山勢派(読み)やませは

改訂新版 世界大百科事典 「山勢派」の意味・わかりやすい解説

山勢派 (やませは)

箏曲流派および芸系。山田流一派。山勢姓の家元を中心とする派をいう。

 初世山勢(1791-1859・寛政3-安政6)は,都名(いちな)は松風一。1819年(文政2)越後の白勢和合一検校のもとで検校となる。糸魚川で覚市に学んだが,21歳で江戸に出て山田検校師事。《常磐の栄》《月の鏡》などを作曲したと思われる。平曲家としても活躍。1843年(天保14)には江戸惣録であった。門下に,山喜田(山千代)翠風一検校,山谷清風一検校などがあり,その他本来は山木派の山多喜(山田喜・山滝)栄松一検校(後名松調)も山勢に師事したといわれる。その門から高橋栄清の師の櫛田栄清が出た。

 2世山勢(1812-68・文化9-明治1)は,糸魚川の杉本茂右衛門の長男。幼時失明して当道(とうどう)座に入り,都名を軽(慶)風一と名のる。16歳で出府,初世山勢の門に入る。1847年(弘化4)守谷亀齢一検校のもとで検校となり,山杉検校と名のった。万延・文久(1860-64)ころには,平曲家としても活躍。箏曲家としては,《かざしの雪》の作曲者とも擬される。門下には,3世山勢のほか,山登万和(1853-1903)や,松翁流胡弓家でもあった初世町田杉勢(1843-1929)などがある。

 3世山勢(1845-1908・弘化2-明治41)は,下谷で幕府徒士頭吉田義方(慶助)の次男として生まれた。本名専(千)吉。2~3歳で失明,1851年(嘉永4)2世山勢の門に入り,慶専と称し,62年(文久2)当道座に入って慶賀一と名のる。66年(慶応2)に勾当(こうとう)に昇進,山清姓を名のり,71年(明治4)に山勢勾当と改めたが,たまたま当道座の制度が廃止され,検校には登官せず,山勢松韻と名のった。80年文部省音楽取調掛に出仕,90年東京音楽学校(現,東京芸術大学)の新築開校式に《都の春》を作曲。91年同校教授。なお,86年から訓盲啞院(後の東京盲啞学校,現在の筑波大学附属盲学校)をも兼務。門下には,初世萩岡松韻今井慶松のほか,女流演奏家も数多く輩出。作品には,前記《都の春》のほか《朧月》(1874),《花の雲》(1880),《松島八景》(1892),《四季の友》《新年》などがある。また,多弦箏を開発,重元岩次郎に21弦箏を作らせた。

 4世山勢(1877-1921・明治10-大正10)は,本名ふく。井口方城の娘として生まれ,和歌山藩士清水市蔵の養女となったが,実父養父とも没し,1885年に3世山勢の養女となる。3世の没した年に家督相続,山勢福の名で免状を発行した。しかし,音楽学校は今井慶松が,盲啞学校は萩岡松韻が襲い,実質的にはこの2人が山勢派を代表した。

 5世山勢(1916(大正5)- )は初名良子。木原清(後に陸軍中将)の五女として生まれたが,母方の大伯父3世の養女ふくの養女として山勢家に入った。1936年,今井慶松の立合で,山勢の5世家元を継承,3世の名を継いで山勢松韻と名のった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山勢派」の意味・わかりやすい解説

山勢派
やませは

山田流箏曲の芸系の一派。山田検校門下の山勢検校の名を継ぐ各代と,その門下中独立したものを含めて数家の家元がある。1世山勢松韻らが著名。

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世界大百科事典(旧版)内の山勢派の言及

【萩岡松韻】より

…箏曲は,当初,山田流山勢系の馬場美勢に師事,74年3世山勢松韻の直門となり,85年松柯の芸名を授けられる。師の没後,4世山勢福を助けて,今井慶松とともに山勢派を代表,松韻の芸名を名のる。87年来東京盲啞学校(現,筑波大学付属盲学校)に勤め,いわゆる盲学校派の総帥として久本玄智,斎藤松声,山川園松らを育てた。…

※「山勢派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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