尾藤景綱(読み)びとう・かげつな

朝日日本歴史人物事典 「尾藤景綱」の解説

尾藤景綱

没年:文暦1.8.22(1234.9.16)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武士北条泰時の被官人。通称尾藤次郎藤原秀郷子孫の知景の子。左近将監。承久の乱(1221)に際して,泰時が18騎を従えて出立したうちのひとり。その後も泰時の腹心として活動し,また妻は泰時の次男時実の乳母となる。元仁1(1224)年泰時が執権に就任すると,景綱は初代の家令となり,北条氏の公文所を統括した。北条氏御内人の代表として平盛綱と共に,各種行事の奉行人として活動し,また騒擾事件の鎮静化に努める。寛喜2(1230)年には得宗家領武蔵国太田荘(埼玉県)開発の奉行人となる。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究

(佐々木文昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾藤景綱」の解説

尾藤景綱 びとう-かげつな

?-1234 鎌倉時代武将
北条泰時の側近貞応(じょうおう)3年(1224)北条得宗(とくそう)家の初代家令となる。泰時が家法をさだめたとき奉行をつとめた。天福2年8月病気のため家令職を平盛綱にゆずり,22日死去。通称は次郎。法名道然

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の尾藤景綱の言及

【尾藤氏】より

…中世の武家。藤原秀郷の流れをくむ公澄が尾張守となって尾藤を称したのにはじまるという。公澄の数代後の尾藤五知広の子の代に,はじめ源義仲に属しのち源頼朝に参じて信濃国中野御牧,紀伊国田中・池田両荘を領した尾藤太知宣の一流と,1203年(建仁3)の比企合戦で北条方として活躍する尾藤次知景の一流とにわかれる。知宣の子知平は池田荘に住しその後は代々池田を称したと思われるが,知景の子景綱とその子孫は北条氏嫡流家の被官として活躍している。…

※「尾藤景綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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