山本勘介(読み)やまもとかんすけ

改訂新版 世界大百科事典 「山本勘介」の意味・わかりやすい解説

山本勘介 (やまもとかんすけ)
生没年:1493?-1561?(明応2?-永禄4?)

戦国時代軍師。〈勘助〉とも書く。《甲陽軍鑑》によれば,武田信玄に仕え軍師として活躍したが,川中島の戦で作戦失敗の責任をとり,69歳で戦死したという。講談大衆文芸,映画等によって有名であるが,実在したかどうかは不明。弘治3年(1557)6月23日付の市河藤若あて武田信玄書状に〈山本菅助〉の名が見えることから,しだいに実在の人物と考えられるようになっている。
執筆者: 山本勘介は《甲陽軍鑑》《北越太平記》などの俗書や講談に,短軀,跛足,眇眼の智将として描かれる。戯曲化は《信州川中島合戦》(1721年8月竹本座,近松門左衛門作)をはじめ《本朝廿四孝》(1766年5月竹本座,近松半二ら作)などの浄瑠璃が著名。《本朝廿四孝》では,慈悲蔵(後に上杉の軍師直江山城守)の兄横蔵を勘助の前身と設定している。歌舞伎にも諸種あるが,《川中島東都錦絵(あずまのにしきえ)》(1876年3月新富座,河竹黙阿弥作)の勘助討死の場が,5世尾上菊五郎の好演で評価を得た。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本勘介」の意味・わかりやすい解説

山本勘介
やまもとかんすけ
(1500―1561)

室町時代の兵法者。晴幸(はるゆき)ともいい、法名は入道道鬼(にゅうどうどうき)。讃岐(さぬき)(香川県)に生まれる。山口へ行き大内義隆(よしたか)に仕えたのち浪人し、武田晴信(はるのぶ)(信玄)に仕官。兵法に優れ、軍師として重用され、軍略、築城、甲州法度(はっと)の草案など、抜群の功績をあげた。1561年(永禄4)9月10日、武田・上杉の川中島合戦において「きつつきの戦法」を提案し、大激戦の結果、壮烈な討ち死にを遂げた。甲州流兵法の祖とされ、徳川の軍学者小幡景憲(おばたかげのり)によって勘介の名は全国的に広まった。架空の人物といわれたこともあるが、「市川文書」発見で実在が証明され、また『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』(山口県文書館)によって、山口で勘介の子孫毛利に仕えたことが明らかになっている。

[渡辺勝正]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本勘介」の解説

山本勘介 やまもと-かんすけ

1493?-1561 戦国時代の武将。
明応2年?生まれ。武田信玄(しんげん)の軍師。甲州流兵学の祖で永禄(えいろく)4年9月10日の川中島の決戦で戦死したとされる。享年69歳? 架空人物ともいわれたが,信玄の書状に菅助の名があり実在視されるようになった。「甲陽軍鑑」や講談では稀有(けう)の戦略家としてえがかれている。名は晴幸。号は道鬼斎。通称は勘助ともかく。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山本勘介」の解説

山本勘介
やまもとかんすけ

?~1561.9.10?

武田信玄の軍師として知られる。1543年(天文12)三河から甲斐にきて兵法に通じていたため重用され,61年(永禄4)川中島の戦で戦死したという。実在の人物かどうかは不明。弘治3年(推定,1557)6月23日付の晴信(信玄)書状に晴信の使者として「山本菅助」がみえ,この人物に兵法の大家という人物像が付加され,後世に伝えられたとも考えられる。

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百科事典マイペディア 「山本勘介」の意味・わかりやすい解説

山本勘介【やまもとかんすけ】

勘助とも書く。《甲陽軍鑑》等が伝える戦国時代の武将。甲州流兵法の祖といわれる。眇目(びょうもく),跛足(はそく)ながら兵法にひいで,武田信玄の軍師として活躍し,69歳で川中島の戦で戦死したという。武田信玄書状に〈山本菅助〉の名がみえることから,近年実在の人物と考えられつつある。

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