山田業広(読み)やまだ・ぎょうこう

朝日日本歴史人物事典 「山田業広」の解説

山田業広

没年:明治14.3.1(1881)
生年:文化5.10(1808)
幕末明治期の医者。字は子勤,通称昌栄,号は椿庭高崎藩(高崎市)藩医の家に生まれる。祖先在原業平につながるという。儒学朝川善庵に学び,医学を伊沢蘭軒に,また蘭軒没後は多紀元堅に師事した。さらに痘科池田京水に学ぶ。安政4(1857)年江戸の医学館の講師となり,文久2(1862)年将軍徳川家定に謁見。明治維新後は漢方存続運動の団体・温知社の社首にも就任した。臨床家としての手腕は高く評価され,考証医学者としての著書も多い。嗣子に業精(1850~1907)がいる。<著作>『九折堂読書記』『金匱要略集注』『素問次注集疏』『医学管錐』『経方弁』

(小曾戸洋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田業広」の解説

山田業広 やまだ-ぎょうこう

1808-1881 江戸後期-明治時代の医師
文化5年10月生まれ。家は上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩医。伊沢蘭軒,多紀元堅(もとかた),池田京水にまなび,江戸で開業。安政4年幕府医学館講師。維新後は東京神田に済衆病院をひらく。漢方医団体の温知社の中心として漢方の存続につとめた。明治14年3月1日死去。74歳。字(あざな)は子勤。通称は昌栄。号は椿庭。著作に「医学管錐」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山田業広の言及

【温知社】より

…1875年医師開業試験科目として西洋医学(いわゆる西洋七科)が課せられ,漢方医が制度上実質的に認められなくなったのに端を発して漢方医存続運動が起こった。その一つが温知社の設立で,79年3月10日に東京の漢方医山田業広らが同志をつのって東京に設立して全国に呼びかけ,機関誌《温知医談》を発行,さらに後進の育成のために和漢医学講習所(のちの温知医学校)を設置して運動を展開した。初代社主は山田業広,2代浅田宗伯,3代浅井篤太郎(国幹)と続き,全国に分社18を数えて意気盛んであったが,政府の既定方針は変わらず,しだいにその勢力を弱め,ついに87年1月20日全国大会を開催してその存続を討議するようになり,負債を会員有志が分担し病院を閉鎖するなどして再建をはかろうとしたが,機関誌は105号で廃刊(1889)となり解散した。…

※「山田業広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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