて中国江西省・竜虎山(道教の聖地)の天師のもとへ送られた。

(真栄平房昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「尚巴志」の意味・わかりやすい解説

尚巴志【しょうはし】

琉球(りゅうきゅう)の第一尚氏王統第2代王。15世紀初め,琉球は北・中・南の三山に分立抗争。沖縄本島南部佐敷(さしき)の按司(あじ)巴志は中山(ちゅうざん)を滅ぼして父思紹(ししょう)を中山王とし,1421年父の死により王位につく。1422年には北山,1429年には南山を滅ぼして三山を統一。治世中,首里(しゅり)城の整備,(みん)との朝貢貿易,南海交易を推進した。第一尚氏王統は7代で断絶。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尚巴志」の意味・わかりやすい解説

尚巴志
しょうはし
(1372―1439)

沖縄を初めて統一し琉球(りゅうきゅう)王国を樹立した人物。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。佐敷按司(さしきあんじ)から身をおこし、やがて山南(さんなん)(沖縄本島南部)の東半分に勢力をもつ島添大里(しまそえおおざと)按司を倒して頭角を現した。1406年、中山(ちゅうざん)王武寧(ぶねい)を滅ぼしてその勢力圏を手中に収めるや、父尚思紹(しょうししょう)を中山王につけて、第一尚氏王朝初代の王とし、自らはその補佐役として統一事業に尽力した。16年、兵を率いて山北(さんほく)(沖縄本島北部)の拠点今帰仁(なきじん)城を攻め、山北王攀安知(はんあち)を滅ぼした。24年、父の死により2代目の王となったが、ほどなく山南王他魯毎(たるみい)を攻め滅ぼし、ついに三山(さんざん)の争乱に終止符を打ち統一王国の樹立に成功した(1429)。その間、中国はもとより日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を促進し、首里(しゅり)城をはじめとする王都首里の整備を行った。政治顧問として中国人懐機(かいき)を重用するなど、彼の治世には随所に斬新(ざんしん)さがみられる。琉球王国の建設者として一時代を画した人物、と沖縄歴史では評価されている。39年4月20日死去。首里の天山(てんざん)陵に安葬されたという。

[高良倉吉]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尚巴志」の解説

尚巴志
しょうはし

1372~1439.4.20

琉球王国の第一尚氏王統2代目の王で統一王朝の樹立者(在位1422~39)。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。若くして沖縄島南部に位置する佐敷城(さしきぐすく)の按司となる。通説では山南国の内紛に乗じて1402年島添大里按司(しまそえおおざとあじ)を倒して地歩を堅め,06年中山王武寧(ぶねい)を倒し,父思紹を中山王にたて,16年山北王攀安知(はんあんち)を,29年山南王他魯毎(たろまい)を倒したという。29年を統一国家の樹立年とするが,22年とする説もある。25年明国の冊封使柴山(さいざん)により中山王に冊封され,27年首里城の近在を開削し明の首都北京の池水にならった竜潭(りゅうたん)を築くなど,王都の整備をはかった。華僑の頭目の懐機(かいき)を王相(国相)に任命し,華僑集団と緊密な関係を保ち,朝鮮・中国・東南アジアとの交易を活発化した。

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世界大百科事典(旧版)内の尚巴志の言及

【佐敷[町]】より

…馬天(ばてん)港を囲むように肥沃な泥灰岩土壌の低地が広がり,その背後は石灰岩で覆われた台地である。佐敷からでた尚巴志(しようはし)(1372‐1439)は馬天港に拠って中国や日本本土と貿易して力をたくわえ,1429年三山(琉球)を統一した。馬天港は帆船時代には山原(やんばる)船の港であり,また大東島航路の港でもあった。…

【首里城】より

…14世紀末ごろ察度(さつと)が中山の出城として築城したといわれる。1406年尚巴志が中山を攻略して以後,〈琉球国〉支配の中心地となり,1879年まで尚巴志王統7代,尚円王統19代の居城であった。伝説では巴志は大里城の城壁を壊し,その石を手渡しで首里城へ運び大修築したともいわれる。…

【尚氏】より

…第一尚氏と第二尚氏の区別がある。沖縄に山北(さんほく),中山(ちゆうざん),山南とよばれる三つの小国家が対立していたころ,佐敷(さしき)地方(南部東岸)の按司(あんじ)(首長)であった尚巴志は急速に勢力を増し,1406年にまず中山の覇権を手中にし父尚思紹をして中山王につかせた。16年,尚巴志は山北を滅ぼし,29年にはついに山南をも攻略して初の統一王朝(琉球王国)を樹立した。…

【琉球】より

…なお〈琉球〉の名称は察度の入貢のときから用いられはじめ,以後沖縄の公称となった。
[琉球王国の成立]
 三山の対立は英雄尚巴志(しようはし)の登場により終止符が打たれる。1416年彼は山北王攀安知(はんあち)を攻め滅ぼし,29年には山南王他魯毎(たるみい)を倒して琉球の統一に成功し,琉球王国を樹立した。…

※「尚巴志」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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