山中新十郎(読み)やまなか・しんじゅうろう

朝日日本歴史人物事典 「山中新十郎」の解説

山中新十郎

没年:明治10.9.9(1877)
生年:文政1.12(1818)
幕末維新期の商人。羽後国(秋田県)平鹿郡増田村に,山中長五郎の4男として生まれる。幼名は易吉,のちに信広と称す。分家山中長之助のもとへ,さらに久保田(秋田)城下の商人茜屋に養子として入るがいずれも出奔し,天保12(1841)年,城下の大町呉服仲買業を開業,山中屋と号した。嘉永5(1852)年に町処用達,郡方織物用達に任ぜられ,これ以降,久保田藩の殖産政策に関与することとなった。久保田藩は安政2(1855)年に領内への絹,縞木綿の陸路移入を禁止し,また,文久1(1861)年には城下に機座を設けているが,これら一連の産業保護奨励策は,山中の建白に基づくものだといわれている。山中自身,綿布生産,販売活動に従事し,その取り扱い商品は「山新木綿」と呼ばれていた。領内鉱山の総蔵元も務めており,慶応2(1866)年には苗字帯刀を許されている。維新後は織物関連の取引をなすかたわら,石油発掘や第四十八国立銀行の設立にもかかわった。幕末維新の変革期に台頭した新興商人のひとりといえよう。<参考文献>橘仁太郎『勤王商傑・山中新十郎翁伝』

(谷本雅之)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山中新十郎」の意味・わかりやすい解説

山中新十郎
やまなかしんじゅうろう
(1818―1877)

明治維新期の豪商出羽(でわ)佐竹領平鹿(ひらか)郡増田村(秋田県横手(よこて)市)の在方商人播磨(はりま)屋長五郎の四男。幼名易吉。23歳(18歳ともいう)のとき殖産興業策を藩校明徳館に建白。1841年(天保12)城下久保田(秋田市)大町に呉服太物(ごふくふともの)商として自立、山中屋新十郎と称した。その卓識と努力が認められ、藩の諸用達を兼ねるに至った。この間も再々殖産興業策を呈し、ついに55年(安政2)藩をして絹、木綿などの陸路移入禁止、さらに船手木綿の移入制限策をとらしめるとともに、自ら縞(しま)木綿の生産を開始し、幕末には本店工場と城下九か所の機場(はたば)からなるマニュファクチュア形態の山新(やましん)縞木綿生産を築き上げた。また戊辰(ぼしん)戦争では秋田藩を新政府側につかしめるために尽力し、役中は大小荷駄(にだ)方支配人として兵粮(ひょうろう)、弾薬の調達運搬にもあたった。

[半田市太郎]

『橘仁太郎編『勤王商傑 山中新十郎翁伝』(1916・山中駒蔵)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山中新十郎」の解説

山中新十郎 やまなか-しんじゅうろう

1818-1877 江戸後期-明治時代の商人。
文政元年12月生まれ。出羽(でわ)久保田(秋田市)で呉服・太物商をひらく。久保田藩御用達となり,殖産興業策を建白。みずから工場制手工業により縞(しま)木綿を生産,商品は山新木綿の名で知られた。明治10年9月9日死去。60歳。名は信広。

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