山城国一揆(読み)ヤマシロノクニイッキ

デジタル大辞泉 「山城国一揆」の意味・読み・例文・類語

やましろ‐の‐くにいっき【山城国一揆】

文明17年(1485)山城南部で国人こくじん地侍じざむらいらが中心となって起こした一揆。抗争を続ける畠山政長義就の両軍を撤退させ、以後8年間、守護による支配を排除し、自治を行った。

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改訂新版 世界大百科事典 「山城国一揆」の意味・わかりやすい解説

山城国一揆 (やましろのくにいっき)

1485年(文明17)12月,綴喜,相楽,久世の南山城3郡におきた国一揆山城国では,応仁・文明の乱後も畠山政長・義就の両派の対立が続き,各地で合戦が繰り返されていた。ことに同年10月以来,宇治川を挟んで両軍の対陣が60日にも及んだ。そのような状況下,12月11日に上は60歳から下は15,16歳の国人たちが集会し,一国中の土民が群集する中で,両畠山軍への撤退要求が決められた。しかも,退陣しない場合には国衆(くにしゆう)として攻撃を加えるという毅然たる態度で交渉を行い,両軍を退陣させることに成功した。この一揆は国衆たちが中心になっていたものと考えられる。彼らは,合戦によって本拠地を追われ,〈牢人〉となるか,参陣のために所領の支配も思うにまかせない状態にあった。ことに畠山政長方に味方した国衆の多くは没落し,その跡職が大和,河内の武士に与えられていた。両軍撤退の要求の背景には,このような状態を克服しようとする国衆の期待があった。ところで,国人の集会では,両畠山軍への要求のほかに,3ヵ条の掟法(じようほう)を決めていた。第1条は,これ以後は両畠山方のものを国中に入れてはならない。第2条は,本所領はもとのごとくにする。第3条は,新関などを設けてはならないという内容である。とくに注目されるのは,第2条であり,これについては《大乗院諸領納帳》に〈国掟法は直務たるべし,殊更大和以下の他国の輩,代官として入れ立つべからず〉と説明されている。この掟法の最大の目的は,他国の武士が代官となることを禁止し,本所領を直務とすることによって,自分たちが旧来のように荘官としての地位を確保しようとしている点である。翌86年2月13日には,宇治平等院で会合が開かれ,掟法の充実が図られた。その内容を直接に示す史料は残されていないが,月行事(がちぎようじ)の設置と半済はんぜい)の実施が定められたものと考えられている。このときから,南山城の支配は36人衆といわれる国衆が中心となって行われることになり,この組織〈惣国〉を支配するうえでの重要事項は,集会で決められるが,日常的な政務執行は月行事が行うことになった。集会の議題も月行事が調整した。半済というのは,寺社本所に入るべき年貢の半分を差し押さえて惣国運営の費用とするものであった。この半済権が本来は守護の権限であったことや,惣国組織の活躍が主として検断の面で目だつことから,国一揆は南山城における守護の権限を,国持ちにしようとしたものと考えられている。

 室町幕府は,このような守護権を排除し国持体制を維持しようとする動向を承認することはできず,はやくも86年3月には伊勢貞陸を山城国守護職に任命した。しかし,貞陸は南山城に入部することができなかったため,同年5月には山城国を将軍直轄地として,代官に伊勢貞陸をあてようとしたが,これも失敗した。ところが93年(明応2)にいたり,伊勢貞陸が守護職に補任されたときにはこれを承認,これをもって山城国一揆は解体したものと考えられている。したがって,山城国一揆は8年間にわたって南山城を支配したことになる。
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百科事典マイペディア 「山城国一揆」の意味・わかりやすい解説

山城国一揆【やましろのくにいっき】

戦国時代,山城国南部の地侍(じざむらい)を中心に国衆・農民が起こした一揆。1485年12月,応仁・文明の乱後,なお畠山政長畠山義就(よしなり)の両軍がこの地方で合戦を続けたため,国衆や農民が集会を開いて両軍の山城からの撤退,寺社本所領の返付,新関停止を要求。8年間にわたり三十六人衆(一揆指導者)による南山城の支配が行われた。国一揆は南山城における守護の権限を国持ちにしようとしたと考えられるが,のち国衆の間に分裂が起こり,1493年伊勢氏の山城国守護職就任を機に,一揆は終わった。→国一揆伊賀惣国一揆雑賀一揆加賀一向一揆
→関連項目宇治月行事後法興院記山城国

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山城国一揆」の意味・わかりやすい解説

山城国一揆
やましろのくにいっき

1485年(文明17)12月、南山城で地侍(じざむらい)・名主(みょうしゅ)を中心に一般農民が加わって起こされた一揆。京都の合戦に始まった応仁文明(おうにんぶんめい)の乱は各地に広がり、当時河内(かわち)や南山城では畠山政長(はたけやままさなが)・同義就(よしなり)両軍による戦乱が続いていた。ことに同年10月以来、両軍は南山城で対陣したまま戦況膠着(こうちゃく)状態に入ってしまい、そのため農民からは繰り返し人夫・兵粮米(ひょうろうまい)が徴発され、田畑は荒らされ民家は焼き払われた。このような状態に苦しめられた南山城の地侍や一般の農民たちは共同し、両畠山軍に南山城から撤退するように申し入れた。この申し入れは、『大乗院(だいじょういん)寺社雑事記(ぞうじき)』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人(こくじん)が集会し、一国中の土民(どみん)が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法(おきて)として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院(うじびょうどういん)で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。この組織は当時「惣国(そうごく)」とよばれ、その運営の費用は国中に半済(はんぜい)を実施することによって確保しようとした。しかし、この一揆の中心となった地侍たちは、それぞれ畠山義就に通じる古市(ふるいち)方の者と、畠山政長にくみした細川氏の被官に分かれており、この内部矛盾が激化し、1493年(明応2)伊勢(いせ)氏の山城国守護就任を認めることによって一揆は崩壊した。

[黒川直則]

『鈴木良一著『中世の農民問題』(1971・校倉書房)』『稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会)』『峰岸純夫編『土一揆』(『シンポジウム日本歴史9』1974・学生社)』『稲垣泰彦・戸田芳実編『土一揆と内乱』(『日本民衆の歴史2』1975・三省堂)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山城国一揆」の意味・わかりやすい解説

山城国一揆
やましろのくにいっき

文明 17 (1485) 年に南山城に起った国人一揆。応仁の乱 (67~77) で,畠山義就,政長の対立抗争は山城南部を戦場としたため,文明 17年 12月山城の 15~60歳の国人が集会を開き,これに農民も参加して一味同心し,両軍の国外撤退,寺社領の還付,新関 (しんせき) の撤廃,年貢の半済を決議し,三十六人衆による自治支配を打立てた。明応2 (93) 年までの約8年間,行政,警備一切を選挙によって選ばれた惣国月行事が行なった。しかし次第に指導的国人層が分裂し,それぞれ細川,畠山の被官となっていったため自治支配はくずれていった。 (→国一揆 )  

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旺文社日本史事典 三訂版 「山城国一揆」の解説

山城国一揆
やましろのくにいっき

1485年,山城国南部でおこった国人・土民を中心とする一揆(〜'93)
応仁の乱(1467〜77)後も南山城 (みなみやましろ) ・河内などで畠山政長と義就 (よしなり) が対立し,戦闘を続けたため,国人・土民が集会し,両畠山軍の退陣,寺社本所領の還付,新関の廃止などの要求を決議し,両軍を撤退させた。宇治平等院で国中掟法を制定し,三十六人衆の月行事により8年間山城一国の自治支配を行ったが,1493年内部対立のため瓦解した。

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世界大百科事典(旧版)内の山城国一揆の言及

【国一揆】より

…南北朝・室町時代に在地領主層が中央・地方における動乱への対応,および領主権確保を目的とし,契状を取り結ぶなどして地域的に連合した形態をいう。(1)一定の政治的意図をもって上から組織されたもの(九州探題今川了俊が南朝側勢力討伐のためにその軍事力として編成した面をもつ1377年(天授3∥永和3)の南九州国人一揆など),(2)新任の守護に軍事的に対抗したもの(1400年(応永7)信濃国人が守護小笠原氏と戦ったもの,後述の安芸国人一揆など),(3)山城国一揆のように,畠山氏両軍を追放して国人層による国内支配をおこなった事例,などがある。いずれも外部からの政治的契機によって形成されており,その意図が果たされたり,守護大名の領国支配が進展すれば解体する。…

【半済】より

…この半済給付権は,事実上守護の握るところであり,守護の領国支配にも大きな影響を与えたのである。注目すべきことは,かの山城国一揆が綴喜,相楽の山城国2郡に半済を実施したことである。これは国一揆が,一面では守護権を継承したことを物語っている。…

【山城国】より

…こののち,畠山氏が補任されることが多くなるとともに,畠山氏も山城国の在地武士を積極的に被官化する意図を示し,これが応仁・文明の乱(1467‐77)の一原因となった。応仁・文明の乱後も,畠山氏の山城国への影響が大きかったが,1485年(文明17)に山城国一揆が成立すると上(南)山城3郡(相楽,綴喜,久世)では93年(明応2)までの8年間,惣国の組織が自検断を行う国持体制が続いた。山城国一揆の崩壊後は,細川氏の山城国支配がしだいに定着していった。…

※「山城国一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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